第161話 お断りするエリィ②


 巨大宣伝ポスターの許可、ファッションショー会場の確保。さらには転移魔法にまで話がおよび、こちらに利する方向へと内容が傾いてきている。これはいい兆候だ。


「こちらの目的は果たしたわね」

「はい。王国劇場が借りれるとは思っておりませんでした」

「犬の事務員さんに聞いたら、スケジュールがカツカツだったけどね」

「準備をすればどうとでもなりましょう」


 クラリスが頼もしく答えてくれる。


 王国劇場は首都グレイフナーで由緒ある多目的ホールだ。収容人数があまり多くないものの、一番街のグレイフナー通りにあって立地がよく、知名度が高い。ここでファッションショーをやれば、さぞ人が集まるだろう。しかも、通りを歩くのが困難になるほど観光客が押し寄せる魔闘会開催期間中だ。この場所を、朝から昼の三時まで借りれた意味は大きい。


「何も言っていなかったけど、クラリスは私がやることを予想していたの?」

「モデルを一般公募、というフレーズを呟かれていたので、コンテストのような催し物をやるのでは、と考えておりました。それが、洋服の宣伝ショーだとは思いもしませんでした。さすがお嬢様でございます」

「ふふ、でしょう?」

「はい、お嬢様」

「じゃあ準備は整ったから、四月二十日発売の『Eimy』の一ページを使って、モデルとデザイナーを募集する要項を載せましょう。巨大ポスターは『Eimy』の発売が終わったら『Mirrorsファッションショー・五月十二日(魔闘会中日)に開催!』に切り替えて魔闘会当日まで飾っておくわ」

「かしこまりました。ですが、読み手の準備期間が三週間になってしまいます。短い期間で、新規デザイナー達のデザインと縫製が間に合うでしょうか?」

「それとなく噂を流しておきましょう。ジョーとミサの話しによれば、就職希望の売り込みがひっきりなしに来ているみたいだし」

「話題作りになりますね」

「そうね。今後、こういった情報はある程度こちらで調整していくべきだと思うわ。流行に感化されている人達へ、『ホントかウソかは分からない。あのミラーズが新しいモデルとデザイナーを募集するとかしないとか……』みたいな噂を流しておいて、雑誌で発表すれば、ただ公表するより盛り上がるでしょうね」

「次から次へとよく思いつかれますねぇ。もともとお嬢様は賢いお方でしたが、このクラリス、心の底から驚いております」

「そうね。雷に打たれてから頭が冴えるのよ」


 嘘ではない。ほんとでもないけど。

 大丈夫だよね、と心配そうにアリアナが見つめてくる。

 アリアナは優しいよなぁ。両手を彼女の頭に置き、狐耳をもふもふしておく。


「お嬢様がお元気であれば、わたくしは何も申し上げることはございません」

「私もです、お嬢様」


 御者席の小窓を開けて、バリーが会話に割り込んでくる。やっと窓を開けることを覚えたか。いい加減、顔面をガラスに張りつけるアレは心臓が止まるからな。


「ありがとう二人とも。バリーは前を向いて運転してね」

「かしこまりました」


 一先ず、広告の許可と、王国劇場の借用はクリアした。これでスケジュールが組めるな。


「これからの流れを説明しておくと、雑誌に掲載する洋服の選定、新コーナーの打ち合わせ、巨大ポスターの作製の三つを同時進行。パンジー・サウザンド嬢に面会してこちらに引き込み、サークレット家の牽制を依頼する。頓挫した場合の代替案として、契約打ち切りになるとまずい縫製技師に先んじて会っておきましょう。ミスリル繊維の仕入れ値が上がって取引を打ち切るより、こちらとの取引継続を優先するほうが、利益が見込める、とプレゼンテーションすれば契約の時間稼ぎができるわ」

「ぷれぜん……?」

「ああ、要はお店向けの宣伝みたいなものね」

「なるほど。スケジュールに組み込みます。店の選定はこちらで行いますか?」

「“出張”が長かったからこちらの事情が詳しく分からないわ。クラリスにお願いするわね」

「ではそのように」

「その後は、雑誌の撮影をし、終わったらファッションショーの衣裳作りと、ショーの計画。会場で売り出す服も頼んでおかないと。それから私とアリアナは魔闘会に出場するから、訓練もしなくちゃね」

「そうだね…」

「おもしろいのぅ」


 俺とアリアナは顔を見合わせて笑い合い、ポカじいが目を細めて話に聞き入っている。


「お、お嬢様が……魔闘会に出場? それは本当でございますか?」


 クラリスがわなわなと震え、すがるような視線を向けてくる。


「ええ。お父様とお母様にはまだお話していないけど……」

「それはよろしゅうございます! たいっへんよろしゅうございます!」


 拳を握りしめ、馬車のガラスが割れんばかりにクラリスが絶叫した。

 あまりの大音声に俺とアリアナは席からずり落ちそうになり、ポカじいが手を取って咄嗟に支えてくれた。アリアナは狐耳をぺたんと倒して、目をびっくりさせている。


「お嬢様! 我がゴールデン家は魔闘会五連敗中でございます! お家がはじまって以来の屈辱的連敗ッ! どうにかしてエリィお嬢様に出場願えないかと気を揉んでいたところでございました!」

「まあ……」

「ぐおぅっ……ぐおぅ……っ!」


 御者席からバリーの嗚咽が聞こえる。余程悔しいのか、得意の「おどうだば」も言えず、席の手すりを拳で叩いている。二頭の馬が驚いていななき、すれ違う馬車の御者がぎょっとした顔を向けていた。とりあえず、泣くのはあとにして前を見て運転してほしい。


「旦那様にはわたくしから進言いたします! ご出場を決心していただき、全領民を代表して御礼申し上げます!」


 馬車内で深々と頭を下げるクラリス。

 改めて魔闘会の重要性を認識させるな。グレイフナー王国の貴族にとって魔闘会の勝敗は死活問題だ。しかもゴールデン家の領地はちょうど100個。今回負ければ領地数が二桁になってしまう。


「ご存知かとは思いますが、旦那様は定期試験761点の実力。ですがお身体がすぐれず、現在の実力は600点後半でございましょう。領地にいる私兵の中で、一番の猛者が688点。エドウィーナお嬢様、エリザベスお嬢様は戦いの訓練を受けておりませんし、エイミーお嬢様は戦いに不向きな補助魔法が得意でございます」

「領地経営している親戚で強い人はいないの?」

「おりません。実力は今の旦那様とどっこいどっこいでございます。奥様が出場できれば万々歳なのでございますが、諸々のご事情で魔闘会には常に不参加と相成っております。以上のことから、エリィお嬢様がご出場されなければ、負けは必至でございます。お嬢様こそゴールデン家の救世主ぅっ!」

「とはいっても、私だって絶対に勝てるか分からないわよ」

「昨夜、ポカ老師との訓練を見て、わたくしは確信いたしました。今のお嬢様ならば850点は取れるでしょう! わたくしの目に狂いはございません! 勝てます!」

「クラリスがそこまで言うのなら申し込み等の手続きは任せるわ。魔闘会の対策もあとでじっくりやりましょう。やるからには絶対勝つわよ。あと、とてつもなく顔が近いわ、クラリス」

「お任せください!」

「がんばろう…!」


 クラリスが喜色満面で頭を下げ、アリアナが小さい手で拳を作って、むんと気合いを入れた。

 俺が闘っているときの応援が恐ろしいな。バリーと使用人達が、応援しながら相手方に野次を飛ばしまくるのが想像に難くない。物騒なことになりそうだ。


「たまには魔闘会の見物もええじゃろう」


 ポカじいが飄々とした声色で言う。


「しばらくは落雷魔法なしの対人戦闘の訓練をしたほうがよさそうじゃの」

「お願いします」

「うむ。十二元素拳も次の段階に進むべきじゃろうな。よかろう」

「奥義を教えてくれるの?」

「ほっほ。まだまだ無理じゃの」

「あら残念」

「スケジュールを上手く調整しないとお嬢様がくたくたになってしまいますね。わたくしにお任せください」

「クラリスがいてくれてよかったわ」


 魔闘会まで、売れっ子アイドルばりの過密スケジュールになる。正直、自分一人でこれほどの時間管理は難しい。できなくはないがスケジュール管理だけで消耗しそうだ。


 クラリスにペンと手帳を借り、簡単にやることリストを作っておく。

 馬車が揺れるので、アリアナが横から手帳を支えてくれた。


 まずは最初に作ったリストを思い出し、書きだした。

 たしかこんなんだったはずだ。


 最優先、ダイエットする。

 その1、ボブに復讐する。

 その2、孤児院の子どもを捜す。

 その3、クリフを捜す。

 その4、怪しげなじじいを捜す。

 その5、日本に帰る方法を探す。(元の姿で)


 ダイエット、孤児院の子どもを捜す、怪しげなじじいを捜す、の三つはクリアだ。

 残りの三つに、新しい予定を追加するか。


 考えると、かなりやることが多いな……。

 重要度で『緊急』と『魔闘会まで』と『継続』に分け、『緊急』にだけ優先順位を付けておく。


『緊急』

 1、パンジー・サウザンド嬢を取り込む

 2、大口の縫製技師に会う

 3、雑誌の方向性を決める

 4、巨大ポスター作製


 三月前半にこの四つは終わらせておきたい。

 あとは、魔闘会までにやるべきことと、継続してやるべきことだ。


『魔闘会まで』

 ・魔闘会に向けての訓練

 ・ファッションショー用新商品の開発

 ・孤児院の子ども達の今後について


『継続』

 ・ボブに復讐する

 ・クリフを捜す

 ・新素材開発

 ・タイツの開発

 ・転移魔法の開発手伝い

 ・セラー神国の調査

 ・日本に帰る方法を探す。(元の姿で)


 ざっとこんなもんかな。進捗具合を見て『緊急』『魔闘会まで』『継続』変更が必要になりそうだ。細々した予定はクラリスと相談するか。


 忘れちゃいけないのが、子ども達の進路と住む場所だ。頭の良さそうな子は訓練して会計士や事務員として雇ってもいい。全員、魔法の適性はあるから、十二歳になったら魔法学校に通ってもらって、コバシガワ商会に就職してもらってもいいな。

 商会の資金がもっと集まったら、孤児院を経営しようと思う。ここまでくると孤児院の存在が他人事とは思えない。どんなにグレイフナーが栄えているとしても、孤児は出てしまうものだ。まさか異世界で孤児院の経営をしようと考えるなんてな。人間、何があるか分からないもんだ。


 あとは、セラー神国の動向だ。

 あいつらが何を企んでいるのか目的をはっきりさせ、対策を打ちたい。念のため、国王にはセラー神国の行いは話しておいた。あの感じからすると、だいたいの事柄は把握していたようだ。やはり、魔改造施設の襲撃から情報が漏れているらしい。


「前に話していた、諜報部の設立ってどうなっている?」

「わたくしの親戚に役者がおりまして、掛け持ちでやらせております」

「役者? それはいいかもしれないわ」

「ちょうどセラー神国で公演があると言っていたので、向こうの状況を見るよう言ってあります」

「最新の情報や雰囲気だけでも分かると助かるわ」


 諜報部は前から設立したいと思っていた。地球と比べて、ネットや通信機器がない異世界は情報収集が難しい。人づてにしか入ってこないため、他店情報や、他国情報を仕入れる部門は必須だろう。


「追加で新入社員を諜報部に数人割り振る予定です」

「あら! どれぐらい新入社員を確保したの?」

「二十五人です。追加の短期雇用で火魔法ができる魔法使いを十名ほど。今後、雑誌の発行部数が跳ね上がりますので、先に“複写コピー”ができる人材を囲っておきました」

「素晴らしいわね。さすがはクラリス」

「お褒めに預かり光栄です」


 嬉しそうな顔でクラリスが一礼する。優秀すぎて助かりまくるぜ。


「あ、そうそう。アリアナにもお願いしたいことがあるのよ」

「なに…?」

「コバシガワ商会でアルバイトしない? 確かアリアナは、近所の酒場でウエイトレスをしてたわよね。また学校に通いながら続ける予定?」

「そうだけど…」

「モデルになってほしいのよ」

「ん…?」


 彼女は首をかしげて、パチパチと瞬きをする。

 がたん、と馬車が揺れ、アリアナがこちらにもたれかかってきた。手帳を椅子に置き、それとなく狐耳をもふもふしておく。


「今のアルバイトよりお給料は弾むわよ。私の構想では、次の雑誌には獣人のモデルが絶対必要なのよ。お願いできないかしら」

「私にできるかな…?」

「できるわ! むしろあなたができないなら誰がやるの、って言う感じね! そう思うでしょう?」


 クラリスとポカじいに会話を振ってみる。


「さようでございますね。アリアナお嬢様は首都グレイフナーでも、一二を争うお美しい女性かと」

「ほっほ。アリアナはめんこいのぅ。尻もいい尻じゃ」

「そう思うでしょう! ポカじいはさらっとセクハラ発言しないでちょうだい」

「エリィのお願いなら…いいよ」

「まあ! ありがとう!」


 恥ずかしいから無理、って断られると思ってた。めっちゃ嬉しい。


「エリィも一緒にやるんでしょ…?」

「私も?」

「あれ、違うの?」


 きょとんとした顔でアリアナが見つめてくる。

 そうか。全然考えてなかったが、エリィがモデルになってもいいのか。他のモデルを集めることばかり考えていたから気が回らなかった。よく考えれば、可愛いしスタイルいいし、エイミーの妹だし、出ない手がないな。ちょっとばかし小っ恥ずかしいが、やるか。数ページの撮影ならエリィも赤面しないだろう。考えてなかった俺、アホすぎる。そんでもって、女になって異世界来てモデルやるとかどんなファンタジーだよちくしょう。

 本当なら、エリィがモデルをやっている姿をこの目で見たいところだ。


「ええ、一緒にやりましょう!」

「ん…」

「わたくし、五冊買います!」

「俺は十冊買うぞ!」


 アリアナがうなずいて、クラリスとバリーが早くも買い占めを企んでいる。いや、あんたらいつも近くにいるじゃん……まあ身内が雑誌に出るって言ったら買いたくなるのが心情ってもんか。バリーは本気で十冊買いかねない。あとで釘を刺しておこう。


「じゃあよろしくね、アリアナ」

「うん」

「獣人の服装にも革命が起きるかもしれないわよ」

「ほんと…?」

「ええ!」

「それはやりがいがある…」


 アリアナと手を取り合って、上下に振った。

 彼女のスカートから出た尻尾が、ふりふりと揺れている。


「お嬢様、このあとはどうされますか?」


 クラリスが興奮冷めやらぬといった様子で尋ねてくる。


「ミラーズへ行くわ。店がどれくらい変わっているか見たいの。あと、サウザンド家には手紙を出してくれたかしら?」

「はい、お嬢様。パンジー・サウザンド嬢宛に、すでに手紙を出してございます。差出人はミラーズとし、デザイナーのエリィお嬢様とジョー様の訪問許可を求める内容になっております」

「ありがとう。仕事が早くて助かるわ」

「おそらく、本日ないし明日には何らかの反応があるかと」

「それなら一度、家に帰って連絡が入っているか確認しましょう」

「その必要ございません。こうなるかと思い、ミラーズに飛脚を一名待機させております。店に着き次第、ゴールデン家へ確認に行かせます」

「手回しが良すぎて、クラリスなしでは生きていけなくなるわね」

「それは願ってもないことです」


 満足気にクラリスが笑うと、馬車が大きく旋回しながら大通りを曲がり、ミラーズがある路地へと入っていった。




     ☆




 首都グレイフナー、王宮から徒歩十分の場所にあるサウザンド家の邸宅。


 六大貴族であり、王国内の領地数順位二位の邸宅は、古めかしくも気品と風格に満ちている。門前を通過する街人が、敬意を払って一礼をしていく姿は数百年前から変わらぬ光景であった。


 歴代の白魔法師を輩出してきたこの家は、血筋からか、過去から現在に至るまで一人を除いて血縁者のすべてが「光」であった。レア適性であり、白魔法を使える魔法使いが貴重なこの世界で、サウザンド家が残した功績は煌めく星々のごとく輝いている。


 飾り気のない執務室にいる痩身の男も、もれなく光魔法適性であり、白魔法上級“万能の光”まで極め、冒険者協会の『奈落』攻略にも参加した強者であった。


 彼は、孫のパンジー・サウザンド宛に届いた書状を見て、過去に思いを馳せ、幾人もの怪我人を看てきた灰色の瞳を虚空へとさまよわせていた。


「まさかこのような形で関わりができるとはな」

「これも、契りの神ディアゴイスの囁きかと」

「……導きではないのだな」

「ディアゴイスは導きません。慈しみと厳しさを与えてくれ、愛の子ら、みずからの判断を促すだけなのです」

「放任主義のようなものか」

「ある意味では」


 神話に詳しい執事が丁寧にお辞儀をし、もったいぶるような遅々とした動作でレターカッターを差し出した。

 男は動作の遅さを気にしたふうもなく受け取ると、丁寧に手紙の封を開け、中から便箋を取り出した。美しい筆記体で文字が並んでいる。内容は思った通り、孫が熱を上げている件の洋服屋からであり、ゴールデン家の四女と、ミラーズのデザイナーがここに来る旨が書かれている。丁寧な文章で面会の許可を求めていた。


 何を思ったのか、男は唸り声とも咳とも取れる、くぐもった音を喉で鳴らし、深いため息をついた。


「ゴールデン家の四女……確か、光魔法適性者であったな。あやつに似ているのか?」


 あやつ、と呼んだ男の声が、わずかではあるが強張ったのを執事は聞き逃さなかった。彼はそれを踏まえたうえで回答をするべく思考を巡らせた。


「まったく似ておりません。垂れ目で、かなり太っているとのことです。行方不明になっておりましたが、どうやら無事に帰ってこれたようでございます」

「垂れ目か。ゴールデン家の血筋であるな」

「次女のエリザベス嬢は、あの方の特徴を色濃く受け継いでおります」

「そうか。いずれ、会ってみたいものだ」

「さようでございますか……」

「そのような顔をするな。アメリアに未練はない」


 その発言事態に未練があると、いつもの彼なら気付くはずだったが、認知できない娘であるアメリアとの繋がりが突如として現れ、しかもその子どもが家に来ることに狼狽を隠せなかった。


 若かりし頃、夢中になった女の顔が脳裏に蘇る。吊り目でキツイ性格をしていた彼女は、愛情に深く、芯の強い美しい女だった。ただの村娘であった彼女がアメリアを身籠った時点で、二人の恋は終わり、彼はサウザンド家を捨てるか、彼女と人生を歩むかの選択を迫られ、結果として家を取った。


 その選択に後悔はない。どんな状況であろうと、サウザンド家を捨てる選択など彼にはできなかっただろう。

 ただ、六十をこえた年齢になった今でも、彼女との時間を思い出すたび己の弱さを痛烈に感じ、虚無感が押し寄せてくる。

 アメリアが十二歳になりグレイフナー魔法学校に入学すると同時に、愛した女は死んだ。そのときも、彼はアメリアが無事卒業できるよう便宜を図るだけで、決して会おうとしなかった。どんな魔物と対峙するよりも、あの女に似ているアメリアに会うことが恐ろしかった。そして、女の死に顔を見て取り乱す自分を見られたくなかった。


「いかがされますか?」


 執事は、主であり、サウザンド家当主であるグレンフィディック・サウザンドへ一礼した。このまま彼を放っておくと、いつまでも懐古の念にとらわれ、追憶を止めぬだろう。


 その言葉に思考を戻され、グレンフィディック・サウザンドは灰色の瞳を執事へと向けた。彼の目に映る執事は、サウザンド家伝統の防御力の高い厚手の黒上着と黒ズボンを身に纏い、一分の隙もなく姿勢を正して佇んでいる。かれこれ四十年の付き合いになるが、執事の頭に白髪が交じっている様子を見つけ、自分も歳をとったな、と漠然と感じた。


「許可しろ。だが、まず俺のところへ呼べ」

「かしこまりました。スケジュール的に、本日の夕刻がよろしいかと」

「すぐに飛脚を送れ。パンジーにはそれとなく伝えておいてくれ」


 執事は一礼すると、素早く部屋を退出した。


 グレンフィディック・サウザンドは、いかんともしがたい喉の渇きを覚え、手元にあったグラスに手酌でワインを注ぎ、ぐいと一気に煽った。

 執務室の大きな窓へ目をやると、孫のパンジーが育てた色とりどりの花が見え、庭いじりをしている彼女の姿も見えた。愛らしく、珍しい桃色の髪をした孫は、どうやら懸命に雑草を抜いているようだ。


「アメリアが光適性であれば……」


 間違いなく自分の娘であるアメリアが、なぜ光適性でなく火適性なのかは分からない。過去にも未来にも、サウザンド家の男が女を孕ませ、光適性以外の子どもが産まれるなどあった試しがなかった。彼女を認知できない最大の理由はそこにあり、手をこまねいているうちにアメリアはシールドに入団し、爆炎のアメリアなる物騒な二つ名を手にして、気づかぬうちにゴールデン家のお坊ちゃんと結婚してしまった。


 花壇のわきで、孫のパンジーが桃髪を揺らしながら作業に没頭している。


「エリィ・ゴールデン……」


 グレンフィディックは、アメリアの子どもであり、四姉妹の中で唯一の光適性者である孫が、どんな少女なのか思いをめぐらせる。この出逢いにどのような意味があるのか考え、無駄な憶測をしている自分に気づいて、やはり老いたか、と首を横に振り、ただ感傷に浸っているだけだと思い直す。


 窓の外にいた愛する孫がこちらに気づき、スコップを持ったまま手を振ってきた。


 グレンフィディックはすぐに破顔して手を振り返す。花壇の前にいる孫のパンジーは手を振ってもらったことが嬉しかったのか、さらに大きく手を振った。後ろにいるメイドが転びやしないかとおろおろしている。グレンフィディックは苦笑して最後に一度手を振り、窓に背を向けた。


 彼の脳裏には、かつて愛した女の顔と、感情が高ぶると大きくなる愛らしい吊り目が浮かんだ。そして、月夜に浮かぶ女の裸体と甘い日常を思い出し、別れ際の、共に暮らす生活をあきらめた女の泣き顔が目の前を占拠した。何度瞬きをしても、女の顔は消えてくれなかった。


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