第9話

「もう行かれるかな。二人とも」

「ええ、もう長いこと、逗留しましたから」

 グレイとアリスティアが温泉宿を離れる日、診療所に立ち寄っていた。

 門番のロードさんはすっかり回復し、起き上がっていた。その皺だらけの顔に愛想のいい笑みを浮かべ、深々と頭を下げる。

「二人には助けられた。命の恩人だ」

「困ったらお互い様ですよ。ロードさん」

 礼を言われるのもむずがゆく、グレイは視線を逸らしながら頬を掻く。アリスティアもむずがゆそうに微笑み、首を振って言う。

「それに、礼ならたっぷり受け取りました。女将さんからも、宿代はいらない、と言われてしまいましたし。素敵な織物もいただきました」

「それにしても、助かったのは事実だからな。ありがとう」

 ロードさんは朗らかに笑ってくれる。そこに、彼の娘がお茶を手に現れる。

「少し、老人の話に付き合っていかんかね? 急ぎでもないのだろう?」

「ええ、では、ロードさんのご無理のない範疇で」

 グレイとアリスティアは頷き合い、椅子に腰を下ろす。お茶を口にしながら、少しだけ他愛もない話をする。

 温泉のこと、山のこと、天気のこと、ロードの若い頃の話。

 それについて、グレイもアリスティアも、相槌を打つだけだった。だが、それでロードは満足そうだった。穏やかな瞳の中で、どこか真剣な光を宿し、彼は朗々と語る。

 彼の娘は何も言わず、二杯目のお茶を支度し、差し出してくれる。

 ロードの話を聞き終えたのは、その二杯目のお茶を飲み終えた頃だった。

「――すまぬなぁ、二人とも。老人の昔語りに付き合わせてしまって」

「いえ、なんてことはありませんよ」

 グレイは静かに応えると、ロードは満足げに頷き、目を細めた。

「二人は、これからどのような未来を行くのかな」

 そのひっそりとした問いかけに、グレイはアリスティアを見やる。アリスティアもグレイを見つめ返して微笑み返してくれる。

 自然と二人は手を取り合っていた。そのまま、ロードに視線を戻す。

「一つ分かっていることは、二人で一緒に歩むということです」

「一人で歩くよりも、二人で歩く方が難しいときもあると思うがの?」

「それでも、助け合うことができます」

 グレイの目を、アリスティアが補ってくれたように。

 あるいは、アリスティアの心の弱さを、グレイが支えるように。

(これから、ずっと歩いていける。二人で、どんなときでも)

 そっと手を固く握り合う。それを見て、ロードは満足げに頷いた。

「そうか。ならば、何も言うまい」

 そう言いながら、ロードは寝台の横の机に手を伸ばす。そこに置いてある短刀を、そっとグレイに差し出す。

「これを、持って行ってくれるか。わしの使い古しだが」

「――いいのですか?」

「若人の、未来を切り開くために使って欲しい」

 その瞳は、信じられないほど強い光が宿っていた。その眼光に触れたのは、今までに一度しかない。〈紫電〉のウィリアム――彼と同じくらいの、強い視線だった。

 グレイはそれを丁寧に受け取る。そして、それをアリスティアへ手渡す。

「これは、アリスに預けます。僕には、彼女がくれた短刀があるので」

「それがよい。是非、役立ててくれ」

「はい、ありがたく頂戴します」

 アリスティアは押し頂き、それを懐に収める。それを、ロードはじっと見つめていたが、やがて柔和な微笑みを浮かべる。

 覇気がなくなり、穏やかな老人の笑みだった。

「老人の話に付き合ってくれて感謝する――二人とも、行く道に幸あることを祈る」

「……はい、ロードさんも、お元気で」

 別れだ。それを感じ取り、グレイは腰を上げる。アリスティアも静かに椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。

 二人が部屋を出る――それを、ロードは穏やかな眼差しで見送っていた。


「――父に会っていただいて、ありがとうございました」

 ロードの娘は、外まで見送りに出てくれた。

 何故か、その目が大きく潤んでいる。悲しみが今にも溢れそうな瞳。アリスティアはそれを見て怪訝に眉を寄せるが、グレイにはなんとなくわかった。

 ロードの瞳が、何よりも語り掛けてきたからだ――その、最期を。

「もう、長くはありませんか」

「はい。次の発作は、耐えられないだろう、と――お医者様が」

「え……っ」

 アリスティアが大きく目を見開く。女性は背後の診療所を見つめ、小さな声で続ける。

「お二人が取ってきた薬のおかげで、一命は取り留めました。ただ、それでもお父様の心臓はもう、限界なのです。あの薬があっても、耐えられないでしょう」

「お元気そうに、見えました……よね? グレイ」

「ああ、本当に。これからも長生きしそうなくらいに」

 だが、彼自身、自分の限界をよく分かっているのだろう。だからこそ、短刀を渡してくれた。アリスティアは、その短刀を握りしめる。

「――父は、喜んでいました。きっと、嬉しかったんだと思います。見ず知らずの者のために命を賭けてくれた、若者がいたことを」

 女性は頬に涙が伝う。彼女は静かに涙を流しながらも微笑み、そっと頭を下げる。

「ありがとうございました。私も父も、覚悟を決められました」

 その言葉に、グレイはやるせない吐息をこぼす。

「……そんなために、薬を取ってきたわけではないのですがね」

「ふふ、そうですね。ごめんなさい」

 風がゆるやかに吹き抜ける。山からの風に目を細めながら、グレイは頭を軽く下げた。

「――では、これにて、失礼します」

「はい、御達者で」

 グレイはアリスティアの手を握り直す。彼女は瞳を揺らし、診療所を見つめていたが、やがて吐息をこぼし、グレイと共に歩き出した。

 隣の宿の前では、女将が馬の手綱を握り、待っていてくれた。

「お二人とも、ありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。また、機会があれば」

「ええ、また、いらして下さい」

 女将の笑顔も、どことなく寂しそうだった。グレイは手綱を受け取り、ひらりとその馬上に飛び乗る。アリスティアに手を差し伸べ、彼女を引き上げる。

 アリスティアはぴったりとグレイの背に寄り添う。それに女将は嬉しそうに笑みをこぼした。

「では、またのお越しをお待ちしております」

「ええ、では」

 軽く会釈を返し、馬を進めて歩き出す。馬のゆったりとした歩きに揺られながら、グレイとアリスティアは、その村を後にした。


「――とても、居心地のいい宿と、村でしたね」

「ああ、食事も温泉もよくて――長く、泊まってしまったな」

 道中、二人はのんびりと言葉を交わす。

 照れくさくなり、火照った頬を吹き抜けた涼しい風が頬を撫でていく。心地よく目を細めながら、ちらりとグレイは村を振り返る。

 そこは、とてもいい場所だった。のびのびと過ごせて。

 だからこそ、二人もゆったりしながら言葉を交わし合い、今後のことを話し合えた。

 グレイは冒険者、アリスティアは密偵。

 立場が異なることは分かったものの、お互いの気持ちは揺らぐはずもない。グレイとアリスティアはしっかりと話し合い、今後の立ち振る舞いを考えた。

 結果、グレイはある決断をする。

「なんにしても、そのマスター、カイトさんに会わないとな」

「彼なら、きっと会ってくれます……けど、正気ですか?」

 アリスティアが不安そうに腰に手を回し、抱きしめてくる。耳元にかかった吐息をくすぐったく思いながら、グレイは頷いた。

「ああ、一旦、筋を通して対話しよう。あちらが共存を望むのなら、こちらだって魔物とは戦いたくないんだ……冒険者だけどな」

 思わず苦笑いを浮かべる。こんな甘えた言いざま、勇者や騎士団には通じないだろう。だけど、恐らくまだ見ぬ『彼』にも通じるはずだ。

 そんな確信が、アリスティアを通じて伝わってくるのだ。

「そして、お互いの思惑が一致すれば――手を組めるはずだ」

「……話し合いは、どうなるかは分かりません。けれど、きっと、マスターとグレイの思惑は一致します。マスターも、仲間想いですから」

「話に聞く限り、そうみたいだな」

「でも、そうなると――グレイは、冒険者を敵に回すかも」

「それも、状況次第だ。だけど、純人類主義の冒険者と、仲良くやっていくつもりはない」

 それはつまり、アリスティアも迫害の対象になる。それくらいなら、いっそ、敵に回った方がいい。誰を味方にするか、よく考えなければならない。

(二人で――生き延びるためにも)

 その決意を込めて手綱を握ると、ふと、アリスティアはそっと首に手を回してくる。その小さな掌がそっと頬に添えられる。

 横を向かされると、後ろからアリスティアがグレイの顔を覗き込んでくる。

 潤んだ瞳が熱っぽくグレイを見つめる。その真っ直ぐな瞳と共に、彼女は小声で囁いた。

「グレイ――ずっと、貴方の傍で支えますから。行く手に、どんな困難が待っていても」

「ああ、それはもちろん、僕もだよ。アリス」

 囁き返し、空いた手で彼女の頭の後ろに手を添える。そのまま、二人は見つめ合ったまま、唇を重ね合う。誓いを確かめ合うように、何度も口づけをする。

 それを祝福するように、青空が澄み渡り、風が穏やかに吹き渡る。

(きっと、どんな困難があっても、二人なら乗り越えられるはずだ)

 グレイはそう確信し、アリスティアは微笑みを返した。


「大好きです。グレイ」

「大好きだ。アリス」


〈第三部〉完

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