第8話
かぽん――と湯桶の音が響き渡る。
風情のある木の湯船。そこに浸かっているグレイは思わず吐息をこぼした。
「この温泉は――効くなぁ……」
野山を駆け、岩肌を這い上り、酷使した筋肉にはひたすらに染み渡る湯だった。まさに、生き返る心地といってもいい。
グレイは思わず吐息をこぼしながら、湯船の縁に寄りかかる。
こうして、温泉宿に戻り、温泉に浸かるまで生きた心地がしなかった。
戻りの野山も、魔獣に追い回され、アリスティアと手に手を取った逃避行。山を抜けたと思えば、息を整える間もなく、村の診療所へ。
どうにか間に合ったのか、老医はすぐに手当てを始め――苦悶に呻くロードの声が次第に収まりつつあった。ロードの娘にひたすら礼を言われながら、聞いていた医者の言葉だと『あとは本人の気力次第』ということ。
グレイとアリスティアは、ロードを心配しながらも宿に戻るしかなく――。
女将に勧められるまま、温泉に浸かって今に至る。
(――こうして思うと、かなり無茶をしたな)
湯につかった掌を持ち上げ、それを確かめる。しっかりと岩を掴み続けたために、びりびりと掌や腕が疲労を訴えてきている。
慣れない酷使をした。明日は筋肉痛かもしれない。
そんなことをぼんやり考えながら自分の腕を眺めて――。
彼女が入ってくる気配にすぐには気づけなかった。
からから、と乾いた木戸が開く音に、我に返る。
(――え?)
慌てて振り返ると、彼女と目が合う――あられのない姿をさらした、アリスティアと。
「あ、アリス?」
「ご、ごめんなさい、お邪魔します……」
アリスティアはもじもじしながら大事なところを手で覆い、浴室に入ってくる。それにグレイは慌てて視線を逸らす。だが、彼女の眩しいほどの肢体は目に焼き付いている。
脳の芯が熱くなるのを感じながら、グレイは早口に言う。
「あ、アリス、どうしたんだ? ここは男湯だけど……」
「女将さんに頼んで掃除中の札を、掛けてもらいました。今は、私たちだけです」
その控えめな言葉に気づく。アリスティアは、わざとグレイのところに入ってきたのだ。それが分かってもグレイは落ち着くことができない。たまらず視線を泳がせていると、彼女はすり足でグレイに近づき、小声で告げる。
「グレイ――こっちを、見て下さい」
その言葉が真剣で、だけど、どこか切なげで――グレイは、思わず視線を向ける。
そこには、アリスティアが立っている。
一糸まとわぬ裸。恥ずかしそうに頬を染めているが、その両腕はどこも隠していない。その身体を見せてくれている――異性の、曲線美の身体を。
胸はしっかりと膨らみ、腰はくびれていて、すらりとした脚は眩しいくらいだ。
奮い立つような女体に、思わずグレイの脳がくらりと熱くなる。
それでも、アリスティアから視線を逸らさない。それを、彼女が望んでいると分かったから。その視線が、何かを伝えようとしているから。
(けど……綺麗だ)
ごくり、と唾を呑みこむ。透き通るような肌も、体つきも、その顔つきも。
まるで、女神のように美しい。人間離れしたような、美しさ――。
「本当に、綺麗だ」
思わずそうつぶやくと、彼女は少しだけ寂しそうな笑みを浮かべる。
「――そうですね。そうなんです。それが、当たり前なんです」
「……え?」
思わずまばたきしたグレイの前で、アリスティアは深呼吸。膨らんだ胸が大きく上下する。そして、彼女は覚悟を決めた目つきでグレイを見つめる。
「グレイ――私は、人間じゃないんです」
しなやかな指先を、自分の胸に当て、はっきりとした口調で彼女は続ける。
「私は魔物。人間に擬態し、男を篭絡する魔性の妖精――フェイです」
「……フェイ」
口の中で繰り返す。聞き覚えのない魔物だ。
だけど、確かにその言葉は全て、腑に落ちる点だった。
アリスティアは、人間の事情に疎かった。時折、常識知らずな動きをする。身体能力も、グレイの動きについてくれるほどにずば抜けている。
魔物にしては、身体能力は低いとは思う。けど、人間にしては高い。
それらは、エルフ村で育てられた影響だと、ずっと思っていた。
けど、今日の出来事は、決定的だった。完全な闇の中で動ける彼女――それは、人間の目では決してあり得ないことだ。
どんな優れている人間でも、暗闇の中では目は利かなくなるのだから。
「……ごめんなさい。グレイ。私は、貴方のことを騙していました……」
懺悔するように、彼女は睫毛を震わせて視線を下げる。身を隠すことなく、その場で彼女は膝をつき、頭を垂れる。
それを見て、グレイは――。
(どう、伝えたものかな……?)
特に、ショックでもなかった 。
騙したのは、事実かもしれない。だけど、そうは思わない。
驚きも落胆も、特にない。ただあるのは、納得。
(ああ、そうなんだな……って感じしか、しないなぁ)
どこか、胸のどこかですっと収まったような気分だ。少し迷いながら、グレイは口を開く。
「――アリスティア、ひとまず……温泉に入ろうか」
「……え?」
アリスティアは恐る恐る視線を上げる。何か言われるのを怯えているかのように、瞳が揺れている。その彼女に頬をかきながら重ねて言う。
「身体、冷えるだろう? 一緒で良ければ、風呂に入って話そうか」
「えっと……いい、のですか?」
その意味は、二重の確認が込められているようだった。
風呂に入っていいのか、という問いと、一緒にいていいのか、という問い。それをまとめて応えるように、グレイは軽く肩を竦めて言う。
「アリスティアは、僕の相棒だからな」
「……あ……」
アリスティアは目を大きく開き、やがて嬉しさが込み上げるように、その瞳を潤ませる。小さく彼女はこくんと頷くと、立ち上がって風呂の中に足を踏み入れた。
アリスティアが隣に腰を下ろす。ほぅ、と彼女の吐息が耳朶を打つ。
グレイはそれを聞きながら、ゆっくりと湯船に浸かり直す。彼女の裸体が視界に入らなくなったので、少し気分も落ち着いてきた。
(見たくないわけではないけど……こう、覚悟をしていないと心臓に悪いな)
特に、アリスティアの肢体となると――思い出すだけで、顔が熱くなってくる。
グレイは深呼吸を一つ挟みながら、ちら、と彼女の横顔を見やる。
「しかし、魔物なのか。まぁ、納得といえば、納得だけど」
「……そう、なのですか?」
ぱっちりとした瞳に、きょとんとした疑問を浮かべる。ん、とグレイは軽く頷く。
「一緒にいれば、それも少しずつ分かってくる。改めて言われなければ、気づきはしないだろうけど。それくらい、アリスティアは人間みたいだから」
「……私たち、フェイの取り柄は、それですから。完全な人間への擬態。それも、絶世の美男美女に姿を形どります」
「そっか。でも、どんな姿でもアリスは、アリスだからな」
「ふふ……っ、ありがとうございます」
わずかに緊張がほぐれたように、アリスティアは囁き返す。それを聞きながら、グレイは気づいたことを踏み込んで指摘する。
「でも、アリスの性格として、無駄な嘘はつかないと思うんだ……多分、何か事情がある。魔物が擬態し、人間の街に入り込む、理由が」
「……そ、れは……」
アリスティアは口をつぐむ。気まずそうに視線を泳がせる彼女に、グレイは身体の向きを変え、しっかりと彼女に向き直る。
「嫌なら詮索はしない。だけど、どんなことがあってもアリスの味方だよ。僕は」
「――グレイ……」
アリスティアは苦しそうに吐息をつく。まるで、何かの狭間で心が揺れているかのように。板挟みになった心に、唇を噛みしめ――やがて、彼女は小さくこぼす。
「……お話、します……もう、グレイに、嘘はつきたくない、から……」
そして、彼女は絞り出すように告げる――グレイが、予想だにしなかった事実を。
「――ダンジョンの、密偵?」
アリスティアが口にした言葉を、グレイは混乱しながら受け止めた。
エルフ村の地下には、広大なダンジョンが広がっていること。そのダンジョンマスターの命を受け、アリスティアは召喚された、ということ。
そして、グランノールに潜入し、騎士団や冒険者の情報を収集していたこと。
(――そういえば、勇者が来る、というときにやたらとアリスは食いついたときがあったけど……それも、多分、情報収集の一環……)
そして、エルフ村のダンジョンを守るために、彼女は暗躍し続けたらしい。
ソフィーティアやシズクも、ダンジョンの一員――かなり、大掛かりな計画だ。
「その計画――トロイ計画に、私は貴方を……利用、していたんです」
絞り出すような声と共に、アリスティアは瞳を大きく揺らした。潤んだ瞳からぽろり、と大粒の涙がこぼれだす。彼女は顔を伏せ、懺悔するようにか細い声を出す。
「――ごめんなさい、グレイ……ごめんなさい、マスター……みんな……」
その声を聞くだけで、グレイの心も引き裂けそうなくらいに痛んだ。
アリスティアは、グレイのことを利用しようとして、利用したわけではない。ただ、結果的にそうなってしまっただけ。
だけど、そのことが彼女を苛んでいる――。
涙をぽろぽろと流すアリスティア――その弱々しい姿に、グレイはたまらず手を伸ばした。そのまま、その華奢な身体に腕を回し、抱きしめる。
しなやかで、柔らかい身体がグレイの腕の中にある。細いのに、弾力に満ちた女体。だけど、グレイは狼狽えることなく、落ち着いて抱きしめられる。
今は、ただ、彼女にいつものように、笑って欲しかったから。
泣く子をあやすようにそっと濡れた髪を撫でながら、耳元で囁く。
「ありがとう。話してくれて――それと、謝る必要は、ないよ」
「ぐ、れい……?」
掠れた声だった。ぐすっ、としゃくりあげたアリスティアが濡れた瞳でグレイを見つめてくる。その目を見つめ返し、間近な距離で囁く。
「言っただろう。どんなことがあっても、アリスの味方だって」
「で、も、私は貴方を利用して――」
「僕は、気にしていない」
はっきりと告げる。ただの、事実を口にするように。
その気持ちを込め、アリスティアの目を見つめながら、グレイは続ける。
「アリスは、アリスだ。アリスが密偵であっても、それは変わらない。僕が、アリスに対する気持ちも、揺らぐことはないんだ」
「グレイ……」
アリスティアの瞳が揺れる。食い入るように、グレイの目を見つめている。
そこにはすでに切なげな哀しみはなく、どこか熱っぽく濡れていた。繋ぎ合った視線の間を、二人の感情が行き交う。グレイは自然と口にした。
「僕の妻に、なってくれないか。アリスティア」
言いながら思う。我ながら突然の求婚だ。だけど、自分の気持ちを偽らない、真っ直ぐな気持ちだった。
(思惑とか利害とか、全部関係なく――それらもひっくるめて、アリスの傍にいたいから)
その言葉をアリスティアは目を見開き……やがて、じわりと瞳を潤ませる。感情が溢れ出すように瞳を揺らしながら、絞り出すような声で答えてくれる。
「はい、なります。永久に、貴方の傍にいたいから」
その感情が滲むような声に、迷いはなかった。グレイは小さく微笑みながら、その頬に手を添える。
「――考えないんだな」
「考えるまでも、ないです。全てを受け止めてくれたグレイですから」
彼女は少しだけ恥ずかしそうに囁くと、グレイの肩に唇を押しつける。そして視線を上げた彼女は目尻を緩め、グレイを見上げる。
嬉しそうに表情は緩み切り、潤んだ瞳から涙がぽろりとこぼれる。
だけど、それは哀しみの涙ではない。別の感情が、あふれ出しているのだ。
「ありがとうございます。グレイ――貴方の、妻になれることを、心から嬉しく思います」
「僕も、ありがとう。何があっても、アリスの傍で支えるから」
その言葉と共に、二人は顔を近づける。そのまま、そっと唇を重ね合う。
今度は、わずかな口づけではない。長く誓い合うように、キスを続ける。その熱がじんわりと伝わってきて、頭が蕩けそうだった。
やがて、二人は唇を離すと、思わず笑みをこぼし合う。
だけど、今までみたいにぎこちなくなることはない。二人はそのまま、確かめ合うようにキスを繰り返しながら、その温泉を堪能するのであった。
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