第7話

 岩肌は、ほとんど垂直の壁だった。

 だが、風雨にさらされているせいか、ごつごつとして足掛かりは多い。ぱっと見ただけでも、目的の月光草が生えているところまではスムーズに行けそうだ。

 グレイは深呼吸をしてから、しっかりと最初の足掛かりを定める。

 そのまま、そろり、そろりと壁を這うように降りていく。

 しっかりと掌で岩のとっかかりを掴みながら、次の足を下ろし、引っ掛かるところを探る。下から吹き上げる風に身体が揺れ、冷汗が滲む。

(下に視線を向けるな……)

 足を踏み外せば、奈落の底なのは目に見えているのだ。だが、谷底から吹きつける風が、恐怖を誘う。わずかに、グレイの呼吸が乱れる。

 動きを止めて深呼吸――思い出すのは、唇に宿った感触。

 重なったのは一瞬だけ。だけど、その熱く感じた、優しい温もり。それを思い出すだけで、四肢に力が戻ってくる。恐れは、もう吹き飛んでいた。

 唇を引き締め、足を再び動かす。一歩ずつ、しっかりと確かめる。

 確かに体重を預けられる部分を探し、気を抜かずに一歩、一歩。

 長い時間をかける。息が詰まりそうなくらいの、時間だ。それでも、唇に残るおまじないに縋るように、あきらめずに足を動かしていき――。

 やがて、足が地面に、触れる。

「――よし」

 安心の吐息をこぼし、下を確かめる。そこはわずかな足場の岩棚。足元には可憐な花がたくさん生えている。

(確か、花が咲いているのは採らずに、咲いていないものを――だったな)

 手早く足元に生えている草を摘み取り、腰のポーチに収めていく。いっぱいに詰めれば、一袋以上にはなる。しっかりと搔き集めてから、上を顧みる。

 そこでは、アリスティアが不安そうな顔つきで見守っている。

 グレイは軽く手を挙げて無事を伝えてから、深呼吸して掌を見やる。

(ここからは登り――下りよりは楽、だが……)

 神経を使ったせいか、掌が痺れている。慣れない握力を酷使したせいだ。

 疲労に耐えながら、登るしかない。深呼吸をしてから、戻りの一歩を踏み出す。しっかりと上の岩を掴み、足を引っかけ、慎重に一歩ずつ。

 焦らずに、しっかりと登れば、必ず――。

 そう思った瞬間、不意に視界が暗くなった。

 一瞬、訳の分からない恐怖が襲う。息を詰め、しっかりと岩を掴む。そして、ゆっくりと辺りを探り――気づく。


 月明かりが、なくなった。


 どうやら、分厚い雲に隠れてしまったようだ。

 今まではわずかな明かりのおかげで、岩のとっかかりが目視で判断できていた。だが、今は完全な闇だ。どこに何があるか分からない。

(――一旦、足場まで戻るか?)

 そう思いかけ、いや、と首を振る。大分、上まで登ってしまった気がする。ここで下がるうちに足を滑らせれば、そちらの方がぞっとしない。

 だからといって、このままじっとして雲が晴れるのを待つべき――いや。

(いつ、雲が晴れるか分からない上に、今もロードさんが、苦しんでいる……!)

 一刻の猶予も、ならない。グレイは深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着ける。

 そして、五感を研ぎ澄ませながら、さらに頭上へ手を伸ばす。

 真っ暗闇の中の、ロッククライミングが、幕を開ける。


 目視が使えないことで、グレイの動きは鈍った。

 目はわずかに慣れて、なんとなく輪郭が見える、気がする。だが、遠近感は定まらない。何より、闇が圧迫するような恐怖を与えてくるのだ。

 息が詰まる。伸ばした手に触れる感覚が、いかにも頼りない。

 岩肌を手で這わせ、とっかかりを探る――その間、もう片方の手は体勢を保持する握力を使い、徐々に消耗していく。

 グレイの手にはいつの間にか、汗が滲み始めていた。

 心臓もどくん、どくんと強く鼓動を脈打つ。さらに、真下から吹き付ける風の、低く唸るような音がさらに恐怖を掻き立てていた。

 身体が、徐々に冷えていく。唇の温もりを思い出そうにも、手が震えてくる。

(く、そ……アリス……)

 真上の常闇の中に、手を伸ばす。奈落から這いあがろうと、精一杯の手を伸ばし――。


「グレイ」


 不意に、その手に柔らかい何かが触れた。小さな、手の感触。

 それにグレイの呼吸が一瞬、止まりかける。

(もう登り切った? いや、そんなはずは……)

 一瞬の困惑。その間に、闇の中から伸びてきた手はしっかりとグレイの手を掴んで引き上げる。そのまま、近くでアリスティアの声が響いた。

「そこの岩を掴んでください――これです」

 手が引っ張られ、出っ張った岩が触れる。それを掴むと、身体がしっかり安定した。身体を持ち上げ、もう片方の手をゆっくり上に伸ばす。

「そこを、少し右――そう、その岩です」

「あ、アリス……?」

「はい、グレイの傍にいます……本当に、私がいないとダメですね。グレイは」

 くすくすと笑うような声は、グレイの傍から聞こえていた。聞き馴染んだ、優しい声。それに安心すると同時に、戸惑いが込み上げてくる。

「アリス、どうして――」

「明かりがなくて、困っているのでは、と思いまして」

「それは……そう、だけど、アリスも危ない……」

「大丈夫ですよ。それより、今、視界が利かないグレイの方が危ないです」

 それにはぐうの音もでない。だが、とグレイは身体を上に引き上げながら訊ねる。

「アリスは、見えているのか? この真っ暗闇の中」

「……はい、見えます。そういう、目を持っていますから」

「目を、持っている?」

「……私の目は、人間のものよりもよいものです。先を、見通せます」

(――その言葉って、もしかして……)

 意味するところに気づき、グレイは思わず黙り込む。だが、吐息をつくと、掌に力を込めた。

「議論している余地はないな。頼む、アリス――僕の、目になってくれ」

「もちろんです。グレイ。右手を上に。もう少し……そこです。それを掴んで」

「ああ」

 伸ばす手は手探り。だけど、迷いはない。

 アリスティアのことを疑うはずはないのだ。迷いなくそれを掴むと、身体を引き上げる。そのまま、代わりの左手を伸ばす。

「もう少し左で、下……そこです」

「これか、よし」

「右手はその右真横に」

「ああ、こいつだな」

「足はその両手の真下のあたりを――」

 アリスティアも傍を登りながら、的確に声を飛ばしてくれる。それに励まされ、グレイはぐんぐんと上へと登っていく。

 降りるときは長く時間がかかったように感じたが、今はすぐに登れる。

 やがて、アリスティアは吐息をこぼすと、するりと上に登っていく。

「もうすぐです――右手を、伸ばして下さい」

「ああ――」

 迷いなく、真上に手を差し伸ばす。そして、虚空を掴むように掌を握り。

 暗闇の中、差し伸べられたアリスティアの手を掴む。

 力強く、ぐっと手を引かれる。それに任せて、グレイは一気に崖上に這い上った。

「――よ、しッ!」

 四つん這いで前に進み、肚の底から吐息をこぼす。視線を上げると、暗闇の中でしゃがんだアリスティアと目が合った。心配そうに、顔を覗き込んでくる。

「大丈夫ですか? グレイ」

「ああ、おかげで助かった……死ぬかと思った」

 ばくばくと心臓が暴れている。全身から汗が滲み出ていた。手が、思い出したように震えている。その掌を握りしめていると、その肩にそっと手がかかる。

 ふわり、と身体が温かい何かに包まれる――抱きしめ、られている。

 甘酸っぱい匂いが鼻先を掠める。アリスティアの香りだ。

 その温もりで不思議と落ち着き――鼓動が、静かになっていく。

「――よく、頑張りました、グレイ」

 その囁く声は、限りなく優しく、包み込むような愛おしさが滲み出ていて。

 その言葉と共に、わずかに湿った感触が頬に触れた。

 唇に触れたのと、同じ感触。それのおかげで、じんわりと身体に熱が戻ってくる。深呼吸をしながら、グレイは顔を上げる。

「あ、ありがとう……アリス。本当に、助かった」

「いえ……まだ、礼を言うのは早いです。グレイ」

 アリスティアは身体を離すと、わずかに真剣な口調で言う。暗闇でも、彼女が真面目な顔をしているのが、なんとなく分かる。

 グレイは頷きながら腰のポーチを確かめ、ゆっくりと立ち上がる。

「急いで戻ろう――まだ、暗いな」

「分厚い雲が、覆っています。しばらくは晴れません」

 どうしますか、と言いたげな口調。グレイはきっぱりと言葉を返す。

「それでも、急ぐしかない」

 真っ暗闇の森の疾駆。視界が利かない中で、それは明らかに危険だ。

 だが、グレイはためらわない。何故なら、信頼できる、愛しい人がいるから。

「アリス、僕の目になってくれ」

「はい、もちろんです。グレイ」

 すぐに言葉を返してくれるアリスティア。その声を頼もしく思いながら、グレイは深呼吸し、森の方へ足を向ける。その隣に並んだ彼女が、グレイの手を握った。

「では、一緒に駆けます――準備はいいですか?」

「当たり前だ。容赦なく駆けてくれ」

「分かりました。行きますっ!」

 そして、二人は頷き合うと、真っ暗闇の森の中を一気に駆け抜け始めた。

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