第6話

 それは、宿の隣――そこにある、診療所から聞こえていた。

「お父さん、しっかり!」

 若い女性の悲痛な声と、村人たちの話し声が響く中、グレイとアリスティアはそこに駆け寄る。そこにいる、心配そうに眉を寄せる女将に声を掛けた。

「女将さん、これは……?」

「あ、ああ、お客様、失礼しました……実は、門番をしている者が、急に倒れまして」

 ここへ案内してくれた親切な門番のおじいさん。その姿が脳裏に過ぎる。

(そういえば、苦しそうに咳をしていたが……)

「……様子の方は、どうなんですか?」

「それが……胸を押さえてずっと苦しんでおりまして……」

 女将は悔しそうに唇を噛みしめ、吐息をこぼす。だが、すぐに笑みを浮かべてグレイたちに振り返った。

「お客様にはご心配をお掛け致しますが……差しさわりが出ないようにいたしますので」

「いえ、こちらは気になさらず。逆に、お手伝いできることがあれば……」

 グレイはアリスティアと頷き合いながら、女将に申し出る。

 その声にわずかに女将は瞳を揺らした。わずかに悩むように視線を泳がせ、やがて唇を引き結んで顔を上げる。

「――厚かましいかもしれませんが、お願いがございます。実は……」


「特効薬、ですか」

「うむ、いわばそのような薬があるのだ。月光草と言うてな」

 診療所の外。そこに一人の白衣の老人は姿を現すと、しわがれた声で告げた。老医はグレイを見つめ、腕を組んで淡々とした声で続ける。

「希少な薬草だ。値段が高く、この診療所には在庫がない。さらに、鮮度も落ちやすいのが難点でな。ロードの心臓には元々持病があったが、希釈した薬でだましだまし治療していた。それに、無理が出た、ということだの」

「では、その月光草があれば……」

「うむ、心臓は復調に向かうはずだ。ただし、場所は――この、山の上だ」

 老医は指でぐいと背後を示す。それは、集落の後ろにある、そびえ立つ大きな山の峰々。ランクルス山脈だ。

「魔物が出る上に、真夜中。熟練の狩人だとしても、魔獣に喰われてしまう。危険だから、誰も取りに行けん。あんたたちが、仮に腕に自信があるのなら、お願いしたい」

 グレイはその山を見上げ、ごくり、と思わず唾を呑みこむ。

 真夜中の魔物の領域ほど、危険なところはない。もちろん、危険と言うだけではなく、未踏領域をほぼ灯りのない状態で動かなければならないからだ。

 松明などつけて移動すれば――魔獣の、格好の餌だ。

 シャドウウルフなどに囲まれ、すぐに食い殺されてしまうはずだ。

「無論、無理にとは言わんよ。わしも、二次被害など御免だからな。腕に自信がないのなら、聞かなかったことにしてくれて構わない」

 そう告げる老医の言葉に、グレイはアリスティアを振り返る。

 彼女は澄んだ目つきでグレイを見つめ返してくれる。信頼を込めた、その真っ直ぐな視線に頷き返し、老医に向き直る。

「いえ、行きます。ランクルス山脈に、どこかにあるのですね」

 そのグレイの言葉を聞いた老医は目を見開いたが、すぐに口角を吊り上げる。

「ああ、月光草は、月光が降り注ぐ場所のどこかにある。一袋あれば十分だ」

「分かりました――アリス、すぐに装備を準備して、出発だ」

「はい、お供します。グレイ」

 こくん、とアリスティアは迷いなく頷いてくれる。それをありがたく思いながら、グレイは視線を背後の山に向ける。

 その山には、燦然と月光が降り注いでいた。


 山肌を疾駆する。

 それはグレイには慣れたことだった。

 元々、南方集落で狩人の一族として生きてきた。健脚だけは、誰にも負けるつもりはない。わずかな月明かりだけを頼りに、グレイは駆ける。

 足元には倒木、茂み、大岩。道などがあるはずもない。

 その中で的確に足場を見定めながら、駆け抜けていく。

 狩人としては朝飯前の動き。だが、他の冒険者には到底、真似できないだろう動き――。

 だが、それにアリスティアはぴったりと動いて続いていた。

 雌鹿のように、軽やかにグレイの後ろを続く。汗一つかかず、涼しい顔で。

 それを、グレイは頼もしく思いながら視線を巡らせ、辺りを伺う。

「――アリス、この辺は生い茂っている。もっと奥へ行こう」

「そうですね。もう少し斜面を登った先にありそうです」

 隣に並んで駆けるアリスティアは頷き返し、ふと、その端正な顔つきに緊張感を浮かべる。

「グレイ……後ろから来ています」

「やれやれ、送り狼か?」

「そんなところですね……どうしますか」

 その言葉にグレイは足を止めず、腰のポーチから革紐を抜きながら即断する。

「立ち止まっていられない。近づいたら、相手にする。アリス、十歩まで近づいたら合図してくれ。それで、僕がなんとかしよう」

「了解しましたっ!」

 二人で一息に沢を飛び越える。数秒遅れ、後ろから荒い着地音が聞こえる。大分、近くまで接近している。グレイは駆けながら、足元の石を拾い上げる。

 やがて、その後ろに気配が大きく近づき――。

「――十歩ですッ!」

「応ッ!」

 その鋭い掛け声と共に、グレイは振り返った。革紐に石を巻きつけ、即席の投石器で振り放つ。ごっ、と鈍い音と、きゃんっ、と甲高い悲鳴。

 それを聞き遂げる間もなく、グレイは石を拾い上げながら駆け続ける。

 アリスティアは背後を伺いながら軽快に倒木を乗り越え、振り返りざま叫ぶ。

「十歩!」

「ああ!」

 グレイも倒木を前方宙返りで飛び越えながら、上下逆さまの姿勢で石を鋭く放つ。風切り音と共に放たれた石礫は、紛れもなく闇の中で着弾。

 ひらりとグレイは着地。そのまま速度を緩めることなく、疾駆していく。

 それにアリスティアが嬉しそうに声を上げた。

「さすが、グレイ! お見事です!」

「アリスのサポートが的確なおかげだよ。おかげで、特に狙わずに石を投げているだけで、当たる」

 グレイは、十歩先に届くように石を投げているだけなのだ。アリスティアの掛け声を全く疑わず、敵を視認することなく、真後ろへただ投げ続ける。

 そのおかげで、二人は速度を緩めることなく、山肌を一気に駆け上っていける。

 徐々に、木々の密度も薄れ、さらに追手の気配も遠ざかっていく。

(――あきらめてくれたみたいだな)

 グレイはほっと一息つきながら岩を飛び越える。アリスティアもひらりと岩を飛び越してしなやかに着地、グレイの横を駆けながら目を細める。

「向こうは……崖、でしょうか」

「ああ、少し用心して進もう」

 視界が拓け、徐々に見えてくる前方。足を緩めて近づいていくと、不意に一気に視界は広がった。想像通りというべきか、そこは崖だった。

 向こう側には、絶壁の山肌。峡谷の真上に出たらしい。

 吹き上げる風に、髪をなびかせながらアリスティアは目を細める。

「――断崖ですが、ここなら十分に月光が当たりますね」

「そうだな……見当たるかな」

 グレイとアリスティアは二人で崖の縁で真下を見下ろす。谷底は気が遠くなるほど小さく見える。わずかな月明かりの中で目を凝らし――。

「――グレイ、あれ……」

「あ……っ!」

 アリスティアが指さし、グレイもまた気づく。その指先にある、小さな花々。老医の言っていた外見とも一致する。だが、それは絶壁のかなり下の方だ。

 グレイは断崖をちらりと見る。凹凸はかなりある。そこに手や足を引っかけながら下がっていけばいけなくはないはずだ。

(――よし)

 ごくり、と固い唾を呑み下し、覚悟を決める。腰に佩いた剣を外しながら、アリスティアを振り返る。

「ちょっと下に降りて取ってくる。辺りを見ていてくれるか?」

「いえ、私が行った方が身軽でいいのでは……?」

 アリスティアは心配そうに告げるが、グレイはきっぱりと首を振る。

「危険を負うなら、僕が適任だ。僕は山に慣れているから。それに――危険なところに、好きな人を送り込みたくは、ないから」

 グレイは、アリスティアを真っ直ぐに見つめて言う。

 アリスティアは、ぱっちりとした目を見開く。その固まった瞳には感情の色がめまぐるしく入れ替わり――そして、切なげに吐息をこぼして微笑んだ。

「――ずるい、です。グレイ。そういう言い方は」

「ごめん、アリス」

「それに、そういう言葉はこんなときに聞きたくないです」

「じゃあ、無事に戻ってからもう一度、言う。それなら、どうだ?」

 グレイが明るく笑って声を返すと、アリスティアはじっと彼の目を見つめ返す。薄く朱に染めた頬で、彼女はこくんと頷いて一歩、距離を詰めてくる。

「絶対ですよ。グレイ。貴方の言葉で、聞かせて下さい」

「……ああ、必ず」

「分かり、ました――じゃあ、これは」

 そっと、また一歩。気づけば、アリスティアはグレイの目の前に歩み寄っていた。長い睫毛が揺れているのが分かる。切なげに揺れた瞳には、グレイしか映っていない。

 そして、彼女は軽く背伸びをしてその目を閉じる。

 淡い感触が、唇に広がった。

「これは――おまじない、です」

「……あ……」

 そっと一歩下がり、アリスティアは照れくさそうにはにかむ。一歩遅れ、グレイは何をされたか気づき、頬がかっと熱くなる。

「これは……無事に、戻らないと、な」

「はい、絶対ですよ」

 アリスティアが切なげに眉を寄せる。どこか縋るような口調に、グレイは深呼吸をしてから頷き返す。手を開け閉めしながら、彼女を見つめ返し、力強く請け負った。

「必ず、戻ってくる」

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