第9話
ローラが、触手に囚われた瞬間、マナウは悲鳴を上げた。
「お母さん……っ! お、お母さんっ!」
「落ち着いてください。マナウ……!」
半狂乱になりながら、マナウがフィアの足に縋りついてくる。その涙目を見つめ返しながら、フィアは努めて冷静な声で言い聞かせる。
だが、フィアもまた、冷静ではなかった。胸のうちが、ざわめいている。
(毒竜が、触手を伸ばした? いや、そんなはずはあり得ない……っ!)
あり得ない光景と、妹の窮地にフィアも胸が引き締められる。それは、画面の中のカイトも同じだった。顔面を蒼白にし、焦りを滲ませている。
岩棚から今にも飛び出しそうなカイト。それに、取り乱したマナウ。
ウィンドウの中では、触手の粘液に包まれ、ローラが苦悶に顔を歪めていた。耐毒のスーツに身を包んでいるとはいえ、その猛毒は身体を蝕んでいる。
どろり、と服が溶け、徐々にあられもない姿になっていく。肌がのぞいた部分から毒が入り込み、さらに彼女を蝕む――。
「……ッ!」
その光景に耐え切れなくなったのか、マナウが視線を逸らし、勢いよく水に潜ろうとする。フィアは咄嗟にその腕を掴み、それを引き留める。
「待ってください! どこに行くつもりですか!」
「お母さんを、助けに行くの! 止めないで!」
その言葉と共に、腕が振り払われる。行ってしまう。それを直感し、咄嗟にフィアは鋭く叫んだ。
「マナウ!」
その鋭い叱咤に、びくりとマナウは身を震わせた。その隙に、彼女の手を取り、固く握りしめる。逃げて行かないように力を込め、フィアは低い声で続ける。
「どうやって助けるつもりですか。それに、外は猛毒の空気で満ちています。貴方が外に出たところで、却って足手まといになりかねません……カイト様を、悲しませたいですか」
ゆっくりと諭すように告げると、マナウは力なくその場で肩を落とし――やがて、悔しそうな目つきでフィアを見上げてくる。
「なら――どうすればいいの……っ」
「そう、ですね……」
自分なら、どうするか。カイトなら、どうするか。
(仲間が窮地になって、見捨てるわけにもいかない。だけど、やけっぱちになって行動するのもよくない)
視線を移せば、そこではカイトはわずかなりと落ち着きを取り戻している。
その視線がわずかに交錯する。フィアは深呼吸をすると、マナウに微笑みかける。
「まずは、考えるんです。どんなに追い詰められていても、まずは考える」
「考える……?」
「そう。カイト様ならどんな風に考えるかな、と」
「お父さん、なら……」
「ええ、カイト様はいつだってあきらめずに考えて、誰も泣かない作戦を考えます」
フィアはそう告げながらも、自分も思考を巡らせていく。
決してあきらめない。ローラを助けるためには、どうするべきか。
そのまま、視線をマナウに向け――ふと、思いつく。
(そういえば……カイト様が言っていた。水の精霊は、水を支配下に置く)
「……マナウ。遠くの水は、操れますか」
「ふぇ? え、あ、できる、けど……でも、どっちに動かしたらいいのか……見えないと、多分、上手く操作できない」
「大丈夫です。動かせれば、上等です」
フィアは深呼吸を繰り返し、ウィンドウを開く。マナウを横面に見て、にっこりと微笑みかける。
「一緒に、私たちの家族を、助けましょう」
◇
「く……っ!」
中空で触手に囚われたローラを見つめ、カイトは表情を歪ませていた。
その表情も声も、明らかに狼狽えていて、シエラはわずかに目を見開く。いつも平静である彼らしくない、焦りを滲ませた顔つきだった。
落ち着きもなく、視線を彷徨わせ、唇を噛む。
だが、そのおかげで、シエラは平静を取り戻しつつあった。
魔導鏡で中空に浮かんだローラを捕捉。全体の状況を冷静に把握する。
毒竜の頭から放たれた、一本の触手がローラを捕らえている。それを人質にするように頭上で振りかざしながら、毒竜はさらに突き進んでくる。
それを見つめながら、シエラは用意したライフルを取り上げ、魔導鏡をカイトに押しつける。
「カイト、観測手を。あの化け物を、撃ち抜く」
「……シエラ、あの触手だけ、撃ち抜くことは……」
「無理。細すぎる」
シエラははっきりと告げる。彼の表情が苦悶に揺れるのが、はっきりと分かった。その瞳に満ちた迷いを悟り、シエラは釣られるように心が揺れる。
いつも、彼は笑顔で振るまっていた。へらへらしているようにも思え、それに腹が立つときもあった。だけど、それに励まされることが多かった。
そんな彼の、弱々しい迷いの表情――それに、シエラは唇を引き結ぶ。
そして、その手を振り上げた。
ぱちり、と小さな音が響く。強く叩いたつもりはない。掌は振り抜かず、彼の頬に添えられている。だけど、その衝撃でカイトは我に返ったようだ。
「――しっかり、して。カイト。私たちには、貴方が頼り、だから」
「……すまん。シエラ」
「大丈夫。気持ちは、分かる。私も、ローラを救うために全力を尽くす」
『もちろん、私もよ。なんのための仲間だと思っているの?』
その澄んだ声は脇のウィンドウから聞こえた。見れば、ウィンドウ越しに疾駆するヘカテの姿がある。その姿は背丈がすらりと伸びている。本気の証だ。
『シエラ、タイミングは任せるわ。その代わり、必ず仕留めなさい。動きが止まった瞬間に、私が跳んでローラを助け出す』
「了、解……できるだけ、引きつける」
すっとシエラは息を吸い込む。かつてないほどに、神経が研ぎ澄まされている。
その感覚のまま、ゆるやかに吐息をついて目を細めた。
「六百歩。その距離に来たら、伝えて」
その言葉に、カイトは魔導鏡を握りしめる。視線をウィンドウの一つに向けていたが、深呼吸をして彼は深く頷いた。
「分かった。任せるぞ」
「もち、ろん……」
シエラは銃を持ち上げ、
とくん、とくんと鼓動が響き、代わりに周りから音が消えていく。視界も狭まっていき、目の前の光景しか目に入らない。
不思議なくらい、神経が研ぎ澄まされていた。
あの勇者との戦いよりも、集中できている。銃がまるで、自分の一部になったかのように、吸いついてくる。今なら、どこに弾丸が飛ぶかも分かる。
その銃の側面を撫でる。構造上、二の弾丸は放てない。
(だけど――それで、十分)
必ず、仕留める。その意気を込め、息を詰める。
鼓動と共に近づいてくる、毒竜の巨体。おぞましいほどの醜悪な顔が徐々に近づいてくる。その腫れぼったく垂れさがった目が、不意にシエラを見た、気がした。
直後、ローラを捕らえた触手が、ゆらりと動いた。
まるで、彼女を盾にするように、その身体が射線上に置かれる。
(――ッ!)
それに、わずかにシエラの集中が乱れる。息が引きつり、乱れる視界。喉がひりつき、鼓動も不自然に高鳴った。それに、瞳を揺らした瞬間――。
不意に、その肩に手が載せられた。穏やかな、優しい掌。
分かる。いつもの、カイトの掌だ。
その熱が伝わった瞬間、その意思をさえも伝わってくる。
(――信じろ。仲間を)
(……仕方、ない、な)
ふっと笑みをこぼす。それだけで、乱れていた鼓動がすっと落ち着いた。
それどころか、視界も明瞭になり、狙いがふっと定まる。
ローラを射線上に捉えながらも、照準ははっきりと毒竜を捉えた。そんなシエラをあざ笑うように、ローラを盾にしながら毒竜は突き進み――。
直後、視界の端から、何かが迸った。
頭上。はるか上空。そこから研ぎ澄まされたような何かが、真っ直ぐに飛来する。
それは、まるで氷星。空から降り注いだ、一筋の水晶の煌めきは迷いなく駆ける。そのまま、それは上空から斜めにローラへと向かい。
そのローラを捕らえた触手を、断ち切った。
ぐらり、と重力に引かれて落下するローラ。射線が、空いた。
その瞬間を見計らったように、カイトが鋭く叫んだ。
「今だッ!」
「――ッ!」
その合図に、シエラは絞るように引き金を引く。
直後、今までに感じたことない衝撃が身体を襲う。噴き出た銃火は、従来以上。反動もまた、それ以上だ。火薬を倍以上に装填したのだから。
従来の後装式シエラ銃改なら、その圧力に耐えられるはずがない。
だが、彼女はそれを克服した――敢えて、その構造を前装式にすることによって。
(火薬の圧力を、一点に集中――銃口から、撃ち放つッ!)
まるで、大砲のような一撃を、シエラは完成――その大口径の銃弾が、宙を駆ける。
その銀閃は、落下するローラの頭上を越えて駆け抜け。
毒竜の頭に、紛れもなく着弾するのを、シエラは見届けた。
「――ッ!」
詰めていた息を吸い込み、息を荒げる。瞬きを繰り返しながら、食い入るように目の前の光景を睨みつける。毒竜はその場でよろめくように動きを止めたが、まだ倒れてはいない。
(やった……?)
果たして倒せたのか、実感が湧かない。何しろ、相手は大きな竜。脳を射貫けたかどうか自信がない。焦りの中、シエラは身を乗り出し――。
不意に、安心づけるような、穏やかなカイトの囁きが耳朶を打った。
「大丈夫だ。シエラ」
その声と共に、毒竜の身体がぐらりと揺れる。そのまま、体勢を崩し、ずずん、と一際大きな地鳴りを響かせる。それを見届け、カイトは微笑みを向けてくれた。
「見事。職人技の一撃だった」
「……どうも」
素っ気なく答えながら、顔を背ける。そうしないと、緩んだ口元が見られてしまいそうだったから。シエラは息を整えながら、視線だけカイトに向ける。
「……それで、ローラは?」
『私が回収したわ』
その声は、カイトの傍らのウィンドウから響き渡る。大人の姿のヘカテが、その腕にローラを抱え、身軽に駆けている。その腕の中のローラが弱々しく微笑んだ。
『……シエラ、ありがと』
「礼には、及ばない。触手を、切ったのは私では、ないから」
『え……そう、だったの? てっきり、連射したのかと』
「これは、連射できないから」
そう言いながら持ち上げたライフル――旧式シエラ銃に手を加えたもの。
敢えて言うなら、シエラ狙撃銃。射程距離、威力はどの銃を上回る性能だが、それを生み出すために連射性を犠牲にしている。
だからこそ、確実性を持たせるために、銀の弾丸を用いたのだ。わざわざ、勇者の遺体から摘出するという、胸糞悪いことまでして。
「だから……私も、誰が助けたのか、分かっていない」
シエラはそう言いながら、ためらいがちに言葉を続けた。
「ただ、誰かがなんとかしてくれると、信じていたから」
『……で? カイト、貴方は分かっているのでしょう?』
「ん、まぁな」
カイトは苦笑い交じりに言う。いつの間にか、彼は地面に座り込んでいた。力が抜けたように、軽い笑みをこぼして視線を脇のウィンドウに向ける。
そこで無邪気にはしゃいでいる水精の少女を見つめ、優しく目を細めた。
「助けてくれたのは――僕たちの、家族だよ」
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