第6話
ついに迎えたその日は朝から、すでに臭っていた。
腐りきった泥のような、嗅いでいるだけで胸から吐き気が込み上げてくるような臭気。いや、ヘドロでもまだ、ここまでひどくはない。
この世の腐敗臭を放つものを全て集めて、さらに腐らせたような臭い。
それが、ダンジョンの方まで流れ込んでくる。
無論――それは、岩山の泉にも、届いていた。
(なんや、この鼻がひん曲がりそうな臭いは……っ!)
水面から顔を出し、吸い込んだその空気に、思わず泉の主は仰け反っていた。
精霊に、本来、嗅覚はない。あることにはあるが、鼻から感じ取らず、全身でその匂いを感じ取るのだが――それでも、彼女は咄嗟に鼻を押さえてしまう。
漂う空気は、その匂いに汚染されてしまっている。
そして――地面から響く地鳴りが、それの接近を表していた。
(……やれやれ、おいでなすったんやなぁ……)
ウィンディーネはため息をこぼしながら、水に再び潜る。そして、感覚を水の中に溶かしていく。触手のように知覚を伸ばし、近くの雨雲越しにそれを見る。
木々を薙ぎ倒していくように、ずん、ずんと踏み鳴らして進んでくる竜がいる。
竜、というよりは、亀に近い。胴体がずんぐりとしており、首だけは伸びあがり、真っ直ぐにダンジョンを見つめて鎌首をもたげている。
だが、その身体は前進が毒々しい紫に包まれており、表面に肉腫が這っているようなおぞましい造形だ。歩くたびに、それがどくん、どくんと脈打って薄気味悪い。
ぶよぶよに垂れた赤紫色の口元からは、歯ぞろいの悪い牙がのぞかせ、ぼた、ぼたと紫色の液体がこぼれ落ちる。それが地面に落ちた瞬間、じゅぅ、と音を立てて湯気が上がる。
それが降りかかった木は、瞬く間に葉を枯らせ、生気を失ったようにぼろぼろになっていく。それを見て、精霊は気づく。
(こいつ、木を薙ぎ倒しているんやな、木を枯らして進んでいるんや)
その身に纏う臭気は、魔素を吸い上げ、木々を瞬く間に枯らしている。その醜悪さに、怖気が走る。あんなものが近づいてきたら、逃げたくもなる。
逃げるか、と思考がよぎり――いや、と精霊は苦笑いを浮かべる。
(少し前ならそうしたかもなぁ……でも、今はちゃう)
信じたい相手が、いるから。
視線を下に向ければ、そこでは動きがあった。そこには数日前までなかった、空き地がある。木々が斬り倒され、下草も払われた、急な空き地。
そこに立ち並んでいるのは、見たこともない、建造物たちだ。
それが何をするのか、毛頭、見当もつかない。だが、彼はまたとんでもないことを考えついたのだ、という確信だけはある。
不思議とその光景は、精霊に安心できる。それを見守りながら、精霊は囁く。
「気張りや、カイト。ここが、正念場やで」
ずん、ずんと地鳴りを響かせ、毒竜は進んでくる。
腫れぼったい、胡乱な竜の目がダンジョンを見据えている。それを睨み返し、精霊は水の中へと戻っていった。
ダンジョン岩山南西――急遽、拓けた地面に伝わってくるのは、鈍い地鳴り。
それと共に、腐ったような臭気が漂ってくる。その匂いに、ヒカリは吐き気を堪えていた。周りのエルフもまた、顔面を蒼白にしながら動き回っている。
その隣に並んだカイトは気遣うように顔を覗き込んでくる。
「……大丈夫か? ヒカリ」
「はい……カイトさんは、平気そうですね」
「さすがにこんなひどい匂いを嗅いだ経験はないけどな」
苦笑いを浮かべたカイトもまた、眉を寄せているが、顔色に変化はない。異臭に耐え忍んできた経験も、きっとあるのだろう。
「大丈夫だ。すぐに終わる……計算通り、行けば、だけど」
「不安にさせないで下さい。模型では、上手く行っていきましたが、実寸大はぶっつけ本番なんです。失敗しても、おかしくはない……」
思わずぴりぴりした声で答えてしまう。その尖った言葉に、カイトは申し訳なさそうに眉尻を下げて頭を下げる。
「それは、すまん。少し、気が抜けていた」
「……いえ、それくらいがいいのでしょうけど」
(さすがに、カイトさんほど、実戦豊富ではないから……)
しかも、勇者戦とは違い、相手は人間ではない。交渉を設けることができない、魔獣なのだ。それだけに、先が読めない。緊張で胸が不自然に脈打っている。
ヒカリは深呼吸をすると、カイトを横目で見た。
「――ここは、任せて下さい。責任は、果たします」
「了解。あんまり気負うなよ、ヒカリ。最悪、僕が何とかするし、シエラもいるから」
「……はい、了解しました」
それ以上は、何も言わずにカイトはその場を離れる。
それが今は、ありがたかった。今は神経を研ぎ澄ませ、不測の事態に備えたい。じわり、と背筋からにじみ出る汗に、ヒカリは苦笑いをこぼす。
(――カイトさんは、すごいなぁ、こんな戦場をいつだって切り抜けてきた……)
私には、とてもできない。だけど、彼から任せられた以上は、最善を尽くす。
深呼吸を繰り返し、広場の兵器の組立状況を見やる。兵器にはエルフの指揮官がついており、ヒカリの視線に気づき、全員が集まってくる。
「ヒカリ様、全台稼働は可能です」
「了解。座標点に入ったら攻撃を開始します――カイトさん」
傍らのウィンドウに声を掛ける。ウィンドウの中でカイトは一つ頷いた。
『まもなくだ。全員気張れよ……よし』
彼が一息つき、しばらく黙り込む。臭気が漂う戦場。響き渡る地鳴りが、心臓の鼓動と重なる。どくん、どくん……それを押し殺すように、ヒカリは息を詰め。
『攻撃を、開始』
その一言と同時に、ヒカリは大きく手を振り上げた。それを合図に、エルフたちは動き出す。組み上げた兵器に触れ、号令と同時にレバーを引く。
瞬間、ほぼ同時に、兵器が駆動。ぶん、と弾かれたように地面に伏せられた垂木が跳ね上がり。
大空を、大岩が宙を舞った。
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