第14話
「コモドから、聞きました」
その言葉は、フィアとカイトが想いを告げ合った翌日のことだった。
フィアは主の頭を膝の上に載せ、ベッドの上で寝かしつける。その膝に伝わってくる、彼の頭からはまだ熱を感じる。いつもより、わずかに温かい。
ローラが傍でせっせと彼の汗を拭き、額に濡れ布巾を置いていたが、姉の言葉に手を止め、真剣に主の横顔を見る。
カイトは少しだけ驚いたように目を見開いたが、怒ることもせず、ただ仕方なさそうに微笑みを浮かべる。優しい、いつもの包み込むような、穏やかな視線だ。
「――僕の、過去のことかな」
「……はい、家族を失い、放浪していた、ということを」
フィアのほっそりとした指先がそっとカイトの頬を撫でる。ローラは少しだけ気まずそうにもじもじとし、上目遣いで訊ねる。
「ごめん、なさい……勝手に聞いてしまって」
「いや、別に隠していたわけでもないし……ただ、あまり明るい話でもないから」
彼はぼんやりとした口調でローラに手を伸ばす。そのまま、彼女の手を取って指を絡める。その感触にローラはわずかに目を見開いた。
(……兄さま、苦しそう)
妹の気持ちが、揺れた瞳から伝わってくる。切ない気持ちを込め、彼女はカイトの手を握り返す。フィアも彼の頬に手を当てる――じんわりと、熱が伝わってくる。
逆に、カイトはどこか心地よさそうに目を細め、頬を掌に押しつけてくる。
弱々しい彼の仕草に、胸が締め付けられる。愛おしさと、切なさが込み上げ、気持ちが翻弄される――ああ、とフィアは改めて実感する。
(私は火竜――最強の魔物。それでも、この人の前では、ただの小娘だ)
だけど、そのことが今は嬉しく思える。彼の傍に、共に在れるのだから。
だからこそ、今度はフィアが一歩踏み込む。傍にいる者として、彼のことを知るために。
「カイト様――貴方のお話、聞かせていただけませんか?」
「……聞いてもつまらないぞ?」
カイトの答えは、否定はない。ただ、穏やかな笑みが一つだけ。
それに励まされるように、フィアはさらに踏み込む。もう、退かないとばかりに、肚に力を込めて、だけど優しくカイトの目を見つめ返す。
「構いません。カイト様のことでしたら、何でも知りたいです」
「……そっか、フィアは強くなったな」
「カイト様の薫陶のおかげです。それに、思えば、最初からカイト様は、自分のことをはぐらかして、私のことばかり訊ねていましたよね」
「あ、そういえば、そうだ。兄さまずるいよ」
ローラが合わせて明るい声で笑ってみせる。それに釣られたように、カイトは笑みを少しだけこぼし、穏やかな言葉で続けた。
「僕は孤児で、施設に引き取られた。だから、そこのみんなしか家族を知らない。だけど――いい家族だったよ。拾い子である僕に、よくしてくれた」
彼の口から初めてこぼれ出た過去の話。それと共に、彼の目つきは懐かしそうに、切なそうに揺れる。今までに見たことのない、目つき。
いや、一度だけ、ある。それはローラが無茶をした、あのとき――。
今にも感情が壊れそうなほど、切なく揺れていた、あの瞳。
その目つきで彼は小さく掠れそうな声で語る。それに、フィアは耳を傾ける。
「山の上にある屋敷でね、三十人くらいの子供が一緒に暮らしていた。屋敷の周りには、たくさんの桜が並んでいて、西側は拓けていて、海が見えた。春は花吹雪の中で、一緒に海をみんなで見たよ。楽しい、花見だったな」
ふっと彼は笑みをこぼす。優しい笑みに、心が締めつけられる。
「みんな、家族だった。たくさんの兄や姉、弟や妹がいた。みんなから、いろんなことを教えてもらった。メイ姉からは兵法を教えてもらえたな、いろんな古今東西の戦術。それのおかげで、こうやってみんなを守れた」
「お姉さん、いたんだ」
「うん……僕にとって、一番仲のいい姉さんだったよ。マイペースだけど、少しおっちょこちょいなところもあって、いつも、いろんな本を読んでいた。三国志は、姉さんに言われて全部読んだか……懐かしい」
カイトはぼんやりとした口調で笑みをこぼしながら、滔々と語っていく。胸の奥底から宝物を取り出すみたいに、優しい口調で――。
フィアとローラはそれに耳を傾けながら、相槌を時折打つ。ローラは彼の手を優しく握り、フィアは彼の頬を撫でる。そして、何一つ聞き漏らすまいと、耳を傾ける。
彼は熱に浮かされたように、言葉を続けていく。
メイたち、家族との思い出。兄や姉が、いろんなことを教えてくれたこと。弟や妹とたくさん遊んだこと。みんなで夜まで遊んで、みんなで寝坊したこと。おねしょをしたけど、メイが庇ってくれたこと――。
「――ほん、とうに……楽しかった……」
「そう、だったんですね……」
「ああ……ほん、とうに……」
彼の声が消え入りそうになる。掠れたような声と共に、彼は吐息をついた。
「なん、で……なんだ……よ……」
その言葉と共に、カイトの目尻から一筋の涙がこぼれ落ち――やがて、その口から寝息がこぼれ出る。穏やかな、小さな寝息。
その寝顔を、フィアはまともに見られなかった。視界の中で、霞んで見える彼の顔。どうしても、ぼやけてしまう。込み上げる涙をこらえ、妹を振り返る。
ローラもまた、紅い瞳を潤ませていた。抑えきれない涙が、目尻からすでにぼろ、ぼろとこぼれだしている。彼女は目元を歪め、絞り出すような小声を紡いだ。
「本当に……なんで、なのかな……こんなの、ひどすぎるよ……」
「ええ……本当に……ひどすぎますよね」
フィアは頷きながら、カイトの視線を落とす。指を伸ばし、その目尻からこぼれ落ちた涙を拭い取る。その悲しみの残滓に触れ、言葉を震わせた。
「なんで……カイト様は、幸せを奪われなければならなかったのでしょう……っ」
聞いているだけで、伝わってきた。
彼がどれだけ、家族を大切に想っていたか――そして、彼の家族も、どれだけ彼のことを大事にしていたか。
彼らは血がつながっていない。だけど、それにも勝る絆を感じさせられた。
話を聞いているだけで、十分すぎるくらいだった。
だからこそ、胸が引き裂けそうなくらい、聞いていて辛かった。
「カイト様は、ただ家族を愛していただけなのに……」
「それが、何一つ残らず奪われてしまった……」
その苦痛を想像することはできない。だが、フィアとローラは同時に想像する。
もし、明日、カイトがこのベッドで死んでいたら、と思うと。
背筋が凍るどころの騒ぎではない。それだけで、視界が真っ暗になる。
きっと、絶望して何も感じない――そのまま、死を選んでしまうかもしれない。
(それ以上の絶望が、彼を襲った……)
フィアは気づけば、涙をこぼしていた。想像しただけで訪れる喪失感に震えながら、カイトの頬に触れる。そこに熱があることに、わずかに安堵する。
その頬を撫で、フィアは震える声で囁きかける。
「カイト様は……すごいです。その絶望の中でも、生きた。生き抜いた」
一度は、海に身を投げたのかもしれない。
だけど、そこで生き延びてから――彼は立ち直り、生きようと思ったのだ。
そこで土壌改良や農耕の知識、投石器や火薬の作り方、料理の仕方、何から何まで身につけ、足掻いて生き延びた。その事実に、胸が震える。
(彼のいない世界で、私はきっと生きていくことはできない――)
それなら、死を選んだ方がましだと思う。
そんな残酷な世界で、彼は生きようと思ったのだ。
そうでなければ、これだけいろんなことを学ぶことはなかっただろう。
「兄さま……すごいよ。本当にすごい人だから……」
ローラも涙をぼろぼろと流しながら、精一杯の笑顔を浮かべる。兄と慕う主の手を握りしめ、励ますように優しく告げた。
「これからは……我慢しないでね。私が、姉さまが一緒だから」
フィアとローラは視線を交わし合い、決意を込めて頷き合う。
「一緒にいます。必ず。病める時も、健やかなる時も、どんな時でも」
フィアは誓う。まるで、婚約を誓う、恋人のように。
「生まれるときは違う。だけど、死ぬときは絶対、必ず一緒に」
ローラは誓う。まるで、桃園で誓う、義兄弟のように。
二人は主の頬に口づける。その約慕が伝わったように――カイトの寝顔がわずかに穏やかになった。吐息と共に、ふと言葉がこぼれる。
「フィア……ローラ……大好き……ありがとう……これからも……」
尻つぼみに消えていく言葉。その寝言が、何よりの返礼だった。
その偶然に、フィアとローラはくすりと笑みをこぼして頷いた。
「はい、いつまでも」
「お傍にいるからね」
これからも、彼らの物語は続く。
いつまでも寄り添い、どこまでもずっと先へ――。
〈第一部〉完
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