第11話

 息が苦しい。身体が鉛のように重い。

 灼けるような喉の痛みに、重い呼吸をしながらカイトは思う。

(――あのときと、同じだな……溺れて、流れ着いたときの、あのときの)

 何もかも、絶望して海に身を投げた。波が身体を襲い、口の中に水が流れ込み、どうしようもなく苦しくて。

 その苦しみの彼方で、失った家族の面影を見た瞬間――。

 腕を掴まれ、ぐっと何かに引っ張られたのを、よく覚えている。


 気がつくと、カイトは陸地にいた。

 掘立小屋のような、おんぼろな家で寝かされていて――それを、看病してくれていたのは、筋骨隆々な、色黒の男。明らかに、日本人ではなかった。

 言葉も通じず、何も理解できない、そんな中で彼は黙って差し出したのは、粥。

 その味気ない粥が――何よりもそのとき、嬉しかった。


 たどたどしい英語でコミュニケーションができた。

 そこは、いわゆる東南アジア。そこに暮らす集落の男たちの漁船に、カイトは拾われたようだ。そのとき、カイトは足が折れ、身体がぼろぼろだった。

 だけど、男たちは親身に世話をしてくれた。

 なんでも、日本人には祖先が世話になった、という。


『戦争中、ヨーロッパが逃げるときに、日本の大使がピザをくれたんだ』


 そのおかげで、俺たちはこの村で暮らしていられる。だから、日本人には優しくする。そう村の人たちは胸を叩いて告げ、何から何まで世話をしてくれた。

 そうしている間に、カイトは言語を覚えた。

 この付近で使う、中国語、英語をはじめ、現地語まで。

 足が治ると、できるだけ村の人たちに恩返しをしようと、働き回った。

 その集落では、いろんなことを、教えてくれた。


 家族のように接してくれる仲間たち。それを嬉しく思う一方で、カイトは怖かった。

 彼らに心を許し、仲間のように思って――それで、また家族を失ったら?

 その心の震えも、集落のみんなは受け止めてくれた。

 仲間として接し、いろいろなことを教えてくれた。神の教えも授かった。

 罠の作り方や狩りの仕方、炭焼きの仕方もそこで教わった。

 そして、助けてくれた男のうち、一人の青年が誘ってくれる。

『旅に出ないか? 伝手があって、チリに働きに行くんだ』


 カイトは迷った末に、その彼と同行することを決める。

 集落のみんなはその別れを惜しんだが、彼の決断に励ましの言葉を送り、いつでも帰ってきて構わないと言ってくれた。

 そう言われるたびに、後ろ髪が引かれるが――それでも、カイトは感じていた。

(――僕の居場所は、ここじゃない。こんな温かいところは、似合わない)

 そして、カイトは東南アジアを後にし、南アメリカのチリに向かう。


 パスポートや身分証などは、ない。だから、密航だった。

 貨物船に乗り込み、集落の数人の若者たちと移動した。その中には、チリに何度も行っているものもいて、いろいろなことを教えてくれた。

 南アメリカにつくと、チリの鉱山でカイトは働き始めた。

 過酷な労働現場だった。だけど、現場の人々は優しかった。

 思えば、東南アジアの人たちからいろいろ聞いていただと思う。だから、いろんなことを教えてくれた。柄の悪い連中からも、守ってくれた。

 初めて飲んだ、仕事終わりのビールは最高だった。サッカーも教わった。武術もそこで教わった。もちろん、ケンカの仕方も。

 女も、そこで初めて抱いた。悲しい目をしているのね、と囁かれた。

 薬だけは、やらなかった。メイ姉が、嫌がるだろうな、と思ったから。


 南アメリカでは、一年間過ごした。

 そうしているうちにまとまった金ができた。だから、また旅をしようと思った。

 メイ姉が語った世界史の舞台、ヨーロッパを一度、見てみたいと思ったのだ。

 その言葉に、鉱山の仲間たちは快く送り出し、密航の手筈も整えてくれた。


 それから、カイトは途方もない旅に出る。バックパック一つ。パスポートなんて持たない、不法入国を繰り返して流浪をする。

 ビザもないから、就労もできない――けど、苦労はしなかった。

 東南アジアで教わった心と、チリで鍛えた身体があったから。

 イタリアの地下街で拳闘の賭けに加わり、そこそこの金を稼いだ。

 その金は、スラムのみんなで分け与えた。代わりに彼らはいろんなことを教えてくれた。

 どこに近づかない方がいい。あそこはマフィアの縄張りだ。

 拳銃は抜かせる前に殴れ。銃声があったらまず身を低くしろ。

 警察には金。いつでも渡せるように紙幣はパンツの中に仕込め。


 もちろん、いつも上手く行くわけではない。拳闘で負け込んだこともある。

 拳銃で撃たれたこともあれば、警察に追い回されたこともある。

 食った飯がまずくて、下痢が止まらなくなったこともあった。

 だけど、修羅場を潜り抜けるたびに、彼は強くなり、逞しくなっていく。


 オーストラリアに流れ着いたのは、偶然だった。

 というか、密航する船を間違え、インドネシアに辿り着いたのである。それから船を転々として、そこに流れ着いた。

 そのくらいのミスで、カイトは動じなかった。なんとかなる、と割り切っていた。

(何とかならなければ、死ぬだけ)

 あの海で溺れ死ぬはずだった命。何も怖くない。

 だから、南アメリカやヨーロッパを渡り歩けたのだから。


 いつの間にか、身も軽くなっていた。心も、軽かった。

 その気持ちのまま、いろんなところを渡り歩いた。水上集落、牧場、農場、工場ということもあった。

 住み込みで働いた牧場の牛の乳は、とても美味しかった。

 メキシコビールを片手に見上げる夜空は、どこまでも広かった。

 犬の肉はまずかったが、仲間たちと一緒なら食えた。


 だけど、一か所に留まりたくなかった。

 どうしても、家族を思い出してしまうから。

 同じ家族だと思ってしまったら――また、失うことが怖かったから。

 でも――そうやって流浪し続けるのも、いつしか疲れてきて。

 徐々に、彼は目的もなく、ただ彷徨うだけになっていた。


(どうしたものかな――)

 オーストラリアの原住民に別れを告げ、歩き出した大地は広大だった。背に入れた水はもう残りわずか。わずかにあった衣服や金も、彼らに礼代わりに渡してしまった。

 背負ったバックパックは軽く、心もまた軽い。

 ――いや、どこか空しいのかもしれない。

(もう、そろそろ――休みたいのかもしれないな)

 苦笑いを一つこぼし、乾燥した荒原をひたすら歩いていく。

(ま、なんとかなるさ)

 ならなければ――この広大な大地で、死ぬのも悪くないのかもしれない。

 世界の中心で、眠りにつくのも、また――。


「私と契約して、ダンジョンマスターになってくれるかな」

「――おう?」


 そんなときに、カイトが出会った。

 一つの不思議なオオトカゲの存在。

 そして、その流れ着いた先に出会った、一人の少女。


 はずれ、だと自分を卑下する少女は、とても寂しそうで辛そうで。

 その目は、捨てないで欲しい、と訴えているようで――。

 気が付けば、彼女を選んでいた。彼女の手を、取っていた。

 今、思うと、放っておけなかったのだと思う。それに、カイト自身、旅の中でいろんな人に助けられてきた。だから、彼女のことを助けたいと思った。

(いや――そんなの、後付けの理由か)

 つまるところ――彼女の温もりに、最初から惹かれていたのだ。

 傍で支えて励ましてくれる彼女の温もり。今も、傍にいてくれる温もり。

 それはいつの間にか、するりとカイトの傍に入り込み――心の中を徐々に満たしていた。

 流浪でも満たされなかった、心を埋めてくれた。


(だから――もう、きっと離れられない……)


 ぐっと腕に力を込め、その温もりを引き寄せる。

 その温もりがそっと優しく包み返してくれて――ああ、とカイトは思う。

(ここが――きっと、僕の居場所なんだ)

 やっと見つけたその場所を、噛みしめるようにカイトは腕に力を込め――。

 その優しい温もりに促されるように――意識が、浮上していく。

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