第10話

 エステルは手拭いを絞り、カイトの額の上に載せると、一息ついた。

 カイトの寝顔は苦しそうだが、身体を拭き、頭を冷やしたら少し落ち着いたようだ。息も安定してきている。

 その看病を手際よくやってのけたエステルを見つめ、おずおずとフィアは訊ねる。

「カイト様は、大丈夫、ですか……?」

「ひとまずは、大丈夫、です。フィア様、ローラ様」

「ほ、本当、ですか? エステル。何か病気では……」

「大丈夫、です。多分、過労ですから……そんな、卒倒しそうな顔をしなく、ても」

 そう告げたエステルはあきれ顔だった。滅多に表情を顔に出さない彼女だが、今回の騒ぎにはあきれ果てたらしい。

(まあ……パニくりましたからね)

 どうしたらいいか分からず、コモドがローラとエステルを呼んでくるまでおろおろするばかりだった。ローラもほとんど役に立たず、実質、カイトの看病を世話したのはエステルとコモドだったのだ。

「すみません、二人とも……こういうところでしっかりするべきなのに」

「ごめんなさい……私たちは、役立たず……」

 姉妹で揃って凹んでいると、コモドは苦笑いをこぼして首を振る。

「困ったときは、お互い様だよ。それに優秀なカイトを、風邪なんかで失ったらこちらも、困るからね。少しの手間は惜しまないさ」

「ありがとう、ございます……お礼に、ご主人様手作りの、ポテトサラダは、いかがですか」

「いいのかい? わぁ、ポテトサラダなんて中国で食べて以来だ」

「朝食の、残りで恐縮ですが、どうぞ」

 木のお皿にポテトサラダを盛りつけ、エステルはコモドに差し出す。コモドは舌先を伸ばし、それを掬い取りながら感心したように言う。

「よく少ない材料で作れるよね。彼は」

「本当に……カイト様は、何者なんでしょうかね」

 フィアはカイトが眠るベッドの傍に腰を下ろす。

 それはフィアがポイントを使って確保したものだ。管理権を共有しているので、今はフィアもまたマスターであるようなものだ。

 眠る彼は、熱にうなされているのか、寝苦しそうだ。その額をそっと指でなぞる。苦しそうに眉が寄せられる彼を見ていると、心が締め付けられる。

 切ないくらいの気持ちが込み上げ、小さくフィアはつぶやいた。

「――彼は、どんな過去を抱えて、ここに流れ着いたのでしょうか」

「毎日、うなされるくらいだものね。無理、しないで欲しいのに」

 ローラもフィアの反対側から主の横顔を見つめる。その瞳は微かに揺れており、彼女もまた、並々ならない感情を滲ませている。

 その二人をじっと見つめていたコモドは小さく吐息をこぼす。

「……本当は、元の世界のことを話すのは、マナー違反だけどね」

 その言葉にフィアとローラは振り返る。コモドはポテトサラダの皿に顔をうずめながら、もごもごと言葉を口にする。

「これは独り言だけど――本当に、独り言だ。気にしないでくれ」

 視線も合わせず、コモドはどこか昔話をするような口調で続ける。

「私が彼を招き入れるにあたって、少しだけ過去を調べたことがある。ニホンジンが世界中を旅している、というのは比較的珍しいことだったからね。しかも、何年もだ」

 コモドは、カイトを別にすれば、彼の暮らしていた世界との唯一の接点だ。全員はその言葉に耳を傾ける中、コモドは穏やかに言葉を続ける。

「断片的にしか情報が手に入らなかった。だけど、分かったのは、彼に家族がいないこと。血縁者が、いないことだ」

「……え、そう、なの?」

 ローラはきょとんとする。フィアも何となく意外だった。コモドはもごもごと言葉を続ける。

「孤児だった彼を拾ったのは、祖国の島国のある施設。彼は施設――いわゆる、孤児院で育てられたんだ。そこで暮らす人たちは、家族同然だったと聞く。彼はその優しさの中で育てられてきた――あるとき、までは」

 その言葉に、フィアは次の言葉を予感する。

 彼が家族に固執するその姿勢から――次の言葉を予想するのは、難しくなかった。

「ある日、その家族が全員死んだ。彼を除いて、全てだ。事故か、事件か、それらは分からない。何しろ、何年も前のことだから……」

「――つまり、彼は家族を二度、失っている……」

 フィアは思わず口にすると、その場に重苦しいくらいの沈黙が訪れた。ローラもエステルも視線を下げて何も語らない。

 主の凄絶な過去の片鱗に、何も持ち合わせる言葉がないのだ。

「打ちひしがれた彼は、何を思ったかは分からない。日本にいた彼は忽然と姿をくらまし、次にその姿を現したのは、別の大陸だった」

「別の、大陸……」

 島国に住む、絶望した青年。彼は何を思ったのだろう。

 フィアは吐息をこぼしながら、眠るカイトの額に手を当てる。瞬間、不意に目の前の何かの光景がよぎる。何かの光景が、頭に流れ込んできた。


 目の前に広がる荒波。そこへ彼は身を投げる。

 荒波に揉まれる身体。沈んでいく身。激しい嵐。

 その身体が不意に引っ張り上げられる。誰かが身体を揺さぶっている。

 色黒の肌の男。異国人。それに彼は唇を震わせ――。


「――ッ!」

 フィアは息を吐き出すと、その光景が途切れる。

 瞬きをしながら、思わずカイトを見つめる。にわかに信じられないが……今、彼の記憶を垣間見たような記憶がする。

(彼は、海に身を投げて――漂着、した?)

 その推測が正しいかは分からない。だが、フィアの思考を他所に、コモドの言葉が続く。

「何故、彼が大陸に現れたかは分からない。だが、その後に彼は旅を始める。行く先々で、人々と出会い、旅をした。同じところにとどまらず、点々とする。その頃、私も彼のことを聞いてね、是非、会ってみたいと思って足取りを追いかけたんだ」

 コモドは懐かしむように目を細めて視線を上げ、全員を見渡して苦笑いを浮かべる。

「だから、この話はその過程で聞いた、全部、又聞きなんだけどね。何しろ、彼自身、あまり語ることがない。その情報を、断片的に集めて繋ぎ合わせた話だ」

「……それで、貴方もカイト様に惹かれた?」

「の、かもしれないね。結局、彼を私たちの世界に引き込んだのだから」

 コモドはそう言うと、ぺろりと平らげたポテトサラダの皿をぐい、と脇に退ける。舌先で口の端についた欠片を食べながら、コモドは苦笑いをこぼす。

「独り言のつもりだったけど、随分、話し込んでしまったね。あくまで独り言だ。忘れてくれて構わない――何せ、これはマナー違反だから」

 コモドはそう言うと、エステルを見上げてぺこりと頭を下げる。

「ごちそうさま。エステル」

「こちら、こそ、貴重な独り言を」

「気にしないで、って。それじゃあ、みんな、また何かあったら連絡を寄こしてくれ」

 コモドはそう言うと、尻尾を揺らしながら去って行ってしまう。

 オオトカゲがいなくなった、その部屋では沈黙が占めていた。

 明らかにされた、主の過去の断片。その重さに全員は口を開けなかった。

 やがて、口を開いたのはエステルだった。

「――食事に、しましょうか。お二人、とも」

「あ……手伝うよ、エステル」

 慌ててローラが立ち上がるが、エステルは表情を変えずに首を振った。

「いえ、大丈夫です。キキーモラたちに、手伝ってもらうので。それより、お二人は、ご主人様のお傍に。容体が、変わらないとも、限りません」

 それに、とエステルはカイトに視線を送り、わずかに眉を寄せた。

「ご主人様の、身体が冷えているご様子。体力が消耗して、いると思われるので……少しでも、身体を温めてあげて、下さい――具体的には、添い寝を」

「そ、添い寝……」

「い、いつもしているけど……さ」

 フィアとローラは顔を見合わせ、顔を赤らめる。エステルは無表情で頷き、念を押すように言う。

「大丈夫、です。二人とも――これは、治療行為、ですから。しっかり、お願いします」

 そう言ってエステルは踵を返し、メイド服のスカートを揺らしながら立ち去っていく。彼女の言葉で、重苦しい空気はなくなっていた。

 フィアとローラは視線を合わせると、照れくさくなって笑みをこぼし合う。

 そのまま、頷き合ってカイトのベッドに腰を下ろす。

「じゃあ、姉さま、私はこっちで」

「はい、私はこっちでカイト様を温めます」

 そっと遠慮がちに布団に入り、そっと彼の身体に寄り添う。

 彼の胸に手を当てると、その表面はひんやりとしていて。だけど、そこにある、確かな鼓動にほっとする。姉妹で主に寄り添いながら、フィアはそっとカイトの腕を抱きしめる。

 その愛おしい気持ちが込めて、優しく、力強く。

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