第10話

「おはよ、カイト、血ぃ飲ませなさい」

 昼下がりの五階層――カイトの私室。

 そんな声と共に眠たげに部屋に入ってきたヘカテに、カイトは視線を上げて苦笑いを浮かべる。共にいたフィアは眉を寄せてため息をこぼす。

「もう昼ですよ。ヘカテ」

「じゃあ、おそよう。フィアルマ。カイト、お腹空いたわ」

「ん、おいで。血をあげるから」

 机に向かっていたカイトは手招きすると、ふらふらとヘカテは歩み寄ってカイトの傍に。そのまま、ぺたん、と彼の膝の上に腰を下ろし、彼の腕を取る。それを見て、フィアはひくりと頬を引きつらせた。

「――ヘカテ、カイト様のお膝に座る必要性はあるのですか?」

「こっちの方が楽だし、座り心地もいいのよ。いただきます、と」

 彼女の視線の圧力を、ヘカテは涼しい顔で躱し、カイトの腕に牙を突き立てる。フィアは睨んでいたが、仕方なさそうにため息をついて首を振った。

「分かりました。ただ、食事が終わったら離れて下さいよ」

「……ん、分かったわ……ちなみに、二人は仕事?」

「ん、まあ、そんなところだ」

 はむはむ、と腕を噛むヘカテに、机に広げた竹簡を見せる。そこには、今後のダンジョン運用計画がまとめられている。

「一応、第八層まで層を広げる予定だからな。その場合のポイントの試算とかを」

「なるほどね、熱心だこと……ん、うまうま」

「血を吸う分、貴方も知恵を出したらどうですか? 新しく増やした分の層は、どういう構図にするか、まだ未確定で」

「そんなの、好きに決めればいいのよ――って言っても、カイトが納得しないわよね」

「当然です。人事を尽くさねば、何とかなるものもなりませんから」

 フィアはしみじみとした口調で告げる。ヘカテは呆れたように目を白黒させる。

「実力でねじ伏せる火竜が、そんなことを言うなんてね」

「全てカイト様の受け売りですけどね」

「なるほど、納得したわ。まあ、思いついたら知恵を出してあげるわ」

 ヘカテはそう言いながら、喉を鳴らして血を美味しそうに飲む。眠たげな顔つきは、血を得たおかげか、血色が戻っている。

 カイトはそのまま血を吸わせながら、机の上の竹簡を片付けていく。

「丁度いい、息抜きに休憩しようか。フィア」

「かしこまりました。お茶を煎れますね」

「頼む。ヘカテも飲むよな?」

「ん、ありがと……なんだか、眠れなくてね」

 ヘカテがぼんやりとした口調で腕を甘噛みする。もうすでに吸血は終わり、甘えるような噛み方だった。フィアも気づいているようだが、素知らぬふりをしている。

 その気配りに感謝しながら、カイトはヘカテの頭をそっと撫でる。

「そうなのか。吸血は、他の誰かとはしていないのか? クレアとか」

 彼女が眷属とした少女がいたはずだ。だが、彼女はあっさりと首を振る。

「まだ、彼女は立ち直り切らない。だから、吸血は控えているわ。しても、週に一度程度。それにそういう理由でもなくて」

 そう言うとヘカテはわずかに言い淀み、視線を泳がせる。

「……なんだか、妙な感覚がするのよ」

「妙な感覚?」

「なんというか、頭がぼっとするというか、何かしっくりこないというか」

「体調不良か?」

「ヴァンパイアが体調崩すなんて百年に一度あるかないかよ。ただ、こういうのは何度かあって、決まってそういうときは雨が降るの」

「……んむ?」

 何となく、引っ掛かる言葉だった。

 カイトは少し考えてから、数日前の竹簡を取り出す。それはヒカリからの報告書だった。いつもの定期報告だが、少し末尾に気になることが書いてあった。

『ソフィーティアが、妙な感覚を覚えているようです。もしかしたら、何かを彼女が察知している可能性もあります。(気のせいと言っていたので、追伸程度に止めておきます)』

 そして、二日前、マナウと遊んでいるときも、彼女はぼっとしているときがあった。これまではあまりなかったのに――。

 エルフ、ヴァンパイア、ウィンディーネ、三種族が妙な気配を訴えているのだ。

(しかも、天気が関与している。気圧の概念は、こっちにある、みたいだけど)

 爆弾低気圧が襲えば、敏感な人は気分を悪くする。それは、地球上、どの地方でもあったことだ。思考を巡らせているのに気づいたのか、フィアが手を止める。

「どうか、されましたか?」

「ん、いや……フィア、最近の天気は?」

「晴天続きですよ。ソフィーティア殿が、畑仕事に精が出ると喜んでいました」

「……天気が崩れる気配も、ない?」

「そういうのには、獣人の一部が敏感ですが、彼らは何とも」

 フィアが不思議そうにしながらも答えてくれる。ヘカテが苦笑いを浮かべながら、腕から牙を抜いてカイトを見上げる。

「真に受けなくてもいいわよ、カイト。別に何ともないから」

「1%でも可能性があるなら、それは考慮すべきだと思うぞ。僕は」

 カイトは手早く竹簡をまとめ、ヘカテの頭にそっと手を載せる。

「いつだって努力して、たったわずかな可能性を掴んできたんだ。騎士団戦にしても、勇者戦にしても。だからこそ、逆にわずかな可能性に足元をすくわれる可能性がある」

 その言葉にヘカテは目を見開き、フィアは唇を引き結んでこくんと頷く。

「確かに、その通りです」

「……貴方たち、慢心とか油断という言葉には無縁ね」

「油断していい相手が、傍にいてくれるからな。他に気を向けていられる」

 そう言いながらフィアにウィンクをすると、彼女は嬉しそうに笑みをこぼし、頬を染める。

「私も、カイト様を信じていますよ?」

「ああ、ありがとう。嬉しいよ」

 カイトとフィアは視線を交わし合い、ヘカテは吐息をこぼし、投げやりな声を上げる。

「はいはい、ご馳走様。それで? カイト、この感覚が何を示すか心当たりがあるの?」

「ん、まあ、単純に低気圧の可能性はあるけど」

 そう言うと、二人はきょとんと目をぱちくりさせる。そもそも、二人は地球の科学の知見がないので、気圧という概念が分からないらしい。

 カイトは苦笑い交じりに、首を振る。

「それは関係なさそうだから、今は置いておく。今は、この件で詳しそうな有識者に話を聞くに限るかな」

「有識者……ヒカリさんですか?」

「いや、違う。もっと適任の人がいる」

「……誰でしょうか。とにかく行ってみましょう」

 フィアは首を傾げながらも頷いてくれるが――それにカイトは申し訳なく思いながら首を振る。

「残念だけど、フィアはお留守番」

「……え」

「ローラを連れていく」

「ああ、なるほど。残念だったわね。フィアルマ」

 ヘカテは固まったフィアを慰めるように声を掛け、納得したような目つきでカイトを見返す。

「彼女の元に、行くのね」

「ああ、彼女なら知っているだろう――なんせ、神様みたいな人だから」

 そう言いながら、カイトは頭上を顧みる。そこにいるはずの、精霊を思い浮かべて。

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