第6話
「ふふっ、なるほどね、子持ちおめでとう。カイト」
「全く、他人事みたいに言うなよ。大変だったんだぞ……」
翌日の朝の、カイトの私室。そこには、ふらりとヘカテが上がり込んでいた。
勝手知ったる人の家、とばかりに、ベッドでごろごろと転がる。その隣に腰かけ、腕を差し出して血を与えながら、カイトは昨日の顛末を語っていた。
「ちなみに、夜はずっと片時もフィアは離れてくれなくてな。私も子供を作る、って譲らなくて、おかげさまで寝不足というか……」
「はいはい、惚気ご馳走様」
ヘカテはそう言いながら、腕に牙を食い込ませる。八つ当たりなのか、わずかに力の強い噛みつき方だった。そのまま、しばらく血を飲みつつ、ふぅ、と息をこぼす。
「――やっぱり、カイトの血は美味しいわねぇ」
「そんなに美味しいものかね。ただの人間の血だぞ」
「でしょうね。まあ、気持ちの問題かもしれないけど」
そう言いながら、真っ赤な舌で咬み跡を軽く舐める。それだけで傷口から蒸気が上がり、すぐに傷口が塞がっていく。
その感触をくすぐったく思いながら、ふと、カイトは首を傾げる。
「そういえば……あの子……クレアは、どうしている?」
クレア・ホーリーは、〈紫電〉と共にダンジョンに乗り込んできた冒険者だ。ローラとヘカテを前に激戦を繰り広げた、かつての敵。
だが、ヘカテの機転によって血を流し込まれ、傀儡化。
今はヘカテの眷属として、彼女の傍にいるはず、なのだが……。
「……さすがに、折り合いがつかないか?」
「ええ、眷属にしたとはいえ、心は書き換えられないわ……まだ、落ち込んでいる」
「半ば、仲間殺しみたいな真似をさせてしまったからな」
カイトの言葉に、うん、とヘカテは力なく頷く。珍しく彼女は弱気に視線を伏せさせる。
「彼女には、過酷な運命を背負わせたわ……殺してあげれば、よかったかもしれない」
「……そういう、救い方もあるかもしれないな」
「ん。だけど、あの子は多分、強い。きっと立ち直れる。憎悪を一時の杖にして立ち直れるわ。それまで、私はあの子の憎まれ役を務めるわ」
そう言いながら微笑むヘカテは、少しだけ寂しそうだった。カイトは黙ってその頭に手を載せ、ゆるやかに撫でながら告げる。
「――なら、僕もその憎しみを一緒に受けよう」
「……カイト」
「それがせめてもの……彼らに対する、礼儀だ」
それは、カイトが生き延びるために殺した、勇気ある人たちに対する礼儀。
そのうち一人は、カイトが直接、手を下した。その重さを噛みしめる。
ヘカテは仕方なさそうにふっと微笑むと、頭の上の手を取り、そっと握りしめる。
「ありがと。少し気が楽になるわ」
「どういたしまして。いつでも頼ってくれよ?」
「それはこっちの台詞よ。ただ、もうしばらくは休み?」
「そうだな。復旧が終わるまでは、休息期間だ」
それはヒカリと相談して決めたことだった。
カイトやヒカリも含め、今回の勇者戦では誰もが傷ついた。その傷を癒すための時間を設けるべきだと、二人で判断していた。
「二階層の応急措置は、水の精霊とマナウに手伝ってもらって完了した。直に、三階層、四階層の修復も終わる予定。それまでは今は受け身の姿勢で動く」
「そう。なら、誰かが攻めてくるまでは、またぐうたらできるわね」
くあぁ、と欠伸をこぼすヘカテはすっかりいつも通りだ。カイトの腕に頬ずりしながら、ごろん、と寝返りを打つ。
目を細めて見つめながら、カイトは頬を緩める。ヘカテに対しては、働け、などと取り立ててあまり言うつもりはなかった。というより、ヘカテはなんだかんだで働いてくれる。
面倒くさい、とか言いつつも、いろんなところに顔を出しては手伝ってくれるのだ。
手を伸ばし、その髪を指先で撫でると、彼女は居心地良さそうに目を細める。
「あら、今日はサービスいいわね」
「ま、なんだかんだでいつも世話になっているからな」
そう言いながら髪を梳いてやる。ヘカテはするすると這うようにカイトに近づき、その膝の上でころんとなる。
見た目はあどけない幼女。だけど、その血のような深い紅の瞳は知性の深み。
それを見つめながら、ふと思って訊ねる。
「そういえば、ヘカテの好物とかないのか?」
「ん? カイトの血だけど……なんでまた急に?」
「ヘカテが仲間になってから、どたばたしていたからな。そういえば、ヘカテのことを全然知らないな、と思って」
カイトは肩を竦めながら言い、ヘカテの頭を優しく撫でながら続ける。
「勇者戦やローラの稽古で、大分、世話になったけど、お礼もしていない」
「貴方は本当に律儀よねぇ……」
「仲間は、大事にしたいんだよ」
噛みしめるように告げると、ヘカテは目を細めながらカイトの膝の上で吐息をこぼす。顔つきに似つかわしくない、仕方なさそうな微笑みを浮かべる。
「そんなに律儀にならなくてもいいわよ。私は気ままに生きて、気ままに貴方に力を貸したいと思った。それに礼をされる筋合いはない。貴方から頻繁に血をもらえているだけで、私は満足しているわよ」
「でも、それだけで満足なのか? もっと望むことは?」
そう訊ねると、彼女は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「三百年も生きているとね、結構、満足してしまうのよ。金銀財宝、美男美女。全てを楽しんだから言えるのだけどね、カイト」
彼女は微笑みながら手を伸ばし、カイトの頬に触れる。
透き通るような白く繊細な手がさらり、と慈しむように彼の頬を撫でる。
「今、こうして貴方と他愛のない言葉を交わす。そのことがどんなことよりも嬉しくて満足できるの。穏やかで、じわじわと胸の中を満たしてくれる、優しい温もりなのよ」
「そうなのか?」
「ええ、貴方よりもずっとお姉さんだからね」
くすりと笑みをこぼしたヘカテは、ふと目を少しだけ妖しく輝かせる。そっと頬を撫でた指先が首筋をそっとなぞる。
「でも、もし、本当に褒美を与えたいのなら――ここから、血を欲しいかしら」
とん、とん、と優しく指で首筋を叩かれる。それをくすぐったく思いながら、カイトは目を細めて訊ねる。
「首から? それはなんで?」
「そこの血が一番美味しいから。だけど、変に引っ掛けると危ないところ」
「そりゃそうだ……頸動脈、走っているからな」
ヘカテの唾液には止血の効果がある。少し舐めてくれれば、すぐに傷口が塞がるのだが、動脈を食い破られれば、どうなるかは分からない。
「だから、吸血鬼とその眷属でも、信頼する相手同士にしかやらない行為。吸血する相手が、自分に身を任せてくれることが大前提だから」
ヘカテはくすりと笑い、妖艶に唇に笑みを浮かべる。
「貴方を抱いていいのなら、それが私にとっての一番の報酬よ」
その声はどこか熱っぽい色を感じさせられる。それだけに、ヘカテが真剣に誘っているのが分かった。カイトは少しだけ目を細め、ただ、ヘカテを見つめ返す。
二人はじっと見つめ合い――やがて、考えを汲み取ったヘカテは肩を竦めた。
「ま、そうよね。貴方は真面目だもの」
「ああ、僕が身体を許すのは、フィアとローラだけだよ」
「今はまだ、ね」
ヘカテはそう言って片目を閉じると、くあぁ、と欠伸をこぼした。
緊張感のない、見た目相応な仕草に思わず笑みをこぼしてしまう。カイトは丁寧に頭を撫でながら訊ねる。
「お休みになるか? それとも血をご所望?」
「両方。美酒を飲みながら、うたた寝するのは最高だと思わない?」
「お姉さまの仰せのままに」
「あら、ようやくおばあちゃん扱いを止めてくれたわね」
くすっと嬉しそうに笑みをこぼすと、カイトの腕を引き寄せ、優しく牙を突き立てる。柔らかく濡れた温もりを腕に感じながら、彼はヘカテの小さな頭を撫でる。
ヘカテは血を味わいながら、のんびりと言葉を続ける。
「貴方の血、前にも増して美味しくなっていない?」
「そんなものか? 自分の血なんて舐めないから分からないけど」
「美味しい気がするわねぇ……んん、贅沢ぅ……」
「フィアが帰ってくるまでだぞ。また拗ねられてもたまらない」
「分かっているわよ。はむ……」
そのまま、ヘカテは心地よさそうに膝の上で微睡む。そうしていると、まるで兄に甘える妹にしか見えなくて。思わずカイトは苦笑いをこぼしていた。
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