第4話
青空の下、まるでそれを鏡に映したような泉だった。
泉の傍は、青々と茂った草木が風に揺れ、水面には淡い色の水草が浮かんでいる。その水面に咲く蓮の花がとても可憐だ。
数か月前とはまるで違う光景に、思わずカイトは目を奪われる。
ローラもその隣で小さく息を呑んでいた。
「綺麗……こんなに、綺麗だったっけ……」
「豊富な魔素と、水精のおかげだな。彼女たちは魔素を取り込み、純粋な水へと変えていく。ほら――そこの真ん中」
ソフィーティアは泉の真ん中を指さす。そこでは、ぽこ、ぽこと時折泡を上げながら、湧きあがるように水面が持ち上がっている。
真下から、水が湧き出ているのだろうか。そのあたりから、ゆらゆらと何かが浮かんでくる。その気配に、カイトの背筋が不意にぞわりとする。
(これ、は……なんだか、懐かしいような……)
この雰囲気は身に覚えがある。神社、あるいは神殿に立ち込める神聖な雰囲気。思わず身構える中、ソフィーティアは微笑みを浮かべて声を掛ける。
「水の精霊、少し話でもしないか」
「……騒々しいと思えば、エルフの娘たちかえ」
不意に、その声と共に水面が盛り上がる。驚くカイトの目の前で、水は人の形を取る。たちまち、長い髪をした少女の姿になる。
その雰囲気にカイトは眉を寄せる。誰かに似ている、というか……。
「フィア……いや、どちらかというと、髪を下ろしたときのローラ、か?」
「言われてみれば、似ているな」
「当然や。水は形を作らん。故に、どんな形にもなれるわぇ」
わずかに関西風の訛りが入った声を響かせ、その水の少女は億劫そうに欠伸をこぼす。そのまま視線をソフィーティアに向けた。
「何用や。妾はよう寝ていたところなのに」
「ここに住んでいることに気づいてな。挨拶に来た次第だ。エルフは貴方たちの敬意を払う」
「ああ、せやな、あんたらはそうしてくれていた。けど、人間まで来るのは珍しいわ。あんたがここに住み着いた人間――ダンジョンの主やな」
先ほど感じた、張り詰めた雰囲気。それがカイトに向けられる。カイトは深呼吸をすると、真っ直ぐに少女を見つめ返す。
「ああ、いかにも。カイトという」
「はぁ、そんで? 何の用? あんたも、挨拶?」
水の精霊はカイトの顔を見やり、気だるげに声を発する。なんだか鬱陶しそうな気配に、ローラは少しむっとしたようにカイトの傍に寄る。
その手を握ってなだめてやりながら、カイトは笑って言葉を返す。
「まあ、そんなところだ。貴方のおかげで、大分、村が繁栄している。礼を言うと同時に、これからも敬っていきたいと思う」
「……はぁ。あんた、人間にしては物腰がえらい低いな」
水の精霊はふよふよと水の上を彷徨いながら首を傾げる。カイトは目を細めて苦笑いを浮かべる。
「臆病なだけだよ。彼女――エルフから聞いた限り、水の化身のような方だと伺ったから。怒らせてはならないと、敬意を払っている」
あるいは、これは日本人の身体に染み付いている、遺伝的な本能かもしれない。大自然に対する、異常なほどの畏怖と敬意。
それが、目の前の彼女に跪けと警鐘を鳴らしているのだ。
だからこそ、この上なく慎重に、カイトは言葉を紡いでいる。
はたして、それが正解だったのか、少女は朗らかな笑みを浮かべ、満足げに頷く。
「賢明やな。妾が本気になれば、あんたの村は壊滅する。やりたかあらへんけど」
「それどころか、下の迷宮も崩せるようだからな」
「ほう? あんた、もしかして分かっとる?」
その目を丸くした動きに、カイトは違和感を覚える。
(まるで、彼女の一存で破壊できるような言いざま……何か、仕掛けている?)
そう邪推しかけ、いや、と内心ですぐに否定する。
ソフィーティアも言っていた。彼女らは静けさを望む、と。そして、目の前の彼女も無用な騒ぎを望まないような雰囲気だ。
そういう仕掛けをするとは思えない。ならば、何が――。
(……まさか)
あることに気が付き、悪寒が走る。背筋に、冷汗が滲んだ。
不意に、蘇るのは地下の迷宮。天井から滝のように落ちてくる水。脆弱な地盤から三か所から浸水をしている状況。そう、たった三か所しか浸水していない。
それが彼女のせい――いや、彼女のおかげだとすれば?
「――地盤を抑え込んでくれているのは、貴方だったか」
直後、少女は愉快そうに目を細める。
それだけで、その場の空気が変わる。得体の知れない雰囲気が足元からまとわりつくように立ち込めてくる。値踏みするような少女の視線を感じながら思う。
(――なるほど、ダンジョンに踏み込んだときの、冒険者の気持ちはこんな感じなのかもしれないな)
まるで、未知の存在に触れるような感覚。ローラも気圧されたように後ずさり、ソフィーティアもわずかに目を見開いた。ウィンディーネは悠々とその場で一回りすると、流し目をカイトに向け、ゆるやかに口角を吊り上げた。
「……ご明察や。なんや、エルフを従えるだけあって、賢いのぅ」
その答えに、冷汗を流す。つまり、彼女の助力がなければ、今頃、二階層は崩れ落ちていたのだ。カイトは乾いた笑いと共に答える。
「……今ほど、貴方に感謝した瞬間はないよ」
「礼はいらんよ。床が抜けたら、妾も困る故に」
ひらひらと手を振り、だが、すぐに彼女は目を細めて告げる。
「だが、できればすぐに直して欲しいのぅ。さすがに維持するのは手間じゃ」
「……なら、少し提案がある。そちらにも、悪くはないと思う」
「ほぅ、言うてみぃ」
先ほどまで億劫そうな態度だったが、今はむしろ、積極的に聞いてくれる。ウィンディーネがするすると近づいてくる。カイトは頷いて告げる。
「浸水している地下迷宮を、そのまま利用したい」
「……うむ? それは、半分、水に沈んだダンジョンということか?」
「ああ、だけど、そうすると溜まった水は淀み、いずれは腐っていく」
「せやな。水は流れていないと生きていけん。そういう生き物や」
そう言うウィンディーネは、わずかに剣呑な光を向けて訊ねる。
「……まさか、妾をダンジョンに引き入れようとしているのではないやろな」
直後、少女の身体から殺気が迸る。まるで、押し寄せる波のような殺気に、思わず息を詰まらせる。呼吸が、できなくなりそうなほどの圧力だ。
ローラやソフィーティアもびくりと身を震わせ、一歩後ずさる。ソフィーティアの咎めるような視線を受け止めながら、カイトは口を開く。
「ま、さか……そんな真似はしない。貴方を敬うと言ったつもりだが」
「……ふむ、殊勝な心掛けや。なら、あんたは何を望む?」
「大自然の知恵を。貴方ほどの力の持ち主なら、迷宮の水を活かすことくらい、他愛もないと思うのだが……どうだろうか?」
「……ふむ、確かに知恵はあるとも」
水の少女は頷きながら、ひとまず殺気を静めてくれる。だが、カイトを刺すような視線はまだ離れない。彼女は水底から響くような声で訊ねる。
「しかし、それを教えて、あんたは何をしてくれる? 何を、約束してくれる?」
その言葉にソフィーティアはわずかに身を強張らせる。警告するような眼差しが投げかけられる。カイトはゆっくりと頷き、口を開く。
「何も、約束はできない」
「……なぬ?」
「人間は昔から無責任な生き物だ。だから、確かなことは約束できない」
はっきりとカイトはそう告げ、それでも、とためらいがちに言葉を続ける。
「そんな愚かな生き物を助けてくれるのならば、でいい――どうか、知恵を貸していただきたい。できなければ、僕たちでどうにかする」
都合のいいことは、承知していた。
それでもこれは、昔から今まで人間が繰り返していたことだ。
神に祈りを捧げ、時に供物まで捧げて慈悲を乞い。
時には、悪霊の力すら借り、祀り上げてその地を安んじようとする。
自然に対しては、いつだって身勝手に祈るしかできないのだ。
「――お願いします」
深々と、頭を下げる。それに続いて、ソフィーティアはその横に並んで頭を下げる。
「私からも――エルフの長として、お頼み申し上げる。この方に、我々は何度も救われてきた。だからこそ、どうか」
「わ、私も……っ! お願いします……っ!」
カイトの傍で、火竜とエルフが頭を深々に下げる。その光景をじっと見つめていた、水の化身はやがて、ふぅ、と一つ吐息をついて微笑む。
「――十分や。あんたらの気持ち、よく分かった。顔を上げるよし」
視線を上げる。そこに立つ少女は、慈愛に満ちた顔をしていた。カイトの目の前まで歩み寄ると、その瞳を覗き込む。
「あんたみたいな人間は初めてやわ。カイト」
初めて彼を名で呼んだ少女は膝を折り、掌で水面を掬う。そのまま、それにふっと息を吹きかけた。その掌の中で、ぷるぷると水が動く。
「火竜とエルフにまで、頭を下げさせる。それどころやない、きっと、あんたはヴァンパイアの娘や、ドウェルグの小娘も頭を下げさせるのやろうなあ」
「――それは、どうかな」
ヒカリから頼まれれば、シエラも頭を下げるかもしれないが。
カイトが苦笑いを浮かべていると、水の乙女は掬い上げた水を持ち上げる。そこにはいつの間にか、水の塊が生じていた。まるで、卵のようだ。
「妾の力を注ぎこんだ、いわば妾の分身やな。それ、取ってみぃ」
「さ、触って大丈夫なのか?」
「もちろん。むしろ、カイトにしか触れへんで」
「お、おう……」
ぎこちなく、その卵を受け取る。まるで、水風船のような感触だ。するり、と水の乙女は後ろに引き下がり、気だるげに欠伸をこぼす。
「ほんなら、それを迷宮に入れてやり。そうすれば『孵化』するで」
「あ、ああ……要するに、貴方の分身が?」
「娘、子供と言い換えてもいい。せやな、名前はマナウ、って呼んでやり」
「……ありがとう。感謝する」
カイトは真っ直ぐに頭を下げると、いらんわ、とばかりに手を振る水の乙女。
「礼するくらいなら、たまには遊びに来てや。カイトが話し相手なら苦労しなさそうやわ」
「ああ、約束――いや」
うっかりと口走りかけ、少し苦笑いを浮かべ、言い直す。
「前向きに、善処しよう」
「それ、守る気あらへんやん……ま、ええけど。あと、そっちの彼女もおいでや」
ウィンディーネの視線が、何故かソフィーティアではなく、ローラに向けられる。突然、向けられた言葉にローラは目をぱちくりさせた。
「え、ええ? 私、でいいの?」
「おお、むしろ、二人一緒の方が面白そうやしなぁ。何ならこの前みたいに、こう、絡み合っているところを、見せてくれてもええでぇ」
にやにやとウィンディーネは笑みを浮かべる。ソフィーティアは、はて、と首を傾げる。
「絡み合う? というか、精霊殿は、二人を見たことがあったのか?」
「おお、この前の大雨の日になぁ、いやぁ、あれは見物やった」
(雨の日? 絡み合う?)
ふと、ローラと視線を合わせる。彼女も困惑したように視線を泳がせていたが、不意に、あっと小さく声を上げる。
「ま、ままま、まさか、精霊さん、もしかして、あのとき、見ていて……っ!」
そこまで言われて、カイトも気が付いた。振り返ると、そこには少し前、カイトとローラが雨宿りしていた場所がある。あそこで二人は想いを通じ合わせ。
そして、その場で二人が行った行為と言えば――。
「あれは良かったで。久々に妾も釣られて興奮してしまったわ」
そのしみじみとした声に、ローラは急速に頬を赤く染め上げる。ぐっとカイトの身体にしがみつき、背中に顔を押しつける。
「うううぅ……! 一生の不覚うぅぅ……っ!」
「あ、ああ……まさか、見られていたとは……」
さすがに、カイトも気恥ずかしく、視線を泳がせてしまう。
「ふ、ふははははっ、全く、面白いなぁ、あんたらは!」
その二人の反応を楽しむように、泉の化身は手を打って大喜びに笑いを爆発させていた。
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