第8話
「んにゅ?」
不意にマナウがそんな声を上げたのは、とある昼下がりだった。
傍でその様子を見守っていたローラがきょとんと首を傾げて声を掛ける。
「どうかしたの? マナウ?」
「ん……んーん、なんでもないよ、お母さん」
朗らかに笑い返すマナウは無邪気に目尻を緩める。ローラは彼女に微笑み返し、優しく目を細める。その柔らかい表情に、ローラの膝枕にくつろぐカイトは笑いかける。
「すっかりお母さんだな。ローラ」
「えへへ、そうかな」
「ん、慈愛に満ちているというか、すごく優しい感じ」
温かい膝枕の中、カイトはそう答えると、ローラは嬉しそうに頬を緩め、彼の頭をそっと撫でてくれる。
(どうでもいいけど、ローラの膝枕にしてもらうと、顔が見えないというか)
見えることは見えるのだが、胸が視界を半分遮っているのだ。
夜の営みがあるから分かることだが――少し、育っているのかもしれない。
けど、それを指摘すると、からかわれそうだ。カイトはマナウを見ながらローラに訊ねる。
「で、子育ては大丈夫そう?」
「なんだか、だんだん慣れてきたのかも」
「確かに、そうかな。家まで、作ってもらったし」
視線を上げ、ぐるりと辺りを見渡す――そこは、一軒の家。
ただし、水上に作られた、いわゆるハウスボート、であるが。
エルフたちが作ってくれた、特製の水上住居。そこがマナウの家だった。カイトとローラはそこに住まいを移し、子育てに勤しんでいた。
「しかし、懐かしいな……ハウスボートなんて」
「そういえば、旅をしているときに暮らしていたことがあったんだっけ」
「ああ、ベトナムのあたりでな」
日本人からすると、普通、家は陸上にあるものだが、世界の一部では水上家屋というものが多く存在する。ベトナム、カンボジア、マレーシアなどの東南アジア、あるいは、オランダやイギリスでも水上で住んでいる人は多くいる。
カイトも一時期、泊まったことがあるが、案外揺れが少ない。水上にできているので涼しくて居心地がいい。
「……けど、まさか、迷宮の中にそれを作ることになるとはな」
「世の中、何があるか分からないねぇ……あ、兄さま、耳掻いてあげようか?」
「ん、どうするかな。鼓膜に剥がないでくれるのなら、いいけど」
「もう、そんなことするわけないじゃない」
くすくすと笑いながら、ローラはカイトの頬を撫でてくれる。と、マナウが水の上を滑りながら、むぅ、と頬を膨らませた。
「お母さんばっかりずるい! お父さん、私と遊んでよぅ」
「おっと、そうだな。ローラの耳かきはお預けか」
カイトは苦笑いを浮かべ、ローラの膝枕から頭を上げて立ち上がる。それだけでマナウは期待に目を輝かせて滑るように近づいてくる。
室内は、広々とした木造の部屋だ。ただし、床の半分は、水面が波打っている。そこでマナウは無邪気な笑顔で泳ぎ回っているのだ。
「ごめんな、マナウ。遊ぼうか」
「大丈夫っ、お父さんもお母さんのことが大好きだからねー」
「ああ、ローラが大好きだから」
そっと座っているローラの肩に手を回し、顔を寄せる。軽く頬に口づけると、あーっ、とマナウは頬を膨らませ、羨ましそうにばしゃばしゃと水面を手でたたく。
「お母さんずるい!」
「だ、大丈夫、マナウにもしてくれるからっ……!」
ローラは慌てて取り成しながら、もう、とばかりに視線で軽く睨んでくる。だけど、その目は嬉しそうに緩んでいて迫力がない。
胸から込み上げてくるくすぐったい気持ちのまま、カイトはローラの頭を撫でると、マナウの方に歩み寄り、水面に足を突っ込む。
ひんやりとした水の感触――だが、際限なく沈まず、足がつく。
その水面の下には、実は重石で沈めた床があるのだ。このおかげで、マナウがそこを移動でき、床があるおかげでカイトとローラはそこに足を踏み入れられる。ソフィーティアの画期的なアイデアだった。
(全く、ソフィーティアはいい家を建ててくれたよ)
脛まで水に浸かって歩いていくと、そこへ嬉しそうにマナウが泳いで寄ってくる。
「お父さんっ、ぎゅってしてっ!」
「いいぞ、ほら、こっち」
水の少女が水面を滑るように駆け寄り、嬉しそうにぎゅっと抱きついてくる。冷たい感触に包まれながら、濡れるのに構わず、カイトは身体を抱きしめ返す。
「あはっ、お父さんの身体、温かいね……」
「ん、マナウの身体は冷たくて気持ちいいぞ」
マナウの身体は触ると水のようだが、確かに実体がある。抱きしめてもその身体は崩れることなく、柔らかい感触が伝わってくる。
よしよしとその後頭部を撫でると、マナウは居心地良さそうに胸板に頬を擦り付けてくる。その隣にローラは歩み寄りながら微笑みかける。
「マナウはお父さんが本当に大好きだね」
「うんっ、お母さんも大好きだよっ」
「あはは、ありがと。マナウ。ほら、ぎゅってしてあげる」
「わーいっ!」
無邪気な笑顔でローラの胸に飛び込むマナウ。それから、カイトを振り返ってきらきらした眼差しを向けてくる。
「お父さんもぎゅってしてっ!」
「ああ、ローラ、こっちに」
「……ん、分かった」
少し照れたように頬を染め、ローラはカイトの方を向いてくれる。彼はそこに歩み寄ると、丁寧にローラの身体を抱き寄せる。
二人の間にすっぽりと収まったマナウは嬉しそうに二人の腰に抱きついて擦りつく。
「えへへ、嬉しいなっ」
「ふふっ、マナウは甘えん坊なんだから」
「全く、誰に似たんだかな?」
カイトはローラの頬を突くと、彼女は少し恥ずかしそうに視線を逸らす。その様子に、マナウは悪戯っぽく目を輝かせる。
「お母さんも甘えん坊なんだ?」
「う……そ、れは、そうだけど……うう、マナウの意地悪っ」
その言葉とは裏腹に、嬉しそうにローラはマナウの身体を抱きしめる。マナウもローラにそっくりな笑顔でその胸に顔を押しつける。
まるで、本当の母子のように微笑ましくて――。
(……そっか、家族、って……こんなに温かかったんだな)
ふと、そんなことを思いながら、二人の頭を優しく撫でた。
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