第7話

 奴隷のエステルは、主人の愚かさにはほとほと呆れていた。

 話を聞く限り、昔は優秀な商人だったようだ。堅実な商売で財を築き、妻や娘にも恵まれた、若き精鋭なる商人――そう、本人が語っていた。

 だが、その今の主人の姿は、見る影もない。

 商売に失敗してから落ちぶれたそうで、下手な商売に出資しては金を失い、他人から騙すように儲けた金で食い扶持を繋ぐ。

 女や酒に金を費やし、足りなくなれば、エステルに八つ当たりをする日々だ。

 また一発逆転を狙い、冒険者としてやっていき――それに、エステルは付き合わされる日々が、続いている。

 エステルは、獣人だ。ダンジョンで生け捕りにされ、その際に顔に大きな火傷を負った。獣人の奴隷の行く先は二つ――愛玩か労働か。

 醜い火傷の跡の女獣人は、そのどちらにも適さない。

 処分されそうになったところを、安値で買い上げたのが今の主人だ。

 だからといって恩に感じているかと言えば、そういうわけでもなく。

 劣悪な環境で、こき使われ続けているのが、日常だ。


(――今も、そう……)

 エステルは俊敏な動きで身を躱す。そのまま、逆手で持った刃で中空を貫いた。

 鬼火の芯を捉えた。そのまま、鬼火は中空で掻き消える――だが、未だに鬼火は、頭上にいくつか舞っている。

 ダンジョンに入り、ほどなく出迎えた魔物たちに、エステルは苦戦を強いられていた。

「くそ、エステル! もっと仕留めんか!」

「暴れんといてください! 旦那! 足場が悪いです――!」

 主人の傍にいる傭兵の冒険者が、弓を構えて頭上に矢を放つ。狙いがよくて一つをかき消す。だが、すぐに体勢を崩し、荒い息をつく。

 その顔にはありありと『ついてこなければよかった』という色が浮かんでいる。

 この冒険者もまた、年老いて落ち目の冒険者だ。それを、主人が安く雇ったのである。

(商売には、金を惜しまない、とかいう人、だったのに……)

 小さくため息。軽やかなフットワークで体勢を立て直せる。

 確かに、足元の泥は厄介だが、獣人の足捌きなら何とか耐えうる。

 こんな主人でも、主人だ。見捨てずに、街までちゃんと返さなければ――。


 そう考えた瞬間、不意にぞわり、と背筋に悪寒が走った。


「――ッ!」

 咄嗟にエステルは地を蹴って後ろへ跳ぶ。直後、目の前に鋭く何かが降り注いだ。

 踵落とし――その勢いで、泥濘が飛び散る。そこに着地した少女は、二つに結った金髪を揺らしながら振り返り、可憐に笑う。

「あーあ、避けなければ楽に済んだのに……少し、貴方は手ごわそうだね」

 無邪気な声。だけど、それに含まれた濃厚な殺気を感じ取る。

 さらに、それ以上に――本能が、警鐘を鳴らしている。

 目の前のいる女は、明らかにヤバい。逆らってはいけない敵だ。

「ご主人、様、ヤバいです、逃げ――」

「逃げられると、お思いで?」

 そっくりの声が、背後に響き渡る。冷たい声に、エステルの身体が固まる。

 振り返ると、そこにはそっくりの顔立ちをした、紅眼の少女が立っている。見たことのない衣服に身を包み、優雅に立っている。

 その腕は、鱗に包まれており、鉤爪が露わ――それを見て、息を呑む。

「火竜……」

「……ほう? まさかの大当たりか……エステル、そやつらを捕らえろ!」

 できるわけがない。愚かな主人の声に、苦笑いをこぼした。

 獣人としての本能が叫んでいる。逃げろ、全力で逃げろ――と。

 それでも勇気を奮い起こして立っていると、目の前の少女も苦笑いを浮かべた。

「苦労するね。貴方も――大人しく、降参すれば悪いようにはしないよ」

「おあいにく、様……っ!」

 負けると分かっていても、主人の命令は絶対だ。そういう術式の首輪が、つけられているのだから。そのまま、エステルは地を蹴り、火竜に飛び掛かる。

 だが、彼女は肩を竦めると、軽やかに地を蹴る――それだけで、ふわりと彼女の身体は宙に舞っていた。直後、殺気が迸る。

 直感に任せ、身を投げ出す――その首筋を掠めるように、何かが通過した。

「よく避けたね、でも――」

 その称賛の声は、ほとんど真上から聞こえる。がしり、と首筋が掴まれる感触に、あ、とエステルはただ事実としてそれを受け入れた。

(これでおしまい――楽になれる、かな)

 観念して力を抜く――その瞬間、衝撃と共に、視界が暗転した。


「姉さま、こっちは終わったよー」

 妹の呑気な声を聞き、フィアはふっと微笑みを浮かべながら頷く。

「ええ、こちらも終わりそうです」

 その一言共に、間近で放たれた矢を腕で大きく薙ぎ払った。少しちくりと痛んだものの、鱗に覆われた腕はほぼ無傷。

 それに目を見開いた冒険者に、鉄拳をそのまま殴りつけた。

 真横にはじけ飛び、木に叩きつけられる冒険者――それを見届け、最後に残った一人の男に冷ややかな視線を投げかけた。

「――降伏するなら、今のうちですが……その気は、なさそうですね」

 その視線の先にいる小太りの男――その男が構えている拳銃の銃口の先には、ローラがある。その男の目は据わっている。

「ふん……観念するのはそっちだ。ぴくりとでも動いてみろ。この引き金を引く方が早い」

「そんな鉛玉で、火竜が死ぬとでも?」

「はっ――残念だったな。これに装填されているのは、銀弾。どんな魔物でも、一発で貫ける弾丸だ。あわよくば、ここのボスに叩き込んで、コアを頂戴しようと思って、借金までして買ったものだ」

「丁寧な説明をどうも。試すならお好きに」

 フィアは素っ気なく言う一方で――冷汗を滲ませていた。

 このままだと、動けない。男の言う通り――銀弾は、魔物たちにとって致命的だ。掠めただけでも、被弾した部分の周りが壊死するほどの効果がある。

 当たり所が悪ければ――死んでしまう。そういう弾丸だ。

 このまま引き金が引かれれば、間違いなくローラは、死んでしまう。

「ただ、覚えておいてください――貴方が、その引き金を引けば後悔します」

「はっ――もう後悔している。どうせ死ぬのなら、道連れにしてやる……」

 男は自棄になったように口角を吊り上げる。その目に宿るのは、狂気――。

 フィアがその目を前に、わずかに躊躇を見せた瞬間――ローラはふっと笑った。

「撃っていいよ。避けられるから」

「……ほう?」

「……ローラ」

 姉と妹の視線がわずかに交錯し――フィアは目で心配を伝える。

(無茶は、やめなさい――私が、どうにかします)

 その意志を見て取ったのか、ローラは屈託のない笑顔で告げる。

「大丈夫――なんとか、なるから」

 そういう彼女の目は凄まじいほどの決意が滲んでおり――その笑顔には、どこか諦めに似たような色合い。そのまま、儚げな口調で笑った。

「兄さまを、よろしくね」

 それと共に、ローラが動く。それに弾かれるように、男の引き金に指が掛かり。


 どこからか、風切り音が響き渡った。


「――がッ!?」

 どこからともなく、飛来した何かが、男の手をしたたかに穿つ。弾け飛び、木立に消えて行った拳銃――その瞬間、フィアが動いていた。

 一瞬の踏み込みと同時に、拳を振り抜く。

 そのまま放たれたアッパーカットが、男の顎先にめり込んだ。

 わずかに浮いた男の身体は少し離れた場所に崩れ落ちる――意識は、刈り取られていた。

 ふぅ、と一息つき――フィアは、非難するような目つきをローラに向ける。

「ローラ、貴方は……」

「待った、フィア」

 その声は、木立の中から聞こえた。その声に振り返ると、その木立の間からするりと滑るように人影が出てくる。

 困ったような笑顔を浮かべた――大切な、二人の主。

 カイトはため息交じりに、フィアとローラを見て告げる。

「そのお説教は、僕が引き受けるよ」

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