第3話
ゆっくりと、殺した足音が近づいてくる。
わずかに微睡んでいたカイトは薄目を開き、足音の方を見やり――小さく言う。
「おかえり、フィア」
「あ――すみません、起こしてしまいましたか?」
「ううん、だけど、少し心配した」
「ふふ、私は火竜ですよ? 心配は無用です」
少しだけはにかんでみせるフィアは、そっとカイトの傍でころんと横になる。湿った髪から、わずかに淡い香りが漂ってくる。
(――水浴び、していたのかな)
眠れずに、気分転換したのかもしれない。
だけど、それでも彼女の笑顔に、寂しさが宿っているのを見て――カイトは少しだけ身を起こす。
「――眠れない、とか?」
「あ、いえ、そうではなくて――汗が気になっただけなので」
そう言われてしまうと、少し自分の体臭が気になってしまう。自分の腕に鼻を寄せて確かめながら、カイトは小さくつぶやく。
「――僕も、水浴びするかな」
「あ、いえっ、カイト様は匂いませんよ! むしろ、いい匂いです。大丈夫です!」
ぱたぱたと慌てて首を振るフィア。濡れた髪が揺れ、水を散らす。
それを浴びながら、少しだけカイトは首を傾げる。
(しかし、いい匂いとは……?)
なんだか、深く触れてはいけない気がする。そう直感したカイトは、話題を変えるように訊ねる。
「なんだか、浮かない顔をしているように思えたのだけど」
「――カイト様には、隠し事ができませんね」
フィアは少しだけ苦笑いを浮かべる。観念したようにそっとその場で正座すると、彼女はそっとその場で頭を下げた。
「ありがとうございます。カイト様。私を、選んでくれて」
「お礼をされるほどでもないけど……」
「それでも、ですよ。カイト様」
そう言って微笑んだ彼女の笑顔は、とても優しそうに微笑んでいて――だけど、その目はわずかに憂いを含んでいる。
ここにはいない、誰かを心配するように。
「私は――私たちは、はずれボスです。だから、いつも引かれては送り返される、ということをされていました。当然ですよね、はずれ、なんですから」
自嘲するように言葉を重ね、彼女は少し表情を暗くしながら俯いた。
カイトは身を起こし、その場に胡坐をかいて向き直る。その彼から視線を逸らすように、小さな声で言葉を続ける。
「時には罵られるときすらありました。だけど、仕方がない、と受け入れてくれましたし――送り返されては、慰めてくれる妹がいましたから」
「妹?」
「はい、ローラと言います。少し悪戯好きで無邪気な子なんですよ」
「ああ……」
その寂しそうな笑顔を見つめて、カイトは察した。
(フィアは――その、ローラのことを、心配しているんだな……)
フィアは目を伏せさせ、小さな声で続ける。
「私は頼りになるカイト様に出会えました。短い付き合いですが、カイト様を頼もしく思っています――きっと、ポイントがなくてもやっていけるのだろうな、と。でも、そうなると、ローラのことが心配で……」
ぎゅっと自分の胸の前で手を握りしめ、拳を震わせるフィア。その様子が痛々しく感じられ――気が付けば、カイトは手を伸ばしていた。
そっとその頭に手を当て、慰めるように撫でる。
「――大丈夫だ。なるようになる」
「あ……」
そっと、金髪を梳きつつ、優しく撫でる。まるで、絹糸のような柔らかい肌触り。
それを大切に労わるように撫でながら、カイトは言葉を続けた。
「無責任かもしれないけど――きっと、何とかなると思う。僕は、そう思うよ。もしかしたら、巡り合わせで僕のところに来られるかもしれないし」
「あは……無理ですよ。一万ポイント使うんですよ。それだけのポイントがあれば、まずは地下層を増やした方がいいです」
「そっかぁ、そうだよな。だって、フィアと同じ子だし」
「はい……でも、不思議ですね……」
そっとフィアは膝立ちですり寄ってきながら、掌に頭を押し当てるようにして、目をとろんと細める。わずかに上気した頬で、小さくはにかんだ。
「カイト様に撫でられているだけで、心が落ち着いてきます――何とかなるような、気がしてくるんです」
「ん、それでいいんだ。いらないことで心配するよりも、今の最善を尽くす。それが、いつでも一番のことなんだから」
気がつけば、フィアはカイトの胸で甘えるようにしなだれかかっていた。
それをカイトは拒まずに、その頭を撫でながらゆっくりとその背をとん、とんと叩く。
「明日も朝から早く、ダンジョン開拓だ。今日はもう寝よう」
「ええ……なんとか、なりますよね……」
「うん、きっとなんとかなる」
だんだんと、フィアの声がか細くなっていく。それを感じながら、カイトはゆっくりと地面に寝そべる。
昨日と同じ、固くてごつごつした地面。
だけど、懐にいる少女の感覚は柔らかくて、何より温かくて。
(――今日は、温かく眠れそうかな……)
そう思いながら、カイトも優しい微睡みの中に吸い込まれていった。
――カイトが、ダンジョンマスターになって一か月が過ぎた。
その日も、カイトは熱心に作業に勤しんでいた。
粘土質の地面を掘り起こし、ひたすらに柔らかくしていく。固い土壌を、根気よく一生懸命ほぐしながら作業を続けていると、ふと後ろから澄んだ声が聞こえた。
「カイト様、今日は川魚が大量ですよ!」
「お――本当か? フィア」
振り返ると、駆け寄ってくるフィアの無邪気な笑みが目に入った。
彼女は駆け寄ってくると、両腕で大事そうに抱えた草籠を見せてくれる。その中には、まだ活きのいい魚がその中でぴちぴちと動いている。
「よし――じゃあ、数日は天気が良さそうだし、今日は干物でも作るか」
「はいっ、カイト様の干物、美味しいから楽しみです」
「嬉しいことを言ってくれるねぇ。じゃあ、今日はここまでにするか」
すっかり手に馴染んだスコップを担いで歩き出す。フィアはその隣に並びながら、後ろを振り返って言う。
「草や木も刈って、土も掘り返しましたけど……これだと、逆に敵の通り道になりませんか?」
その視線の先は、カイトが一生懸命掘り返した道がある。
彼が掘り返したのは、洞窟付近の土だけではない、ジャングル内も手を加えた。
周りの、鬱蒼と茂って足場のないところとは一転して、むしろ歩きやすいくらいに整備が進んでいる。泥状の土が、鬱陶しく足に絡みつくが、それくらいだ。
カイトはそれを見やり、うん、と頷いて答える。
「まあ、これは実は、敢えてなんだけど」
「敢えて、ですか?」
「ああ、こうやって整備をしておけば、侵入者も通りやすい道を進んでくれる――だから、罠も作りやすいし、進入路も確定しやすい。中国の城だと、こういう理念があって」
「チュウゴク、ですか?」
「ああ、ごめん、僕が元いたセカイの話」
「あ、では、今度、聞かせてください。カイト様のお話、聞いてみたいです」
にこにこと笑うフィアはとても楽しそうだ。距離も近く、甘えるように腕に手を添えてくる。親しみを感じさせる瞳を見つめ返し、カイトは目を細める。
(大分、フィアとも打ち解けてきたな……)
開拓の片手間で、フィアとはいろいろとお話をした。
ローラのことを聞いたり、このセカイの理を聞いたり。
あるいは、料理を作ってフィアの舌を楽しませてきた。
このダンジョンには豊富な資源がある。岩塩があれば、ジャガイモの亜種のようなものも生えていて、ツルナらしい植物も群生している。他にも、根菜や豆もたくさん。
キノコは少し怖いから手を出せないが、それを差し引いても豊富な食料だった。
それらを生かし、カイトが旅をしてきて培った民族料理を振舞っていた。
「――そういえば、カイト様、魚の内臓を毎回集めて、しまっていますけど、何かまた美味しいものを作られているのですか?」
「ん? ああ、ガルムを作っているんだ」
ローマを旅したときに教わった、いわゆる魚醤を思い出す。
内臓を塩漬けにし、こなれさせている。今のところ、上手く行っているが……ひどい悪臭がするので、洞窟の外で保管している。
「まあ、調味料だよ。楽しみにしていてくれ」
「やったっ、カイト様の美味しい手料理、楽しみです」
ぴょんぴょん、と彼女は嬉しそうに目を輝かせて飛び跳ねる。
それくらい、フィアはカイトの料理に夢中になってくれているのだ。
それを微笑ましく見守っていると――不意に、彼女がぐらりと体勢を崩す。
「わっ、と――」
「危ない」
そっと肩に手を添えて支える。泥濘に、足を取られたらしい。
彼女はよろめいた姿勢のまま、ぱちぱちと瞬きをし――慌てて、体勢を立て直し、ぺこりと頭を下げた。頬を染めながら、照れ笑いをする。
「あ、ありがとうございます」
「どういたしまして――気をつけてな? この土壌は、まだぬかるんでいる。雨が降ったら、ずぶずぶ沈んでいくぞ」
「う、ぞっとします……今、それを改善しているのですか?」
「まあ、改良、だな。うん」
曖昧な答え方をすると、あれ、とフィアは首を傾げる。
「ん……? 違うのですか?」
「後で話すよ。それより、足は大丈夫?」
「あ、はい、カイト様が編んでくれた靴があるので」
正確には、藁沓、という。草で編んだ靴は各地で見られるのだが、カイトはそれの作り方を覚えていた。うろ覚えだったが、しっかりとできているらしい。
雪下駄のような形状で、泥の中でも沈みにくいようになっているのだ。
しっかりと守られた足を見せて、えへへ、と笑うフィア。
「――まあ、でも靴はどうにかなっても、服はそろそろ厳しいかな」
「う……そう、ですね……」
フィアは思い出したようにそっと身を押さえて、頬を染める。
彼女が最初に来ていた服は、もうすでにぼろぼろだ。麻布のシャツはもう擦り切れ、袖はなくなっている。ぼろぼろになって、胸は隠れていても白いお腹はちらちらと見えてしまう。
ズボンも裾が切れて、ホットパンツのようになっていた。
「……どうにかできないかな。綿花か蚕、羊がいれば……」
「え、カイト様って服も作れるのですか?」
「やり方を知っているだけだけどね」
「本当に、カイト様ってすごいですねぇ」
フィアは服を押さえながら感心したように言う。やはり、少しだけ恥ずかしいのかもしれない。敢えて、カイトは見ないようにしながら苦笑いを返した。
「まあ、いざとなれば残っているポイントを使えばいいし」
「わ、私は気にしないので大丈夫です……いざとなったら、葉っぱ一枚でも十分です」
「……それは、目の保養――もとい、目に毒だな……どきどきしてしまう」
「え、えへへ……そ、そうですよね……ごめんなさい」
何となく、気まずい空気が漂う。だけど、居心地が悪いわけではない。
照れ臭くなって笑い合いながら、二人は洞窟に戻って入り――。
瞬間、不意に目の前にパネルが浮かび上がった。
『侵入者を検知しました』
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