彼はその花の名を呼んだ
天の川月子
桜の季節
ピンク色の花弁が風に乗って流れていく。
綺麗、儚いという言葉を内包するその花の名と同じ名を私は持っている。けれど、私はその花のように美しくも儚くもない。
ピンク色の並木道が私の視界を覆い尽くしている。普段は見向きもされないただの木がこの時期だけは大勢の人に見つめられ、写真を撮られ、昼夜問わず愛されている。子ども連れの親子、若いカップル、杖をついた老人、皆その木を目を細めうっとりと見つめている。暖かい日差しの中花見をきめこんでブルーシートを広げている人達を見ながら私はベンチに座った。
そんな誰もが楽しそうにしているのに私は違っていた。
強い風が吹き、ざぁっという音と共にピンク色の花弁が私を襲ってきた。
一瞬、目を閉じてそっと開くと余韻のようにひらひら舞い落ちる花弁が暖かい太陽の光に照らされてキラキラと輝いている。
「ごめん、遅くなった。」
そう声をかけられて男が隣に座った。
白いYシャツに青いネクタイを締めているこの男は私の彼氏だった人。そして、今日の私の待ち人。
大学時代に茶色だった髪を就活のため黒に染め短くした髪も今は少し伸びていた。それが、彼と会っていない時間を感じて視線を花盛りの木へ移す。
「別に。今日も仕事なんでしょ?こっちこそ手間とらせて悪かったね。」
怒りも悲しみも声色に出ないように冷静に言えているだろうか。横に座る彼の顔は見えないがいつものあの目尻を下げ困ったような表情をしているのかもしれない。長身でバレーをしていた彼が困ったように目尻を下げると怒られた大型犬のようで可愛かった。その姿を思い出し、はらはらと舞い落ちる花弁を見ながら好きという気持ちを隠すようにため息を吐く。
先週まで肌寒かった気温が一気に上がり、二、三日で花盛りを終えた。明日からは雨だという予報に人々は散ってしまう前にとあふれかえっていた。
「ん。」
くれというように手を差し出すもなかなか目的のものが自分の手にのることがなく彼の方を見ると彼はそれを待っていたかのように私を見つめていた。
目が合う。
「何。」
赤くなりそうな顔に神経を集中させ眉を顰める。きっと変な顔をしているのだろう。
数秒見つめ合っていただろうか、二人の間を春風が花びらと共に通りすぎていったあと、彼は口を開いた。
「さくら、綺麗だ。」
ひどい男だ。
雨が続いた後の晴れた土曜日の昼下がり人々は儚く美しい花を愛で、酒につまみにと大人も子ども楽しんでいる中で
誰もが口にしているだろう言葉をこの男は口にした。
私と同じ名を持つ花の名を呼んだ。
私は込み上げてくる何かを押しとどめ目を細め花に目を見やる。
「そうね。綺麗だね。」
そう言った私に満足したのか彼はポケットから鍵を出すと渡してきた。
「すぐに返せなくてごめん。」
「別に返してくれるならいいよ。」
彼から受けとった鍵を握り自分のポケットへ入れる。
鍵はほんのりあたたかった。
これで最後になる。部屋の荷物だって全て送ったし、思い出の写真も全てかたずけた。あとは合鍵を受け取れば彼がもう私の家を訪ねて来ることはなくなる。
その鍵は自分のポケットの中にある。
私と彼は別れたのだ。
彼氏、彼女からただの男と女になってしまった。
「早く仕事に戻らなきゃいけないんじゃない?」
「うん。もう戻る。」
そう言って彼は立ち上がり一歩前へ進むと体を反転させ私を見つめる。彼が大事なこと言う時、必ず伝えたい時はこうやって相手の目をしっかりと見つめるのが癖だったなと思うと同時に緊張する。
今更、何を言われるのか。
「俺さ、やっぱりお前のこと好きなんだ。浮気したことは本当に悪かったと思ってる。お前の気持ち全然わかってないんだろうけど、俺はずっとお前を…。」
言葉は続かなかった。
私も彼も、もう何度もやりなおそうと話し合って涙を流した。
私だってやっぱり彼の事が好き。
それと同じくらい浮気された時の悲しみ、怒りが込み上げてくる。この感情達が私の中でぐるぐるとかき混ぜられていく。彼といると、彼の顔を見ると愛しさと苦しさでいつもいっぱいになる自分に耐え切れなくなった。だから別れた。
「ごめん。今は何も考えられない。」
続かなかった言葉の先を言わせないように私が言葉を紡ぐ。私の視線はもう彼と交差していなかった。私は彼の足元だけ見いていた。
「…うん。わかった。」
私の視界から彼の足は消える。
彼を追うように顔を上げると散っていく桜の花びらの中、彼の白い背中が見えた。
「さようなら」
口に出した言葉は何かの詰まりを溶いたようで
枯れたと思っていた涙が流れていた。
さわさわと控えめに風が吹くと桜の花を散らしていく。
同じ名を持つ私のこの感情も散っていってくれないかと思った。
彼はその花の名を呼んだ 天の川月子 @arm0912
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