メンヘラインフェクション

木下美月

メンヘラインフェクション

 

 ヘッドフォンは聴覚を遮断してくれる。

 その恩恵とは、周囲の騒音を自分がいる所とは別の世界に追いやってくれる様なもので、煩い都会の電車に乗る時には、必ず僕の耳は塞がれている。

 そしてまた、一つの感覚を遮断する事は注意力を散漫にする効果もあり、だから、彼女に肩を叩かれるまでは、そこに人がいた事すら気付かなかった。


「音、漏れてます」


 ヘッドフォンを外した僕にかけられた言葉の通り、周囲の空気はロックンロールが支配していた。


「え、ああ、すみませ――」


「私も、好きなんです」


 は?と固まった僕の表情をほぐす様に、彼女は続けた。


「そのロックバンド。ファンキーなピーブイみた時から惹かれていって、そのノリとは裏腹に、低音の優しく包んでくれる様な心地良さがたまらないんですよね。あ、もちろんバラード系だけじゃないですよ。キュートなポップも、パンクなシャウトも、あのボーカルにあっているというか。多彩ですよね。作詞作曲の全てを担当しているギターのセンスにも感服だし。間奏時のギターソロには一目惚れでしたね」


「あ、ええ、そうっすよね」


 なるほど、熱心なファンか。

 異様な雰囲気を感じるのは、冷たい都会の中で、彼女の様な人が珍しいからだろうか。

 好みが一致したからといって、知らない男に容易く話しかける様な女性、今のご時世いないだろう。

 少なくとも僕は今まで会ったことがない。


「確かに、僕もライブ映像好きなんすけど、トークに滲み出る彼らの人柄も好印象で。やっぱそういうのって音楽にも響くんですかね」


 出来るだけ当たり障りのない返答を心掛ける。間違った事を言ったら罵られるのだろうか。

 それくらいなら別に構わないが、周りにも人がいる電車内で彼女の機嫌を損なう事は気まずいと感じる。


「お兄さん熱烈ですね。そこまで考えて音楽聴くなんて、愛が深いです。爆音で流してたのも、どっぷりハマり込んでる証拠ですね」


 再び話し始めた彼女に、僕はギョッとする。

 人がまばらな電車の中でドアの付近に立っていた僕だが、彼女は人一人分くらい離れていた。

 だが、ヘッドフォンを鞄にしまった僕が視線を上げると、電車が揺れれば触れる程の距離にまで彼女が近付いていた。

 その上、彼女の目はずっと僕の顔を見上げていた。少しも逸らさずに、変化のない表情で僕を捉えていたのだ。

 はっきり言って、少し怖い。


 何を言おうか言うまいか、悩んだ僕を助けたのは、停車駅を知らせる車内アナウンスだ。


「あ、次、僕降りるので。お話面白かったです」


 流石に連絡先の交換など頼まれないだろう。見ず知らずの相手なのだ。それに携帯を取り出して操作するより先に、ドアが開く。

 だが、彼女の挨拶を待った僕に向けられたのは、疑問だった。


「え? ここで?」


 ここで降りる事に何か問題があるのだろうか。僕は平日、いつもこの時間にこの駅で降りる。もっとも、いつもの電車で彼女の事は見覚えはないが、僕がここで降りるのは当然の事だ。

 そんな表情をしたお陰か、彼女も頷いてくれた。


「ああ、そういうことですか」


 ドアが開いた為「じゃあ」と会釈したが、マナー違反な客達が、僕が降りる前に車内に乗り込んできた為、人の波に揉まれ、彼女の応えは聞こえなかった。


 不思議な女性だったな。後になって思う。

 女性というにはまだ若い、大学生くらいだろうか。それにしては随分と落ち着いていた。大人と話す事にも慣れている様だった。

 そんな子が見ず知らずの僕に話しかけてくれた事は、不思議だと思うと同時に少しの恐怖があった。その理由の最たるものは、無感情にこちらを見つめていた目だ。

 もしかしたら何らかの欠落を抱えているのかもしれない。精神、或いは、知能に。

 まあ、僕には関係のない事だ。


 些細な出来事は、日常に戻れば簡単に埋もれてしまう。

 給料も低くはなく、残業もほとんどないこの仕事に、不満はあまりない。

 しかしそれでもストレスというのは溜まるんだろうか。

 定時に退勤した僕は、やけに凝り固まった肩と、重たい首を回しながら帰路に着いた。


 まだ遅い時間ではないし、何か料理を作って食べようか。

 スーパーに寄って、適当に安い材料を買う。『広告の品』なんて宣伝文句で売っていた物ばかり買っていたら、カレーを作る材料が揃っていた。これはスーパーの策略にハマったな。


 片手に一つずつ、両手にレジ袋を持ってアパートに帰った。階段を上がり、二階の奥の部屋の前で、レジ袋を床に置く。

 鍵は鞄の中だ。

 取り出し、鍵を開け、ドアを開く。

 片足でドアを支えて、開いたままの玄関にレジ袋を放り込もうと、少ししゃがんだ時だ。


「お疲れ様です」


 真後ろからかけられた声に驚き、恐怖した。

 床に置いたレジ袋を持ち上げた女性は、今朝会った彼女だった。


「言ってくれれば持ちましたのに」


 何を言ってるんだ。

 いつからここに?

 後をつけられたのか?

 全く気付かなかった。


「カレーですね?勿論、私が作りますよ」


 彼女は勝手に部屋の中に入って行く。

 状況が理解出来ない。本当に異常者なのかもしれない。

 予想外を上回る、奇想天外な女性は、当然のようにキッチンへ行き、冷蔵庫や棚を確認しながら買った物を収納、或いは台に置く。


 思考が追いつかない。

 彼女があまりにも平然としているから、彼女が正常で、僕が異常なんだと、そんな気がしてきた。


「何故、ここに?」


 ようやく発せられた言葉は、無理して搾り出されたみたいだ。


「え? 何故って、今日はそういう予定だったじゃない」


 それってどういう予定だ。

 声にならずに、唇を震わせるだけの結果に終わる。


 明らかに狂っている。

 僕が彼女とそんな話をしただろうか。

 僕と誰かを間違えているんじゃないのか。

 しかし思い返してみれば、今日一日視線を感じたような。重たい肩はそのせいだろうか。

 ではやはり、電車を降りた時からつけられていたのか。


 いや、過程はひとまず置いておこう。

 話さなくてはならないのは、倫理観についてだろう。他人を尾行し、家に上り込むなんて、犯罪者じゃないか。僕は警察に言って物事を大きくするつもりはないが、彼女が再び間違いを犯さないように、しっかり諭さなくてはならない。


「あの……さっきから難しい顔してますけど、やっぱり後悔してますか?そりゃそうですよね。ちょっと気が合っただけで私の事誘ってくれるなんて、都合が良すぎますから……」


 なんだって。

 僕が誘った?

 やっぱり彼女は頭がおかしいんだ。何か勘違いしている。僕は話をする事を諦めた。


「君、ご実家は?親御さんの所に帰ろう。きっと疲れているんだよ。ゆっくり休んだほうがいい」


 何かしらの病気を抱えているとしたら、保護者の元へ帰すべきだ。そして二度と僕に会いに来させないで下さい、とお願いしなくてはならない。

 そう思って立ち上がる。「家まで送る」と言うと、彼女は「一人で帰れます」と寂しそうに部屋を出て行く。

 あまりにも健気に去るものだから、小さい背中を見送りながら僕の胸には罪悪感が生まれる。

 しばらく呆然としていたが、キッチンの調理途中の野菜達を見つけてから、渋々カレー作りに取り掛かった。




 さて、次の朝、僕は電車に乗る時に期待と不安を胸に抱きながら、いつものドアから入る。

 昨日の彼女はいない。途中で乗ってくるのだろうか。

 久々にヘッドフォンをつけずに揺られていた。

 彼女は現れなかった。



 別に寂しい事はない。

 ただ少し悪い事をしたかな、と思う。

 彼女だって人間なのだ。どこかがおかしくっても、傷付いたりするだろう。

 謝りたいな。

 出来るだけ遠回しに言ったつもりだけど、せっかく来てくれて、料理をしてくれている子に向かって「帰れ」は酷かったろう。


 そんな思いが届いたのだろうか。

 僕が会社から帰宅すると、ドアの前で彼女は待っていた。


「お疲れ様です。昨日は気を遣って頂きありがとうございました。今日は夕食ご一緒しても良いですか?」


「ああ、こちらこそせっかく来てくれたのに追い返してすまなかった。昨日のカレーが残ってるんだけど、それでいいかい?」


 僕が言うと、彼女はあまりにも嬉しそうに笑うから、こちらまで笑みがこぼれてしまった。



「なんだか二人で作り上げた愛の形って感じですね。私は野菜切っただけですけど、それを調理してくれたお兄さんが私のバトンを受け取ってくれたみたいで嬉しいです」


 話す内容は突飛だったり、大げさだったりするのだが、やはり悪い子ではなさそうで、昨日よりもよく笑う所が好印象だった。




 その翌日も彼女と会った。


「待たせてごめん、早かったね」


 休日だから水族館に行こう、そう決まったのは昨日のメールでのやり取りだ。

 既に待ち合わせ場所の噴水前で下を向いていた彼女は、僕を見つけて顔をほころばせる。普段の表情が冷たく見えるせいか、彼女の笑顔は特別にまぶしい。


「今日が待ち遠しかったですから」


「昨日会ったばかりだけどね」

 僕は彼女の言葉に笑いながら歩き出す。

「早速行こうか」






 こんな幸せな日々が幾日も続いた。

 雨が降れば家でくつろぎ、晴れた日にはショッピングにも出かけた。

 平日は仕事帰りに食事をしたり、休日はドライブにも行った。


 しかし共に過ごす時間が長い程、お互いのことがよく見えてくる。好める面も、そうでない面も。






「あ、あの、先輩……」


 ある日、仕事の休憩中に女性社員から言われた事だ。


「どうかした?」


「言いにくいんですけど、これから私、先輩に関わらないようにするので、メッセージも出来るだけ送らないようにするので、どうか彼女さんによろしくお伝え願えますか?」


「は?」

 後輩の言いたい事がわからず、僕は一から説明を求めた。


「すみません、ご存じなかったんですね……恐らく先輩の彼女さんが、私にSNSで嫌がらせのメッセージ送ってくるんです……内容は殆どが、先輩に関わるな、って事なんですけど、私は最初反発しちゃって、どうして貴女に人間関係を管理されなくちゃいけないの?って……」


 後輩は疲れた表情で続けた。

「そしたら色んなアカウントから罵詈雑言が送られてきて、ブロックしてもまた新しいアカウントから……私すごく怖くなってしまって、だから直接謝罪しておいてもらいたいんです……」


 僕は全く知らなかった。愛されている気持ちは非常に嬉しい。

 しかし彼女の僕に対する独占欲が、周囲の人間に迷惑をかけているのなら、それは良くない事だ。


 僕は後輩に誠心誠意謝ってから、仕事に戻った。


 作業の最中も彼女の事を考えていて落ち着かなかった。

 今日も彼女は僕のアパートにいるはずだ。スペアキーで入り、今頃夕食の準備をしているだろう。

 帰ったらすぐに話し合おう。


 いよいよ終業時間になると、僕は誰よりも早く帰路に着く。

 電車に乗っている間も思考を整理し、今回起きた事件も、前々から言おうと思っていた事についても考えをまとめておく。



「あ、おかえりなさい」


 いつもより少し早く帰宅した僕を、彼女は不思議そうに見つめた。


「君、僕の後輩に嫌がらせをしたそうじゃないか」


 前置きも無しに、僕は帰宅一番で問い詰めた。

 数秒の沈黙。

 彼女は呆れたように答えた。


「嫌がらせをしたのは貴方でしょ。前々から我慢していたけど、どうして私以外の女と親しくするの?私が悲しむ事、想像できないの?一緒に食事までして」


 その瞬間、僕は全身の毛が逆立つ感覚を覚えた。

 後輩の女の子と食事をしたのは、社内食堂のランチのみだ。それも数える程しかないし、話の内容は殆どが仕事の事について。

 なのにそれを責められなければいけないのか?

 そもそも彼女は、どうやって五階にある社内食堂の様子を覗いたんだ?

 まさか僕に盗聴器を、あるいは向かいのビルの屋上から監視されていたか?

 ずるい。不愉快だ。自分だけが被害者だと思いやがって。


「君だって……」

 僕は低い声で呟いていた。


 彼女と付き合ってから生まれた感情。それは酷く歪な形をした純粋な愛だと思うが、鋭利な刃物のように周囲を傷付け易い。だから理性で塞き止めていたけど、今それが決壊して、僕はどうしようもなく昂ぶってしまった。


「君だって前付き合ってた彼氏からプレゼントされたカバンを未だに使っているじゃないか!それにそのイヤリングはその前のパートナーにねだって買ってもらったやつだろう!僕という男がいながら、他の男の思い出をどうして大切にしているんだよ!」


 彼女は少し目を見開いて、震えた唇から言葉を押し出した。


「どうして貴方が知っているのよ!」


「そんなの君を愛していれば当然知る事のできる話だ」

 大声を出したお陰で少し冷静になれた僕はそのまま続ける。

「いいかい、君は自分を被害者だと勘違いしている。だけどそれは正しくない。僕も君の事を、君の理解が及ばないレベルで愛している。だから君がスーパーのレジで男性店員の列に並んだだけで僕の心は酷く傷つく」


「そんなのあたしだって……」

「それなのに、元カレとの思い出を大事にしているなんて、僕の視界はもう……眼球を抉られたかの様な絶望的な闇に支配されているよ」


 僕の言葉に、彼女はもう反論してこない。

 俯いた瞳は長い前髪の影で暗い。

 直後、彼女は元カレに貰ったカバンに右手を突っ込む。

 出て来た鋭利な銀色の刃は僕の喉元に迫る。

 寸前のところで彼女の両手を掴むが、僕は勢いに押されて床に背中を叩き付ける。

 大きめの牛刀を握った彼女は僕に馬乗りになり、刺さらずに首に触れている刃先で命を貫こうと力を込めている。

 男の僕が負けるはずないのだけど、悲しかった。


「君にはやはり僕は必要ないのかい」


「いいえ、違うわ」

 彼女は涙を流しながら答えた。

「私達が愛し合うには、この世界には邪魔が多いの。だから誰も居ない、二人だけの世界に行きたいの」


「そうか……」

 僕は左手だけで彼女の両手を抑え、空いた右手を、床に転がっている僕のカバンに突っ込み、中から果物ナイフを取り出して彼女の首目掛けて振るう。


「何するのよ!」

 彼女は包丁を手放し、僕の上から離れてナイフを避けた。


「二人だけの世界に行くんだろう?大丈夫、君を刺したら直ぐに後を追うさ」


「信じられない……」


 彼女は絶望した様な表情でもう一度呟いた。


「貴方なんて、信じられないわ」




 ――――――――――――――――――――




 あれから一ヶ月、もう彼女とは会っていない。

 あの後彼女は黙って部屋を出て行ったが、信じられないのは僕の方だ。どうせ僕を殺した後は、彼女はのうのうと生きて元カレと復縁でもするんだろう。いや、それは考え過ぎだろうか。

 ともかく、お互い自分の愛を上手に伝え合う事が出来なかった。そこから歪みが生じ、ちょっとしたことで傷だらけになっていたんだ。

 いや、そもそも彼女の価値観が僕とズレていたのがいけなかった。思い返せば初めて出会った時、僕は彼女を怖がっていたのだ。


 あれ、何故怖がっていたんだっけ?


 まあいいや。過去の事を悔やんでも仕方がない。



 今日も僕は電車で通勤する。

 彼女が好きだって言っていた音楽はもう聴いていない。

 心機一転、今の僕は小説に夢中だ。

 車内のドア付近に立って、本を開こうとする。

 その時、座席に座った女性が読んでいる本が目に入った。

 頭上からだから、開いたページの上部に書いてあるタイトルが読めた。


「その本、僕も好きなんです」

 つい声に出してしまった僕だけど、先週まで読んでいたこの小説は本当に面白かった。


「え?あ、ええ。いいですよね」


 彼女も残りのページ数が少ないし、もうすぐ読み終わるのだろう。そしたら一緒に感想を話し合ったりしたいな。


「ストーリーが泣けたり、散りばめられたユーモアがハイセンスだったり、そもそもこの作者の文体が好きで、表現一つとっても魅力的なんですよね」


 僕は彼女の正面に立ってその綺麗な瞳を見つめる。彼女の視線は本に向いているが、返事をしてくれた。


「確かに、私も前作を読んでハマってしまって……」


 その時、顔をあげた彼女と目が合った。

 はっきりとした目元を更に大きく見開いて。

 まるで運命の相手に出会った時の驚きみたいな表情だ。

 僕は確信した。

 これは両思いの恋だ。

 交わした瞳の奥が語っている。

 もっとあなたと話したい。

 そうか、それは僕も同じだよ。

 偶然趣味も一致しているし、今すぐ二人きりになっても話題は尽きないだろう。


「あ、次、私降りますので。お話楽しかったです」


「え?ここで?」


 今到着した駅にデートスポットなんてあっただろうか。

 しかし彼女はここで降りる事を当然の様な表情をしている。


「ああ、そういう事ですか」


 今の彼女はスーツ姿だ。つまり、今日一日働く姿を見ていて欲しいという事だろう。そして終わった後、今よりも深く知った彼女と、深く話をするのだ。


「それじゃあ」と席を立つ彼女に、僕は少し離れてついて行く。

 あまり近くにいては、彼女も緊張して普段通りではいられないだろう。

 だからこうして、僕は遠くから色んな表情の彼女を知るのだ。

 そして夜になれば、彼女は僕にだけ見せる表情でこちらを向くんだ。


 だからそれまで、彼女をずっと見つめ続けよう。

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