第182話 特別編⑤ 『仮装と乙女心』(中編【イルリア案】)

 ようやくハロウィンの夜が更けていく。


 普段とは異なり、夜の営業もあったため大変であったが、普通の飲食店ならば、これが当たり前なのだ。

 昼食時の始まりで、仕込んでいる数はかなりのものなのに、料理が底をつくこの店が、<パニヨン>が異常なのだ。


 料理はもちろん、バルネアとメルエーナが作ったクッキーも配り終えた。そして、こうして店の後片付けも済んだ。

 クッキー作りを手伝えなかった分、先にバルネアさん達には休んでもらったジェノは、汗を流してから休もうと、浴場に向かうことにした。


 もう遅いので、いつもよりも早くに風呂を出て、ジェノはもう一度戸締まりを確認しようとした。だが、客席の辺りに明かりが灯っているのを見て、そちらに足を運ぶ。


「何をしているんだ、メルエーナ?」

 厨房に一番近い客席で何かをしていたのは、今年の仮装である、神官服を身に纏ったメルエーナだった。


 初めてみたときには、ジェノもあまりに本格的な衣装で驚いたが、それもそのはずで、この衣装はパメラ伝いで借りてきた、本物の神官服なのらしい。


「あっ、ジェノさん。お疲れさまでした。戸締まりは私が確認しておきましたので、大丈夫ですよ」

 メルエーナは答えにならないことを口にする。


「それはありがたいが、もう休んだほうがいい。明日も仕事が……」

「はい。それは分かっているのですが、祭りの後のせいか、気持ちが落ち着かなくて」

 メルエーナはそう言って苦笑する。


「そこで、寝る前に少しだけお酒を頂こうと思いまして。その、ジェノさんも良ければ少しお付き合いしてくださいませんか?」

 メルエーナはいたずらっぽく微笑む。


 酒の入った瓶の他に、一人で食べるには多すぎるチーズをはじめとした、つまみ。それに、グラスも二つ。

 どうやら、初めから自分のことも誘うつもりだったのだとジェノは理解した。


 ここまで準備をさせておいて、無下に断るのも申し訳なく思い、ジェノは少しだけ付き合うことにする。


「お疲れさまでした、ジェノさん」

「ああ。お疲れ様だ」

 客席に向かい合って座り、メルエーナが酒を注いでくれた互いのグラスを軽く合わせて、ジェノとメルエーナは互いを慰労する。


「……変わった酒だな」

「お口に合いませんか?」

「いや、驚いただけだ。甘みがあって随分飲みやすいな」

「ふふっ。イルリアさんに頂いたお酒です。すごく飲みやすくてオススメだそうです」

 メルエーナは嬉しそうに説明をし、自分もグラスに口をつける。


「おつまみもどうぞ」

 メルエーナに促され、ジェノは皿から薄く切られたチーズとサラミを口に運ぶ。


「……旨いな」

「ここのところ、カボチャ料理が続いたので、こういった塩気の強いものがいいかと思いまして」

 メルエーナの気遣いに感謝をし、ジェノは酒をゆっくりと飲み干す。


 本当に口当たりが良くて飲みやすい、その上、この上品な甘さが後を引く。塩辛いつまみがあれば余計に。


「ジェノさん、どうぞ」

 メルエーナは楽しそうに微笑み、ジェノのグラスにお代わりを注ぐ。


 普段とは違う神官服姿のメルエーナに違和感を覚えながらも、ジェノは喜んでそれを頂くことにした。


「……ああ、旨い」

「ええ、本当に。美味しいです」

 メルエーナはグラスを手で弄び、ゆっくりとお酒を口に運ぶ。


 その顔が酒精でほんのり赤く染まるのが、燭台の明かりだけでもはっきりと分かった。


「ふふっ、言いそびれてしまいましたが、ジェノさんの仮装、本当に素敵でした」

 メルエーナが不意にそんな話題を振ってきた。


「あれは、バルネアさんに渡されたものを着ただけだ」

「ですが、すごくお似合いでしたよ。本当に……」

 メルエーナは柔らかく微笑み、また、いつの間にか空になってしまっていたグラスにお酒を注いでくれる。


「しかし、吸血鬼に神官の組み合わせというのも、本職から見たらどうなんだろうな?」

 ジェノは珍しくそんな冗談めいたことを口にする。


「パメラさんには、きちんとジェノさんを退治しなさいって言われました」

 メルエーナもそれに笑顔で返す。


「そうか。過去には、そういった魔物と神官が命がけで戦っていたんだろうな……」

「そうですね。今の時代も魔物の驚異がまったくないわけではありませんが、それでも、平和な時代に感謝しないといけませんね」

「ああ。本当にそうだな。先人には、感謝を……」

 そこまで口にしたところで、ジェノは不意にメルエーナの姿がぼんやりとしてきたことに気づく。


 だが、別段彼女になにか異変が起こったのではない。

 おかしいのは、自分の視界の方だ。


 景色が回り始める。

 それが、今まで飲んでいた酒によるものだと理解したときには、もう遅かった。


 急速に回っていく酔いに抗おうと、ジェノはテーブルに手を付いてこらえようとしたが、それも無駄なあがきだった。


 程なくして、ジェノの意識はそこで途切れた。

 

 ただ、最後に顔を見上げた時に、なぜかメルエーナが微笑んでいたような気がした。





 そろそろ起きる時間だ。

 目覚まし時計をセットしなくても、体に染み付いた習慣はその事実を理解させてくれる。

 

 静かにジェノが瞳を開けと、見慣れた天井がまず視界に入ってきた。


 自分は、間違いなく自分の部屋のベッドに仰向けに寝ている。

 それはいい。だが、それ以外が問題だ。


「おっ、おはようございます、ジェノさん……」

 自分の無骨な右腕に、柔らかな感触と心地いい温もりを与えているその人物は、顔を真っ赤にしながら、遠慮がちにジェノに朝の挨拶を交わしてくる。


「……すまん、メルエーナ。俺は一体何をしたんだ?」

 恥ずかしながら、昨日の晩に、メルエーナと酒を飲んでからの記憶がまったくない。


 自分はそれなりに酒には強いつもりだったので、こんなことは初めてだ。


「……そっ、その……。やっ、やっぱり格好だけの神官では、吸血鬼には敵いませんでした……」

 メルエーナは一層顔を赤くして、顔を俯ける。


 婉曲的な答えに、ジェノは戸惑い、視線を動かすと、彼の左側、つまりは部屋の入口側の床に、衣類が散乱していた。


 ジェノのものではない。そこにあるのは、見慣れた神官服と、女物の下着類だった。


「あっ、その……。私、ジェノさんが眠ってしまわれたので、なんとかお部屋まで運んだんです。ですが、ベッドに寝かせようとしたところで……不意に私を抱きしめて……」

 メルエーナは顔を上げて説明してくれたが、そこまで言うと、目を伏せる。


「……酔った俺が、お前を……」

 ジェノは自分の行動が信じられなかった。だが、全くそのようなことをしなかったと断言などできない。


「そっ、その、大丈夫です。ジェノさんはかなり酔われていたので、さっ、最後までは……。ですが、その、ずっと一晩中、私を離してくださらなくて……」

 メルエーナの説明に、ジェノは頭から氷水をかけられたような気持ちになった。


「……ですが、私はもう、他の方のお嫁さんにはなれません……」

 そう言うと、掛け布団の中にメルエーナは隠れてしまう。


 しかし、ジェノの右腕には、確かに一糸まとわぬ彼女の生の肌の感触が伝わってくる。

 間違いない。自分は、酔った勢いでメルエーナを抱きしめただけでなく、衣類を脱がせて、ベッドに連れ込んだのだ。


 これが見ず知らずの女の発言ならば疑いもする。

 だが、あのメルエーナが言っているのだ。彼女が、そんな自分の価値を落とすような嘘をつく理由がない。


「すまん、俺は……」

 ジェノはそこまで言ったところで、首を横に振る。


「違うな。今更謝って許されることではない。メルエーナ。責任は取らせてくれ」

「……そうして頂けると嬉しいです。でっ、でも、あまり深刻に考えすぎないでくださいね。わっ、私も、いつかジェノさんとこういう関係になれたらいいなって、思っていたんですから」

 メルエーナはそう言って、健気に微笑む。


「そうか……。それなら、俺は一生をかけてお前を大切にする。それが、俺の」

「……そんなのは、悲しすぎますよ……」

「なにっ?」

 メルエーナの言葉に、ジェノは驚く。


「私は、ジェノさんとこういう関係になりたいと思っていたんですよ。それなのに、義務感で私を大切にしてくださっても嬉しくないです。そんなのは、悲しすぎます」

「……そうか。それなら、俺はどうすれば……」

 困るジェノに、メルエーナはにっこり微笑んだ。


「とりあえず、キスをして下さい。順番は逆になってしまいましたが、そこから始めていきませんか?」

 その提案に、ジェノは救われた気がした。


「そうだな。ありがとう、メルエーナ」

 ジェノはそこまで言うと、静かに瞳を閉じたメルエーナの体を抱き寄せ、彼女の小さくも可憐な唇に、自らの唇を重ね合わせるのだった。







「というわけで、既成事実をでっち上げてしまうのが一番簡単じゃあないですか?」

 イルリアのその発言に、メルエーナは、いや、パメラもリリィもドン引きした。


「イルリア、それはあまりにも夢がないわ! それに、なんでわざわざ神官服をメルに着せる必要があるのよ!

 いや、似合うだろうから、私のお古を貸すくらいのことは喜んでしてあげるけれど!」

 パメラがどっちつかずな反論をする。


「えっ? もちろん神聖な格好をしたメルを襲ったと思わせるほうが罪悪感が強いからですよ。あとは、そのまま本当に既成事実を作ってしまえば……」

「そんなのは、間違っています! そもそも、そんな方法でジェノさんの気を引いても、嬉しくありません!」

 メルエーナは頑なにイルリアの意見を否定する。


「まぁ、実行するもしないも貴女の自由よ。でも、これくらいのことをやらないと、あの朴念仁は、振り向いてはくれないと思うけれどね。

 それに、あのマリアって女に、ジェノを先に寝取られる可能性も忘れない方がいいわよ」

 イルリアは非難の言葉も何のそので、淡々と事実を言う。


「そっ、そうですよね。あのジェノさんが相手ですし、マリアさんにジェノさんが惹かれてしまう前に、関係を作っておくのも……」

 リリィがイルリアの説明に納得してしまい、メルエーナは少しだけ心が揺れてしまう。


「でも、やっぱり駄目よ! 女神リーシスの神官として、偽りで契りを交わさせようとすることは看過できないわ!」

「メルは確かに女神リーシスを信仰していますが、信仰が人間の行動の全てではないでしょう? ここは、素直にメルに選んで貰うのが一番ではないですか?」

「そうね。リリィの案はリスクが高すぎるから、私か貴女の案のどちらかね」


 イルリアとパメラは、座った目でメルエーナを見る。


「ほら、メルもどっちがいいか選びなさいよ! 貴女の事を話し合っているんだから⁉」

「そうよね。メル。どちらを選んでも文句を言わないから安心していいよぉ。でも、私の案を採用してくれるって、お姉さん、信じているからね」


 二人に詰め寄られ、メルエーナは後ずさりをするが、そんなことでは当然許してもらえない。


 ここまで話し合わせておいて、何もしないのは許さないと、二人の目が言っている。


 そしてメルエーナは、泣く泣くハロウィン当日に、ジェノに振り向いて貰うための作戦を実行することとなったのだった。

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