第143話 『晴天の霹靂』
馬車はジェノとリニアを家まで送り届けてくれた。
「坊っちゃん! 先生!」
いったいいつから外で待っていてくれたのだろうか?
ペントはこちらに気づくなり、ランプ片手に停車した馬車に駆け寄ってくる。
「まぁ、そのお姿は……」
ペントはジェノ達の姿を見るなり、驚きに目を見開いた。
ほんの数時間前まで新品だった服もドレスも、埃や血に汚れ、見る影もないのだから。
リニアが御者の男性にお礼を言っていたので、ジェノもそれに倣う。もちろん、ペントも。
「坊っちゃんも先生も、まずはお家にお入り下さい。お風呂と食事をご用意しておりますので。お話は、その後にでも」
「ありがとう、ペント」
「助かります、ペントさん」
ジェノはリニアと一緒にペントに礼を言い、家に入る。
そしてジェノ達はまずお風呂に入って汗を流すと、ペントの作ってくれた夕食に舌鼓を打つ。
普段から美味しいペントの料理だが、今日はさらに格別だった。
ただ、大変な一日でクタクタに疲れていたことと、時間が遅かったため、ジェノはお腹が膨れると、すぐに眠気が襲ってくる。
「ジェノ。今日はもう休みなさい。大丈夫。私達がついているわ」
リニアは船を漕ぎそうになっているジェノに、優しく言い聞かせる。
ジェノは「はい」と頷いて、自室に向かうことにした。
ただ、その前に……。
「お休みなさい、坊っちゃん」
「うん。お休み、ペント。それと、いつもありがとう。ペントのおかげで、僕は毎日、すごく幸せだよ」
満面の笑顔で改めて日頃のお礼を言い、ジェノは微笑む。
「坊っちゃん……」
「僕ね、ペントのことも、先生のことも、大好きだよ」
その言葉は恥ずかしかったので、ジェノは二人の反応を見ずに、自分の部屋に向かって駆け出す。
知っているつもりなだけで、知らなかった。
自分がどれほど大切にされて、みんなに愛されて育ってきたのかを。
母はすでに亡く、父は愛情を向けてくれなくても、自分にはペントがいてくれる。兄さんがいる。そして今は、尊敬する先生もいる。
馬車の中で思い切り泣いたおかげで、ジェノの心はすっかり軽くなっていた。
また明日から頑張ろう。
ジェノはベッドに横になると、すぐに穏やかな眠りにつくのだった。
◇
マリアの誕生会から一週間が過ぎた。
あれから、ジェノの兄であるデルクが本格的に動き、父であるヒルデから、商会の実質上の支配権を全て握ったのだとペントとリニアから聞いた。
細かい内容は難しすぎて、幼いジェノには分からないことだらけだった。
だが、家の赤い線が全てなくなり、屋敷を全て自由に動けるようになっただけでも、ジェノには嬉しい限りだ。
とはいっても、いきなり広い家で暮らす必要を感じないジェノは、ペントと話し合って、兄が戻ってくるまでは今まで通りの生活をすることにした。
ちなみに、ペントは正式にジェノの専属の侍女であり、屋敷の他の侍女とは別格とされることが、新たな商会の当主となったデルクから言い渡され、キュリア達は一切口を出せなくなった。
もっとも、キュリアを始めとするヒルデにおもねっていた者たちは、自分たちから近々辞めると言い出しているようだが。
この一週間は、ペントが忙しく、リニアもそれを手伝っていたため、ジェノは勉強も武術の修行も本格的には行えず、外に遊びにも行けなかった。
それもなんとか落ち着いた今日、ジェノは久しぶりの鍛錬と勉強を終えて、広場に遊びに来てた。
だが、そこで思いもしなかったことを聞かされることになった。
広場のベンチに座り、ジェノはロディとカールから聞いたのは、マリアのことだった。
「そんな、マリアが……」
青天の霹靂だった。
あの誕生会が終わってすぐに、マリアがこの国を出ていってしまったというのだ。
ここ数日、姿を見ないなとは思っていたが、そんな事になっているとは夢にも思わなかった。
「その、父上の話だと、マリアの家っていろいろな借金があったんだって。だから、マリアを養女に差し出す代わりに援助を申し込む事になっていたらしいよ」
カールの言葉に、ジェノは愕然とする。
「この間の誕生会も、どの貴族がマリアを養女にするか決める席だったって言うぜ。まったく、大人って汚ねぇよな」
ロディは怒りを顕にして、自らの拳で掌を叩く。
「その誕生会も、マリアが最後のお願いだと言って、俺達を参加させてくれたみたいだ。ローソルと父上が話しているのを聞いたんだ」
「まじかよ……。マリア……」
ロディは憤懣やるかたない面持ちで、拳を握りしめる。
「……」
仲の良かった友人との突然の別れに、ジェノは驚きを隠せない。
だが、思い返してみると、あのときの自分の優遇は明らかにおかしかった。平民の自分がマリアの騎士役になるなど、普段なら絶対にありえないことだった。それなのに、そんな無茶が通ったのは、マリアが……。
それに、自分が騎士役を承諾すると、マリアは泣いていた。あれは本当に最後の願いだったのだ。
けれど、自分を狙う襲撃者のせいで、それは台無しになってしまった。
「……約束をしたのに。もう一度遊ぼうって……」
ジェノは心にポッカリと穴が空いたような気持ちだった。
「カール。マリアがどこに行ったかは知っているの?」
「ああ。なんでも、エルマイラム王国ってところらしい。ほら、リニアさんを助けてくれた、お爺さんが居ただろう? あの人の養女になるんだってさ」
「エルマイラム王国……」
ジェノはその国のことをよく知らない。
せめて手紙でも書きたいが、住所もわからないし、平民の自分の書いた手紙が貴族であるマリアの手に渡る可能性は低いと思う。
今までは、マリアが側に居て、一緒に遊ぶのが当たり前だった。
けれど、貴族である彼女と同じ時間を共有できるということが、どれほど奇跡的なめぐり合わせだったのかを、ジェノは今更ながらに思い知らされた。
……幸せな時間というものは、あっという間に過ぎていく。
そして、失ってしまった時間というものは取り戻せない。
ジェノは悲しみに包まれる。
けれど、別れは突然やってくるのだ。
そう、突然やってくる。
これから一ヶ月と経たないうちに、大切な家族だと思っていた先生から、リニアからも、ジェノは別れを切り出されてしまうことになるのだから。
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