第137話 『別れと出立』
ジュダン=レーナス侯の計らいで、準備は滞り無く進んだ。
ジェノとリニアは、いや、ジェノとリニアとあと四人は、別荘の厨房で貴重な水と食料の準備をし、出発の準備を終える。
「ジェノ、準備はいいか?」
「うん。大丈夫だよ。カールの方こそ忘れ物はない?」
「忘れ物も何も、水と食料を持つだけだろう」
「ロディ。その大事な水と食料を僕たちが持つんだから、しっかり確認しておかないと駄目だよ。食料は念の為だけれど、山を降りるだけでも二時間以上はかかるらしいから、水はどうしても必要になるんだよ」
「分かっているって」
ジェノは友人たちと最終確認をする。
当初はジェノとリニアの二人だけで下山して救援を呼ぶ予定だったが、ロディとカールの護衛二人が、リニアに同行させて欲しいと申し出てきたのだ。
ロディとカールも平民であるため、苛ついた貴族たちの鬱憤の発散先にならないようにという配慮からの申し出だった。
リニアはその申し出を受け入れた。
そして、今は護衛の人間二人と打ち合わせをしている。
「ジェノ!」
護衛の男を二人連れて、マリアが厨房にやってきた。
「……マリア」
ジェノが名前を呼ぶと、マリアは人の目を憚ることなく、ジェノに抱きついてくる。
「ごめんなさい。貴方達をこんな危険な目に合わせてしまって。私が誕生会に誘ったせいで……」
「……それは違うよ。悪いのは、マリアの誕生会を台無しにした人間だよ」
ジェノは泣きじゃくるマリアの頭をポンポンと優しく叩く。言外に、その台無しにした人間に自分を加えながら。
「大丈夫だよ。先生やロディとカール。それに、二人の護衛の人も一緒なんだから。必ず助けを呼んでくるから、少しだけ待っていて」
「……ジェノ……。ジェノ!」
マリアは声を上げて泣き出してしまったので、ジェノは困ったように笑う。
「ちぇっ、いいなぁ、ジェノの奴ばっかり」
「……でも、仕方ないよ、ロディ。ジェノ、格好いいもん」
「そうだな……」
先程のジュダン=レーナス侯とのやり取りを見ていたロディとカールは、そう言って嘆息する。
「マリア、そろそろ僕たちは行かないといけない。お願いだから、僕たちを信じて。そして、この事件が終わったら、また一緒に遊ぼう」
「……うん。約束よ。絶対にもう一度、私と遊んでね」
マリアの約束に、ジェノは「うん」と頷いた。
そして、ジェノ達はマリアを残して出発する。
……この日が、彼女との別れになることを知らずに。
◇
「まったく、痛快でした。レーナス侯に窘められたあの貴族たちの顔といったら」
「本当に。何もできないのに文句だけを言う偉そうなあの態度に、私もイライラしていたのです」
ロディの護衛を務める、ダンという名の二十代半ばくらいの青年と、カールの護衛であるローソルという三十前後の壮年の男が、別荘が見えなくなった頃を見計らって、先のジュダン=レーナス侯にしてやられた貴族たちへの文句を口にする。
山を降りる隊列は、先頭にローソル。斜面に面した右側をダン。左側がジェノ。中央にロディとカール。そして殿にリニアという形で進んでいく。
「本当に。あの方が私達の行動を認めてくださらなかったら、実力行使するしかなかったので、本当に助かりました」
リニアもそんな軽口を口にする。
「おお、怖い。とはいっても、私もロディ様から貴女の強さを知らされていたから、こう思えるのですが」
「私は、リニア殿が目にも留まらぬ速さで、あの狼もどきを斬り伏せて紙も斬るという離れ業を目撃しましたからよく分かります」
「嫌ですわ。私は非力な小娘ですのに……」
リニアがしおらしい声を上げると、ダンとローソルは声を上げて笑う。
周りの大人が笑っていることで、緊張しきっていたジェノ達も、少しだけ気を抜くことができた。
「ジェノは本当にいいよな。マリアだけじゃあなくて、こんな強くて綺麗な先生がいるなんて」
「おっ、ロディ君。君はよく分かっているぞぉ。ただ、『強くて綺麗』ではなく、『綺麗で強い』と言えたら満点よ」
ロディにリニアが微笑みかけると、ロディは照れくさそうに微笑む。
「…………」
ジェノは何故かは分からないが、少しだけ腹がたった。
「ねぇ、ローソル。僕たち、無事に山を降りられるかな?」
カールが心の不安を口に出す。
「大丈夫です。私とダン殿、そしてリニア殿が一緒なのです。必ず無事におうちに戻れますよ」
ローソルがそう言ってくれたが、カールはだんだん不安が募ってきてしまったようだ。
「カール君。君とロディ君には、私のとっておきのイヤリングを渡してあるでしょう?」
リニアは不安げなカールに笑いかける。
リニアは普段から身につけていたイヤリングを外し、カールとロディに一個ずつ貸し与えているのだ。
魔法の力が込められたそのイヤリングは、魔法の攻撃を防ぐのらしい。それは、あの狼も例外ではないようだ。
「ただし、おそらく防げるのは十回くらいだから、過信は禁物よ。何度も言っているように、私達の指示に従うこと。あくまでも、そのイヤリングはお守り程度のものだと思っておいたほうがいいわ」
リニアに言われ、カール、そしてロディは手の中のイヤリングをぐっと握りしめる。
「なぁ、ジェノ。俺と場所を代われよ」
「えっ? 危ないよ、ロディ」
「イヤリングを持っていないお前の方が危ないだろうが! その、少しくらいは俺にも格好をつけさせろよ」
「でも……」
ジェノは困って、リニアを見る。
すると、リニアはにっこり微笑んだ。
「そうね。体が大きくてイヤリングを持っているロディ君が左端に居てくれた方がいいわね。うんうん。男気があって格好いいわよ」
「そっ、その、あっ、当たり前だよ、これくらい」
ロディは顔を赤面させて、ジェノと場所を代わる。
リニアの指示だから従ったが、ジェノは何故か悔しい気持ちになってしまう。
けれど、今は余計なことを考えている暇はない、と自分に言い聞かせた。
「先はまだ長いわ。ここで一休みしましょう」
それから三十分ほど歩いたところで、小休止になった。
ジェノ達は適当な石の上や地面に腰を下ろす。
幸いなことに、ここまでは狼の襲撃はない。
「誕生会が昼で良かったわ。順調に行けば、日が沈む前に余裕を持って山から降りられるもの」
「まったくです。これで夜だったらと思うとゾッとします」
リニアにダンが同意する。
「……カール、大丈夫?」
ジェノは疲れた顔をしている友人に声をかける。
いつ襲われるかという緊張感のなか、荷物を持って歩いているのだ。当然疲れもするだろう。
「あっ、ああ。平気だ。……でも、ジェノ。どうしてお前はそんなに落ち着いていられるんだ?」
ジェノはイヤリングを持っていない。それなのに、落ち着いているのが不思議なのだろう。
「僕だって、すごく怖いよ。あの狼達が襲ってきたらって思うと、体が震えてきそうだ。でも、先生が一緒だから」
ジェノはそう言って微笑む。
その笑顔に、カールはため息をつく。
「無事に家に帰れたら、俺も父さんに頼んで、剣を学ぼうと思う。お前に負けているのは悔しいからな」
「別に勝ち負けなんてないと思うけれど、剣を覚えるのはいいことだよ」
ジェノは微笑む。
「なぁ、ジェノ。カールだけじゃあなくて、俺も剣を覚えようと思う。でも、できればお前みたいにリニアさんから剣術を学びたいぜ。お前の方から、リニアさんに頼んでく……」
「嫌だ」
ロディの頼みを、ジェノはけんもほろろに突っぱねた。
「なんでだよ!」
「リニア先生は、僕の先生だからだよ」
ジェノはそう言って、面白くなさそうに、ふんっと横を向く。
「ずるいぞ、お前ばっかり!」
「なんと言われようと、駄目だよ。僕だけの先生なんだから」
ジェノは絶対にそこは譲るつもりはない。
リニア達はそれを微笑ましげに見ていたが、不意にリニアの顔が緊迫のある表情に変わる。
「みんな、急いで立ち上がって、さっきまでの隊列に戻って! 狼達が近づいてくるわ!」
すぐさまリニアの指示が飛び、ジェノとロディとカールは、立ち上がって、言われたとおりにする。
そして、待つこと十数秒ほどで、件の狼達が十匹ほど、上方から――つまりは殿を務めるリニアの方から現れ、襲いかかってきたのだった。
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