第132話 『馬車』

 待ちに待ったマリアの誕生会の当日。

 ジェノはペントに手伝ってもらいながら、最後に真新しい上着に袖を通す。


「ああっ、坊っちゃん。誠に、誠に凛々しゅうございます。できることならば、イヨ様に一目でもこのお姿をお見せしとうございました」

「もう。大げさだよ、ペント。それに、この間も着替えたところを見ていたじゃあない」

 そうは言いながらも、ジェノも嬉しそうに笑う。


 イヨ――母との記憶がまるでないジェノには、ペントが自分の姿を見てくれるだけで十分嬉しい。

 

「後は、先生から……」

 一張羅の黒を基調としたこの服は、これだけでも格好いいとジェノは思う。けれど、更にこれにアレが加われば……。

 姿見で自分の姿を確認し、ジェノはリニアが着替えて一階に降りてくるのを、今か今かと待っていた。


「おおっ、やっぱり似合うわね、ジェノ。格好いいぞぉ~」

 いつもと同じリニアの声に、ジェノは声のした方を向く。だが、そこで言葉を失ってしまった。


 リニアは淡い水色を基調としたドレスを身にまとっていた。

 外見よりも機能性を重視しているようなシンプルなドレスだが、それでも若いリニアの元の美しさとスタイルの良さが合わさり、輝かんばかりの美しさだ。

 そして、普段はしない化粧をしていることから、ジェノの目にリニアは、いつもの先生とは違う別人に見えてしまった。


「まぁまぁ。リニア先生。大変お美しゅうございます」

「ペントさん、ありがとうございます。ドレスなんて久しく着ていなかったから心配だったのですが」

 リニアはそう言って苦笑するが、ジェノはあまりのショックに何も言えない。


「こぉ~ら、ジェノ。女の人が素敵なドレスを身に着けていたら、なんていうべきか教えたでしょう?」

「えっ、あっ、その、うん……。その、すごく綺麗です……」

 ジェノは何故かものすごく恥ずかしくて、そう言うと顔を俯けてしまう。


「おやおやぁ~。ジェノ君。何を赤くなっているのかなぁ~」

「なっ、なんでもないよ!」

 ジェノは怒ったように言い、ぷいっと顔を横にする。


「うんうん。先生、とっても嬉しいから、これ以上の追求はしないでおいてあげよう。それと、ほらっ、お待ちかねのものよ」

 リニアはそう言って、ジェノに白い鞘に納められた剣を渡してくれた。


「まぁ、まぁ、立派な、美しい鞘ですね」

「ええ。これなら無骨なイメージはないですよね?」

「ですが、先生。よろしいのですか? 貴族の催し物で、商家の者が帯剣しても?」

 ペントの問に、意気揚々と腰のベルトに剣を差そうとしていたジェノの手が止まる。


「大丈夫ですよ。私と一緒に帯剣する旨は、すでに許可を取ってあります。

 以前、私が結果的にマリアちゃんを攫おうとしていた、ならず者を捕まえた剣士だということは、あちらさんもご存知でしたので、私の教え子だからという事を主張したら、すんなり話が進みました」

 リニアはにっこりと微笑む。


「というわけだから、大丈夫よ、ジェノ。でも、剣を決して抜いては駄目よ。もし、不用意に抜いてしまったら、その場で斬り殺されても文句は言えないんだから」

 リニアの言葉に、ジェノは身震いがして、「はい」と頷く。


「うん。分かればよろしい」

 リニアは満足そうに頷くと、ジェノの頭を優しく撫でて微笑んでくれた。

 ジェノも嬉しくなって微笑む。


 全ての準備を終えて、迎えの馬車を待つまでの間、ジェノは少し浮かれていた。

 それは子供らしい姿で、年相応の反応だった。


 けれど、馬車に乗り込んだ後で、ジェノのその気持ちは霧散することになるのだ。

 






 ゆっくりと馬車は進んでいくが、それでも歩く速度よりずっと速い。

 それに、日差しも屋根が防いでくれるし、思ったよりも通気性も悪くないので涼しい。


「ふふっ。楽しそうね、ジェノ」

「はい。僕、馬車に乗った事がないので」

 ジェノが応えると、リニアは「実は先生も初めてなんだよね」と言って笑った。


 けれど、そこでリニアは真顔になり、右手の人差し指を立てると、静かに自分の口の前にそれを持ってきた。


 それが、御者に聞かれないように小声で話す合図だと悟り、ジェノは気を引き締めて、居住まいを正して頷いた。


「いい、ジェノ。最近、また悪い人達が悪さをしようとしているという噂があるの。それは、とある裕福な家の子供を攫おうとする計画よ」

「そんなことが……」

 ジェノには寝耳に水な事柄だった。


「そして、今回のマリアちゃんのこの誕生会。悪い人達が目をつけそうだとは思わない?」

「先生は、またマリアが狙われると思っているんですか?」

「いいえ、違うわ。危ないのは、ジェノ、君よ」

 リニアの言葉に、ジェノは大きく目を見開く。


「どうして、僕が? 僕はただの商人の息子です。それに、僕を攫っても、あの人はお金を出したりはしないのに……」

 自分達を冷遇する父親が、ヒルデが、自分なんかのために銅貨一枚でも払うとは思えない。


「そうね。今まではその認識で良かったんだけどね。君のお兄さん、デルクさんを妬む人達も出てきてしまったのよ」

「兄さんを?」

「うん。君のお兄さんは、君とペントさんを本当に大切に思っているのね。だからものすごく頑張ったの。その結果、君のお父さんの商会の店の一つを、成人前にも関わらずに実質的に手に入れたのよ」

 リニアの話に、ジェノは更に驚く。


「兄さんが……。そうか。兄さんはすごく頭もいいし、皆に好かれる人だから」

 ジェノは兄の功績が我が事のように嬉しかった。


「でもね、お兄さんは敵も作ってしまった。君のお父さんが一代で作り上げた商会が大きくなることを快く思わない人達も多い中、その跡取りとなる人間が非凡な……ええと、普通の人とは違うすごい力があることを知らしめてしまった。

 だから、君のお兄さんの弱みに付け込もうとする人達が現れたの。そして、その弱みというのが……」

 リニアの話を聞き、ジェノは理解する。


「先生。その弱みが、僕なんでしょう?」

「……そう。悲しいけれど、今の君はお兄さんの弱点になってしまっている」

 リニアの言葉に、ジェノは黙って拳を握りしめる。


「今日、私は君に難しいことを三つお願いするわ」

 リニアは少しの間を置いて、口を開いた。


「はい。教えて下さい、先生」

 ジェノは相変わらず何も出来ないのだと思い知らされたが、それでも先生を信じている。

 先生の言うことを守ることが、自分が兄さんのためにできる唯一のことだ。


「一つ目は、私から離れないこと。必ず私の目の届く範囲にいなさい」

「はい」

 ジェノは真剣な目で頷く。


「二つ目は、その剣。決して抜いては駄目だけれど、抜く場合の判斷は君に任せる。必要だと思ったら、迷うことはないわ。後のことは気にしなくていいから」

「はい」

 腰の剣を一瞥し、頷く。


「最後の三つ目はすごく難しいわ」

 リニアはそう言うと、ポンと優しくジェノの頭に手をおいて、それを優しく動かす。


「ジェノ。危険がどこにあるか分からないけれど、せっかくのマリアちゃんの誕生会よ。マリアちゃんを悲しませないようにしなさい。そして、君も……」

 リニアは最後まで言わなかったが、その優しくて悲しい笑顔が全てを語っていた。


「はい。僕も楽しみます。もちろん、先生の言いつけを守りながら」

 ジェノはにっこり微笑んだ。

 僕は大丈夫ですという気持ちを込めて。


「……安心して。私が必ず守るわ。子どもの幸せな時間さえ奪おうとするような外道には、指一本触らせないから」

 リニアの決意の込められた言葉に、ジェノはもう一度微笑むのだった。

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