第4話 『帰還』
空が白み始める少し前に、ジェノが店に戻ってきた。
裏口のカギを開けて戻ってきた彼は、店の客席で毛布を羽織っているイルリアに気がつくと、静かに彼女に近づき、
「助かった。礼を言う」
そう短い感謝の言葉を口にする。
「別に。わざわざ礼を言われるほどのことはできてないわよ」
自分がしたことなど、心配でなかなか休もうとしないバルネアさんとメルに、少しは休むように言って部屋に押し込めたことくらいだとイルリアは思う。
「でっ、その服についた血はなに? 今回の事件の犯人を突き止めたわけ?」
ジェノの身につけた自警団の制服に、わずかに赤黒い血痕が付着しているのをイルリアは見逃さなかった。
加えて、ジェノが夜食を受け取りに来なかったことで、イルリアは何かあったであろうことは分かっていた。もっとも、そのせいでバルネアさんとメルがいつも以上に心配していたのだが。
「ああ。間違いない。あの時と同じ化け物だ」
その言葉に、イルリアは自身の顔から血の気が失せていくのが分かった。
まずい。最悪の事態だ。急いで皆をこの街から避難させないと、大変な……。
「落ち着け。リットにその辺りのことは調査をしてもらっている。今のところ兆候はないそうだ」
イルリアの表情で察したのだろう。ジェノはそう告げる。
「……そう。まぁ、あいつが言うのなら間違いはないんでしょうね」
リットと言うのはジェノの知己で、イルリア達と同い年の男だ。そして、イルリア達の冒険者見習いチームの最後の一人である。人間的にはかなり問題のある男なのだが、こと魔法というものについては、おそらくはこの街のだれよりも精通している人間だ。その男の言葉ならば信用せざるを得ない。
「イルリアさん。ジェノさんが帰ってきたんですか?」
ふいに背中から声がかかった。奥の部屋からメルエーナが出て来たのだ。
「ええ。怪我一つなく帰ってきたから安心しなさい」
こんなすぐにジェノの帰宅に気づいたことから、ほとんど寝ていないことを察し、イルリアはメルエーナを安心させるように言う。
「メルエーナ、まだ起きていたのか?」
ジェノは、そんなふざけたことを言う。
「あんたを心配して起きていたんでしょうが!」
まだ眠っているであろうバルネアさんを起こさないような声でだが、イルリアは文句を口にする。
「店の掃除はしておく。朝食まで少しでも眠っておけ。体が持たないぞ」
イルリアの言葉など意に介さず、ジェノはメルエーナに一方的に言う。それがこの男なりの思いやりなのはわかるが、言葉が足りなすぎる。
「あんたね、もう少し言葉を考えなさいよ! ほらっ、メルもこの馬鹿にガツンと言ってやりなさい!」
イルリアの言葉に、しかし、メルエーナは小さく首を横に振った。
「大丈夫ですよ。私、頑丈ですから。ジェノさんこそ、こんな時間までお仕事をして疲れているはずです。掃除と朝食の準備は私がしますので、早く休んで下さい」
健気なメルエーナに、ジェノはしかし何一つ表情を崩さずに、無言の視線を向け続ける。
「どうしてそこで優しい言葉の一つもかけないのよ! メルはあんたのことをずっと心配して……」
「いいんです、イルリアさん。分かりました。少し眠ります。ですが、ジェノさんもあまり無茶はしないで下さいね」
無理に笑顔を作って応えるメルエーナの姿に、イルリアは怒りに任せてジェノの顔を引っ叩きたくなる。だが、そんなことをしたらまた彼女を心配させてしまう。
「分かった。朝食の時間になったら声を掛ける」
「はい。おやすみなさい、ジェノさん、イルリアさん」
メルエーナはもう一度微笑んで静かに部屋に戻って行った。
「おやすみ、メル」
小さく「ああ」としか頷かないジェノに代わって、極力優しい声でイルリアは言葉を返した。
そして、メルエーナが自室に戻って部屋のドアを閉めたのを確認した彼女は、振り返りざまに朴念仁を睨みつける。
「どうしてあんたは人の気持ちが分からないのよ! メルもバルネアさんも、ずっとあんたのことを心配して……」
イルリアの文句の言葉に、しかしジェノはその言葉を遮って口を開いた。
「犯人の手がかりは掴んだ。今晩にでもけりをつける。だが、この店からさして離れていない距離で今回も犠牲者が出た。すまないが、もう一晩だけバルネアさんたちのことを頼めないか?」
勝手な要求だと思う。でも、ジェノは彼なりにはバルネアさんとメルエーナを気にかけていることはわかるので、イルリアも文句は言いにくい。
「私は、今回の事件でも何も役に立てていない。それはわかっている。だから、それぐらいのことはやるわよ。でも、一つだけ交換条件があるわ」
イルリアの突飛な提案にも、ジェノは気にした様子もなく、「何だ、交換条件というのは?」と尋ね返してくる。
「この事件が解決したら、メルとバルネアさんに何か埋め合わせをしなさい。自分で何をすればいいのかしっかり考えて、出来る限りのことをしなさいよ」
「……分かった。何か考えよう」
本当に分かったのかとイルリアが疑いたくなるほど、淡々と言い、ジェノは静かにロッカーから用具を取り出して掃除を始める。
「はぁ。あんたと話していると疲れるわ」
「そうか。なら少し客室で眠っておけ。空は白み始めたが、まだ安全とは限らない。朝食も用意しておくから、それを食べてから帰るといい」
イルリアの嫌味にもジェノは眉一つ動かさない。
本当に、本当に腹が立つ。
「ああ、そうですか! それじゃあ、私も休ませてもらうわよ。それと、まずい朝食を作ったら散々文句を言ってやるから、覚悟しときなさいよ」
イルリアはそんな捨て台詞を吐いて、踵を返して借りている奥の客間に向かう。
もっとも、彼女はジェノの料理の腕を知っている。自分が文句をつけられるようなものを作りはしない。徹夜で見回りを続けてきた後でも、掃除も料理も全力で仕上げるだろう。疲労など二の次にして。
「……この馬鹿。どうしようもないほどの大馬鹿。少しは自分の体を労りなさいよ」
イルリアはそんなことを思いながらもそれは口には出さない。それは、自分の役割ではないと分かっているから。
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