episode 12. グランミリアン家の悲哀

 山林がうっすらと色づき、人間たちが厚手の衣服を着るようになった頃。

 無名の魔法使いは、今はもう使われていない朽ちかけた城砦じょうさいに降り立ち、その付近の森と川までまとめて結界の中に包み込む作業を行っていた。

 特に危険な建物ではないのに、と不思議に思ったフォ・ゴゥルは何をしているのかと尋ねた。

「人間の数が増加するにしたがって、白い獣たちも増えた。増えすぎれば人間世界に害を及ぼす。いちいち数をコントロールするのが面倒なので、ここに白い獣を誘導する結界を作っているのだよ……ほら、魚が一度入ったら出られなくなる罠。あれと似たようなものだ」

 人間が増えれば争いごとも増える。人間の負の感情――恐怖・憎悪・悲哀・怨嗟えんさ・憤怒――そういったものから生み出される白い獣たちは、たしかにこのところ増加の一途を辿たどっていた。

「ついでに、人間も誘導する罠にしようと思ってな。最初から結界にわずなかほころびを作ってある。それなりの魔法使いなら、この裂け目を見つけ出して中に入ることも出来よう」

『それで、誘い込んだ人間を殺すというわけですか?』

「それはその人間次第だな。白い獣たちを撃退するだけの力量があれば、宝物を得ることが出来る」

 宝物というのはそこにあるガラクタのことか――と、フォ・ゴゥルは心の中で眉をひそめた。実際にそうしなかったのは、四足歩行の獣であるフォ・ゴゥルに、眉がなかったからである。

 無名の魔法使いの後ろに、剣やら盾やら鎧やら水晶玉やら杖やら……様々な道具が置かれていることに、フォ・ゴゥルは気付いていた。一見、単なる魔導アイテムに見えるそれらが、実は無名の魔法使いが無聊ぶりょうの慰みに製作したろくでもないアイテムばかりだということも知っている。

 持ち主の腕をにぶらせる剣、魔法は弾くが物理攻撃はすり抜ける盾、一度着たら煩雑はんざつな儀式を踏まないと脱げない鎧、未来の肉や魚や野菜の相場を神託する水晶玉、かけた魔法が必ず一時間で解けてしまう魔法の杖。手に入れたところで、持ち主を不幸にするだけのアイテムである――まぁ考え方次第では使い道もあるかもしれないが。

『……お止めはいたしませんが、なにもアイテムを置く必要はないのでは?』

 無名の魔法使いはアイテムを物色しながら言った――どれを置こうか迷っているようだ。

「そのほうが面白いだろう?」

『……』

 その人にとっては、余興感覚らしい。結界に侵入し白い獣を倒しながら苦労して辿り着いた末にそんなものしか手に入らないのでは、骨折り損のくたびれ儲けのいい見本のような気がするが、べつにフォ・ゴゥルが困るわけではないので黙っておく。

 これ見よがしに重厚なデザインの宝箱にアイテムを収めると、その人は満足げに頷いた。

「さて。これと似たような遺跡もどきを、あと何か所か仕掛けておくか」

 フォ・ゴゥルはやれやれと首を振ると、なんだかうきうきと作業している無名の魔法使いを置いて姿を消した。


 一方そのころ。グランミリアン家では、エルマディがよく発熱して寝込むようになった。

 彼の部屋にはほとんどずっと医者か看護婦が張り付くようになり、ヴィルジニーはあまり遊びに行けなくなってしまった。

 時間に余白のできたヴィルジニーは、これまで以上に熱心に勉学に励むようになった。部屋にある本はすべて読んでしまったので新しい本を買ってもらい、家庭教師のマーロウ夫人にも、魔法使いのガストンにも、これまで以上に宿題を出してもらうようにした。

 ヴィルジニーは、焦っていた。

(病気を治してあげるって、約束したのに)

 エルマディが約束の届かない遠いところへ行ってしまう前に、早く治療魔法を覚えなくてはいけない。

 ヴィルジニーは、このとき十歳。死という言葉の意味を、おぼろげに理解する年齢になっていた。


 その状況は、当然、無名の魔法使いの知るところとなった。

 ある夜、無名の魔法使いは密かにグランミリアン家に潜り込んだ。医者と看護婦に魔法をかけて眠らせ、静かに部屋の中央にあるベッドに歩み寄る。

 広いベッドにぽつんと横たわるエルマディは、発熱して汗をかいているのに奇妙に青白い顔色をしていた。唇も紫色で、ひび割れが目立つ。

 無名の魔法使いは両手をかざし、エルマディの病の様子を調べた。

(これは……少し遅かったか)

 病はすでに小さな肉体を極限までむしばみ、体力が尽きかけている。仮にいま病を追い払ったところで、残された命は風前の灯と思われた。

 どうしたものか魔法使いが思案していると、エルマディがうっすらと目を開いた。

「だれ……?」

 澄んだ緑色の瞳で無名の魔法使いを見上げ、しばらく経ったのち、ふっと弱々しく微笑んだ。

「とうとうお迎えが来たみたいだ……天使が見える」

 無名の魔法使いも微笑み返した。

「ほぅ、お前の知る天使とはこのような姿をしているのか?」

 エルマディは小さく頷いた。

「白い服を着て、髪は長くて、清らかな心をもった美しい人……でも、あなたには羽がないね」

「屋敷の中では必要ないゆえな。隠してある」

 なんとなく、エルマディの話に合わせたほうがよい気がして、そのように答えた。

 無名の魔法使いは真顔に戻り、「お前、生きたいか?」と尋ねた。

「お前の肉体は長く病と闘ってきたせいで、人としての形を維持できなくなってきている。お前が望むなら生き延びさせてやりたいと思ったが、その時は人としての形を捨てることになるだろう……異形となっても生き延びたいか?」

 人として死ぬか、人ではない何かとして生き続けるか――。

 難しい選択だろうと思われたが、エルマディはそれほど間を置かず「別にいい」と答えた。

「本当にいいのか? おそらく、これが最後の機会だ」

「うん、別にいい。むしろよく持ちこたえたほうだと思うよ……僕はもういいんだ」

 エルマディは熱っぽい息をついた。話すのが苦しいようだ。

 無名の魔法使いは少し考え、エルマディの背中を支えて抱き起すと、枕もとの水差しから水を飲ませてやった。

 ありがとう、と彼は言い、しばらく瞳を閉じていたが、再び気力を振り絞ってまぶたを押し開いた。

「心のこりが、あるんだ。聞いてくれるかな?」

「……なんだ」

 無名の魔法使いの腕の中で、荒い呼吸を懸命にととのえつつ、エルマディは言った。

「弟がいるんだ。彼が幸せになれるよう、あなたの力を貸してほしい。やさしくて、いい子なんだ。でも血のつながりはないから、きっと両親は彼のことを気にかけてはくれないだろう。僕はもう守ってあげられないから、お願い」

 その緑の瞳は、悲しみと慈しみを閉じ込めた美しい宝石のようだった。その輝きが、彼の命の最期の炎を使って灯されていることを感じたとき、無名の魔法使いははっきりと頷いていた。

「あぁ。任せておけ」

 エルマディは微笑んだ。

 それはすべての重荷から解放された、清々しい微笑みだった。

「ありがとう。これで安心していける……迎えに来てくれたのがあなたでよかった」

 ゆっくりと瞼が下がり、緑色の瞳を覆い隠した。体がずっしりと重くなり、だんだん呼吸が弱く、小さくなっていく。

(数えきれないほど人間の死を作ってきたのに。看取るのは、初めてだ)

 エルマディの心臓が最後の鼓動を打ち終わるまで、無名の魔法使いはずっと小さな体を抱いていた。やがて、魂の抜けた細く軽い体をベッドに横たえると、丁寧にシーツをかけ、その場を離れた。


 惑わしの森の塔に戻ってきたその人に、いつものような闊達かったつさはなかった。どさりとソファーに沈み込むと、そのまま何時間も身動きひとつせず沈黙している。

 フォ・ゴゥルはじっと床に伏せていた。その人が感じている感情を、フォ・ゴゥルも共有していた。かける言葉はなかった。

「……人間の死とは、これほどの喪失感を伴うのか」

『それを、私にお尋ねになりますか』

「お前しかく相手がいない」

 生命のないフォ・ゴゥルにそのようなことが答えられるはずもないのに、今夜のその人は子どもがダダをこねるように食い下がった。

「人間ひとりの命など、羽毛の一枚ほどに軽いものだと思っていた。私の魔力の前では、吹けば飛ぶ綿毛も同然だ。それなのに……」

 珍しいことだった。無名の魔法使いが言葉を途切れさせるのは。

 静かな石造りの部屋の中でフォ・ゴゥルは立ち上がり、布袋から一枚の銅貨を取り出した。

『それもひとつの真実です。人間の命は、この銅貨の一枚よりも軽い。しかし他方に、もうひとつの真実も存在します。それは、人間の命は、誰かにとっては自分の命より重く、百万の金貨にも代えられぬ価値があるということです』

 フォ・ゴゥルの差し出した銅貨を感情の読めない瞳で眺めていた無名の魔法使いだったが、視線を逸らせるとぽつりとつぶやいた。

「お前は賢いな、フォ・ゴゥル。このような言い方が適切であればだが……お前は私の理解できないことを知っている」

 なんと答えてよいか分からず、フォ・ゴゥルは黙っていた。

 無名の魔法使いは気を取り直したように起き上がり、大きな鏡に魔力を注いだ。

 鏡面には、不安そうにこぶしを握り締めるもうひとりの緑の瞳の少年が映っていた。


 エルマディ・ド・グランミリアンが亡くなったと聞かされた時。

 キャロリーヌは甲高い悲鳴を上げ、エルマディの部屋へと急いだ。髪がほつれるのも構わず廊下を走り、乱暴にドアを開けて室内に飛び込む。エルマディは静かに眠っているように見えた。だが、キャロリーヌが細い両肩に手をかけ耳元で名前を叫んでも、彼は静かな眠りから覚めようとはしなかった。

 キャロリーヌはまず、医者と看護婦をののしった。

「あなたがたがついていながら……あなたがたはなんのためにここにいたのです!?」

 そう言って、枕元にあった数冊の本を投げつけた。

 ドアの陰に隠れてその様子をのぞいているヴィルジニーを見つけたとき、その矛先ほこさきはヴィルジニーへと向いた。

「何故あなたがここにいるのです!?」

 キャロリーヌの投げた本をけながら、ヴィルジニーは「ごめんなさい」と謝った。

「ぼく、エルマディが心配で、様子を見に来たんです」

 その言葉に、キャロリーヌの眉は限界にまで吊り上がった。

「あなたがいたところで、なんにもなりはしません。あぁ、何故あなたがここにいるのです!? エルマディはもう、もう……!」

 キャロリーヌは天を仰いで叫び、医者と看護婦に両脇を支えられて部屋を出て行った。

 その後ろ姿を見送ったヴィルジニーは、こわごわと中央のベッドに近付いた。

 ベッドの主は、いつものように歓迎してくれなかった。腹の上で両手を組み、顔の上に白い布を乗せたまま、微動だにしない。呼吸のために上下するはずの胸が動かないのを見たとき、彼が手の届かないところへ行ってしまったことを悟った。

 緑に瞳にみるみる涙が盛り上がった。こぼれおちてくるそれを両手で拭って、なんとかエルマディの姿を見ようとする。白くぼやけた視界の中で、静かに横たわるエルマディの小さな体……。

 ヴィルジニーは泣きながら彼の両手を握った。生前にそうしていたように、自分の元気が伝わればいいと思いながら、力をこめて握り締めた。まだほんのりと温かさを残す体は、それでも冷めていくティーポットのように徐々に温かみが失われていった。

 すでに役目を終えた医者の姿は部屋になく、ヴィルジニーは四年間兄として自分を可愛がってくれた人と一晩を過ごした。


 翌朝。ヴィルジニーは冷たくなった兄弟からそっと手を離すと、誰かの姿を求めて屋敷の中をさまよい始めた。亡くなった人にはお葬式という最後の儀式があると知っていたから、その準備を手伝おうと思った。

 使用人たちはみな忙しそうで話しかけるタイミングが掴めず、そのままぶらぶらと屋敷内を歩いていると、当主アルベールが向かい側から歩いてきた。

 普段は姿を見かけても滅多に会話しない相手なのでどうしたものかと戸惑っていたら、

「お前、こんなところで何をしている」

と話しかけられた。

 珍しいことに驚きながら、「僕にもなにかお手伝いできることがないかと思って……」と答えたのだが、返事は冷たい一言だった。

「お前にできることは何もない」

 普段は丁寧に撫でつけている髪の一部が乱れ、アルベールは疲れた様子だった。彼はほとんど一晩、妻に付き添っていたそうだ。

「今お前の姿を見れば、あれはきっとまた恐慌をきたすだろう……お前は自分の部屋に戻っていなさい」

 アルベールにそう言われ、ヴィルジニーは仕方なく自分の部屋に戻った。

 ベッドに腰かけて本を読もうと思っても何も頭に入ってこない……ため息をついて本を閉じたとき、ノックの音がしてエミリーが朝食を持ってきてくれた。

 大きな瞳を悲しみに曇らせた彼女は、「可哀想に……人一倍お勉強熱心で、かしこい坊ちゃんでしたのに」と肩を落としている。

 ヴィルジニーはやさしくその肩を撫でた。元気のないエミリーを見ていると、自分もますます落ち込んでくるのが感じられた。

 その後も、心に空洞を抱えて、ヴィルジニーはひとり部屋で過ごした。あれほど好きだった魔法でさえ、今は色あせて見える。教科書を開こうとして、やっぱり勉強する気分にはなれず、それを机の上に置いた。

 昼食の時間も過ぎ、無聊ぶりょうを持て余したヴィルジニーが机に両肘をついてうつらうつらとしていたところに、乱暴な音を立てて扉が開かれた。

 驚いたヴィルジニーが入り口を振り向くと、そこにグランミリアン夫人がドアを押さえて立っていた。本来は美しく化粧を施した顔があるはずだが、今の彼女は青白い皮膚に血走った眼をはめ込んでいた。ヴィルジニーは本能的にぞっとして、椅子から飛び降り、数歩後ずさる。

 彼女はすさまじい形相でヴィルジニーを睨みつけると、一瞬の間を置いて絞り出すように話し始めた。

「何故……どうしてあなたがここにいるのです? わたくしの可愛いエルマディはもういない、それなのにどうしてあなたがここにいるのです……?」

 ヴィルジニーには答えられない問いだった。また、彼女が答えを必要としているようにも見えなかった。ひたすら自分の思いに沈み込んでいるようだ。

「エルマディ……やさしくて母親思いの、立派な息子……グランミリアン家の跡取り……あぁ、どうしてエルマディがいなくなって、他人の子どもが生きているのでしょう」

 夫人には、ヴィルジニーの健康な体が呪わしかったのだろう。

 エルマディが苦しむ姿を見ていたから、その点についてはヴィルジニーも夫人の気持ちが理解できた。自分の健康を分けてあげたいと、ずっとそう思って暮らしてきたから。彼を失い、失意の底に沈んでいるのはヴィルジニーも同じだった。

 しかしこのとき、夫人は明らかに精神に失調をきたしていた。

「あぁ……エルマディが戻ってくれば……そう、あなたさえ、あなたさえいなければ、あの子は再び、わたくしの前に戻ってくるのです……」

 ゆらり、と覚束ない足取りで歩を進めた夫人は、直後、もの凄い力でヴィルジニーの首を絞めた。

「……っ」

 ヴィルジニーは夫人の手を振り払おうと、叩いたり引っ掻いたりしたが、そのたびに締め付ける力は強くなった。

 その時のヴィルジニーには、夫人が異様な化け物に見えた。牙が伸び、額の皮膚を突き破って角が生えたかのように、恐ろしげな容貌ようぼうをしていた。

(ぼくは……エルマディの後を追うのか?)

 息が詰まって苦しみか悲しみか分からない涙が頬を伝ったとき、部屋に複数の人間がなだれこんできた。

「キャロリーヌ! やめなさい!」

「奥様! いけません!!」

 アルベールや使用人たちが、キャロリーヌの腕や体を掴み、ヴィルジニーから引きがした。

「あぁぁぁっ! あなた、何故止めるの? こうしなければエルマディが戻ってこられないのよ!」

「落ち着きなさい。こんなことをしても、息子は戻ってこない……おい、鎮静剤を」

 アルベールは部屋の外にいた医者に呼びかけ、夫人の体をサミーとともに両脇から抱え込み、なかば引きずるようにして部屋を出て行った。

 ヴィルジニーのかたわらにエミリーが座り込み、「大丈夫ですか!?」と背中をさすってくれた。

 次第にはっきりとした意識を取り戻したヴィルジニーは「大丈夫」と答えたが、心臓はドクドクと嫌な音を立てて脈を打ち、背中を冷たい汗が伝うのを感じた。これほど間近に迫った死を感じるのは初めてだった。

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