episode 10. 観察者

 初めて出会った魔法使いは、薄い唇をむっつりと引き結んだ、頑固そうな初老の男性だった。夕焼けのような赤い髪を後ろに撫でつけて、手には体を支えるための短い杖を持っている。

「それで、お前さんは何を学びたいんじゃ?」

 ヴィルジニーは答えた。

「まほう」

 赤髪の魔法使いは額を押さえ「こりゃき方が悪かったわい」と独りちた。

「言いなおそう。お前さんは、魔法を学んで何をしたいんじゃ?」

 そう訊かれて、ヴィルジニーは「うー」とうなった。


 ヴィルジニーが憧れたのは、始まりの五人の魔法使い。彼らは肉体が滅んだ今でも、神としてまたは魔法社会の基礎を築いた先駆者として、今も人々にあがめられその心の中に生き続けている。彼らのような素晴らしい魔法が使えれば、エルマディの影でしかない自分も褒めてもらえるかもしれないし、本当に悲しくなったときには元居た孤児院に帰ることもできるだろう。どこで生きるにしても、魔法の力は役立つはずだ。

 そういった考えなり事情なりというものを、つたない言葉でヴィルジニーは伝えた。

 辛抱しんぼう強くそれを聞いていた赤髪の魔法使いは、「つまり」と両指を組んだ。

「自分の居場所を得たい……それがお前さんの望みじゃな?」

 半分ほどしか意味は分かっていなかったが、ヴィルジニーはこっくりと頷いた。

「よろしい。人に幸福をもたらすのが魔法使いの存在意義じゃ――言い忘れたが、わしの名前はガストンじゃ。よろしくな、ヴィル坊」

 赤毛の魔法使い――ガストン・C・マリクはこのとき初めて笑顔を浮かべ、ヴィルジニーと握手を交わした。


 ガストンは厳しい教師だった。

 魔法を修めるためには、まず基礎となる学問を修めねばならないとして、語学、算術、自然科学を熱心に学ぶよう言いつけた。

「わしがここに来られるのは週二回じゃ。だが、そんなもんでは足りん。わしのいない間も、本を読んで学ぶのだ」

 ガストンは宿題として、子ども向けの魔術書を渡した。子ども向けと言ってもヴィルジニーには難しいもので、辞書と格闘しながら読まなくてはならなかった。初めて読んだ時は、言葉の意味を追うことに気を取られ、魔法に関するあれこれは正直あまり頭に入ってこなかった。二度三度と繰り返し読むうち、ようやく魔術書の内容がおぼろげに理解できるようになってくる。

 ガストンに学び始めて一ヶ月ほど経った頃、彼はようやく魔法を使うことを許可した。それまでは書物を読んで勉強するだけで、実際に使うことは許可されていなかったのだ。

「いいの? 使っていいの? ぼくお空をとんでみたい!」

「ダメじゃ。難しいおまけに危険すぎるわ。だいたいの人間が最初に挑戦するのは、まずこれじゃ」

 ガストンは、魔術書のあるページを指さした。

「ここにっている呪文を唱えてみろ」

 そこには、魔女が何もない空から水を取り出してコップに注ぐ挿絵さしえが描かれていた。

 ヴィルジニーは緊張しながら、そこに書かれている呪文を読み上げた。

「――恵みの水プルウィア!」

 最後の言葉は、魔法の発動を促すもっとも強力な呪文で、フォルミュールと呼ばれている。

 だがヴィルジニーが発動呪文フォルミュールを唱えても何も起こらない。

 視線でガストンに助けを求めたが、「最初から、もう一度」と言われ、基本呪文から発動呪文までをなるべく正確に唱えなおした。

 しかし、何も起こらない。

 ヴィルジニーは、小さな唇をとがらせた。

「……ぼくにはまほうのさいのうがないのかな?」

 ガストンはみんなが最初に挑戦する魔法だと言ったのだ。簡単に発動するものだと思っていたヴィルジニーは落胆した。

「そうじゃ。最初に挑戦し、最初の壁にぶち当たる呪文じゃ」

 ガストンは、面白そうに目を細めて笑った。

 ぽかんと見上げるヴィルジニーに、ガストンはなるべく簡単な言葉を選んで説明した。

「人は不思議な出来事を指して『魔法のようだ』と言うが、魔導士にとって魔法とは、確立されたエネルギーの制御方法じゃ……いや、これは今はよい。魔法を扱うには、その前提としていろんな知識や力が必要なのじゃ。言葉を正しく理解する力、正しく発音する力、術式の理解には算術が役立つ。魔法の代名詞とも言える地火風水の力を操るにはそれらに対する理解が不可欠じゃ……そう、理解。お前さんは、魔法のなんたるかをまるで理解しとらん。だから呪文が発動しないんじゃよ」

 まぁ発音もだいぶあやしかったがなと、ガストンは笑った。

 笑われたことだけは理解できたので、「じゃあどうすればいいの?」とヴィルジニーはむくれた。

ることじゃ。触れることじゃ。今からわしが同じ魔法を行う。じっと耳を澄まして、よく目を開いて、魔法を感じ取れ」

 ガストンはゆっくりと呪文を唱え始めた。ヴィルジニーが唱えたのと同じ呪文でありながら、奥深い響きを持っていた。

「――恵みの水プルウィア

 ガストンが発動呪文フォルミュールを口にすると、何もないはずの空中にキラリと光が生まれ、次いで豊かな水がテーブルに流れ落ちた。

 テーブルの端からあふれた水を浴びて、ヴィルジニーは椅子から飛び上がった。

 見れば、ガストンはゆうゆうと椅子に腰かけて笑っている。

「もう! なんでぼくだけ!」

「なんでって、ほれ、この机はそちらに向かってわずかに傾斜しておるじゃろ。細かなところに気付く観察眼を養うことも、魔導士には大切なことじゃよ」

 六歳の子どもには難しすぎる内容だったが、それでも言われたことはなるべく覚えておこうと、ヴィルジニーは心にメモを取った。

 それにしても、ここが屋敷の中でなく、庭に設けられたテラスで良かった。ガストンはなるべく自然の中で学ぶのがよいと言い、天候さえよければこうして外で授業を行っていたのだ。

(ひょっとして、今日のこのためじゃないのかな)

 と、珍しく上機嫌なガストンの姿を見てヴィルジニーは疑った。


 最近の彼は、人を疑うことを覚えた。無名の魔法使いの場合と同様に、この屋敷の中の複雑な人間模様は、ヴィルジニーの観察対象になった。その人がどう考えてどう動くのかを観察したり推測したりした結果、その人の考えと表面にあらわれる言動とは必ずしも一致しないらしいということを学んだ。

 ヴィルジニーは自身の態度にとても気をつかうようになった。当主アルベールがいるときはなるべく存在感を消し、キャロリーヌの前では勉学に励み、サミーとは一定の距離を置き、エミリーとは親しく会話した。

 もっとも気を許すことができたのはエルマディと一緒にいるときで、カペル夫人や看護婦の目を盗んでは、よく部屋に遊びに行った。

 エルマディはたいていベッドに半身を起こし、読みかけの本にしおりを挟んでサイドテーブルに置き「やぁ」と微笑んで出迎えてくれた。


 今日も、いつものようにエルマディの部屋を訪れたヴィルジニーは、彼にせがんで算術の分からないところを教えてもらった。エルマディも勉強熱心な子どもで、体調のいいときはたいてい勉強するか、本を読んでいるかしていた。ヴィルジニーとは一歳しか違わないが、勉強はだいぶ進んでいるようだった。

「……はい、これでできあがり。どう、わかった?」

「んー、んーもういっかい!」

「いいよ」

 ヴィルジニーがすぐに理解できなくても、彼は気を悪くすることなく教えてくれる。

 ヴィルジニーは、疑問に思ったことを訊いてみた。

「エルマディはこんなにりっぱなんだから、少しくらい体がよわくったって、グランミリアン家のあととりとしてはずかしくないよ。わざわざなんか用意しなくったっていいのに」

 エルマディはひかえめに笑った。

「お母さまは、とても体面たいめんをおもんじる人だからね。たった一人のあととりむすこがびょうじゃくでにちじょう生活もまんぞくにできないことは、はずかしいことだと思ってらっしゃるのさ」

「エルマディはそれでいいの?」

「いいかどうかは、ぼくが決めることじゃない」

 エルマディと話しているとき、もっとずっと大人の人と会話をしているように感じることがあった。今がまさしくそうだ。

 ヴィルジニーは背伸びして、ベッドの上に置かれたエルマディのこぶしをぎゅっと握った。

「でも、エルマディのきもちは、エルマディのものだから。ぼくはいい弟になって、エルマディのことまもってあげるよ」

 エルマディはにっこり笑って、同じようにぎゅっと手を握り返した。

「ありがとう。べんきょうねっしんでやさしい弟をもって、ぼくは幸せだよ」

 その言葉は、ヴィルジニーの人生の中で“とびきり嬉しいこと”の部類に入った。

 ヴィルジニーは緑の瞳をキラキラ輝かせ、「ぼくも、かしこくてやさしいエルマディが好きだよ」と言った。


『ラブラブですねぇ』

 仲睦まじい子どもたちの様子を見て、フォ・ゴゥルは思わずそう口にしていた。

「うん? ラブラブというのは男女の仲に使う言葉ではなかったかな」

 無名の魔法使いが真剣に尋ねてくるもので、フォ・ゴゥルも真面目に答えた。

比喩ひゆみたいなものですよ。そのくらい仲良く見える、ということです』

「ふうん、そうか」

 無名の魔法使いは言い、手元に注意を戻した。

 両手に棒針をせっせと動かし、クリーム色の毛糸を編んでいく。

(なにも、真夏に編み物をすることもないだろうに)

 とフォ・ゴゥルは思うのだが、編み物をしている間はおとなしいのでとても助かる、とも思っている。それにしてもなにを作っているのだろうか。

 内心はおくびにも出さず、フォ・ゴゥルは言った。

『ろくでもない家に引き取られたものだと思いましたが、悪いことばかりでもありませんね』

「私は、あの女狐は嫌いだがね」

 フォ・ゴゥルは、立てた耳をぴくぴくと動かした。

 人間のことを「愚かだ」とか「面倒くさい」とか評するのはさんざん聞いてきたが、好き嫌いで判断したのは初めてではないだろうか。

 それはよい変化なのか悪い変化なのか――フォ・ゴゥルは、考えても仕方がないと思いながら思いを馳せずにはいられない。善悪など、立場が変わればたちまちのうちに変化するものだと、知っているというのに。

(あの方にとってよいことか悪いことか――いや、人間にとって、かな)

 フォ・ゴゥルは、横目で編み物をするその人を盗み見た。

 美しくととのった顔に穏やかな微笑さえ浮かべて、器用に棒針を動かしている。

(この方の中に同居する、酷薄さと慈悲深さ。どちらに比重が傾くかによって、人間世界への影響も変わる)

 フォ・ゴゥルもまた、冷静な視点で、無名の魔法使いと世界の関わりを観察しているのだった。

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