episode 9. 夏の庭

 ヴィルジニーの家庭教師として読み書きや算術などを教えてくれるマーロウ夫人は、丸い眼鏡をかけていて背が高い、四十がらみの堅苦しい女性だった。彼女は時間通りにグランミリアン家を訪れ、時間通りに引き上げて行った。

 週に四回ある彼女との勉強の時間を、ヴィルジニーは嫌いではなかった。彼女はよけいなおしゃべりは許さなかったが、勉強内容に関する質問には真剣に答えてくれたからだ。新しい言葉を覚えること、新しい知識を得ることは、新鮮な喜びをともなった。したがって、ヴィルジニーはとても勉強熱心な子どもになった。

 それでも、広い家で遊び相手のいない寂しさはぬぐえない。侍女のエミリーは気さくに話してくれたが、仕事があるのでヴィルジニーと遊んでばかりもいられなかった。執事のサミーは礼儀正しかったが、彼はエミリー以上に多忙だった。

 孤児院が懐かしく思い出されて、帰りたくてたまらなくなったとき、ヴィルジニーは庭園に駆け出して、あの庭師の老人を探した。しわがれた声でやさしく名前を呼んで欲しいと思った。だが、あれ以来庭で老人の姿を目にすることはない。


 今日も、庭へ出て老人を探していたが、成果はかんばしくなかった。

 ヴィルジニーはうつむいて小石を蹴りつつ、ぷらぷらと庭を散策していた。豊富な花と緑は孤児院の中庭よりずっと豪華なものだったが、土の匂いがなつかしく、庭で遊んでいると心が落ち着いていくのが分かった。

 大きな木のある広場に出ると、ベンチには先客がいた。

 グランミリアン家の跡取り息子、エルマディだ。そばには、教育係のカペル夫人と、ヴィルジニーの知らない看護師の女性が付き添っていた。

「やぁ、きみもさんぽかい? 夏のこかげは気持ちいいね」

 エルマディにそう声をかけられて、ヴィルジニーはどう返答したものか迷った。なんとなく彼には嫌われていないだろうと思っていたけれど、好かれているとも思えなかった。

 ヴィルジニーが答えないでいると、エルマディは付き人のふたりに席を外すよう頼んだ。

「まぁ、坊ちゃま、しかし……」

 カペル夫人は渋っていたが、重ねて頼まれると「少しの間だけですよ」と言い置いて看護婦とともに姿を消した。

 頭上の青い空には、まぶしい太陽とわずかな白い雲が浮かんでいる。

 強い日差しを遮ってくれる心地よい木陰のベンチで、エルマディは手招きをした。

 しかたなく、ヴィルジニーはベンチに近付く。

「ぼくに、なにか用?」

 エルマディは控えめに笑った。寂しそうな笑顔だった。

「きみには迷惑をかけているね……お母さまは、ぼくにこの家をつがせることだけを考えている。お父さまは、お母さまのすることにはあまり反対しない。きみにとってはいごこちのよくない家だと思う」

 ヴィルジニーは靴の下で小石を転がしながら「べつに」と言った。

「ごはんはおいしいし、おべんきょうもたのしいし。べつに、なんでもないよ」

 それはヴィルジニーの精一杯の強がりだったが、本人に自覚はなかった。エルマディは気付いていて「そうか」と言った。

「なにか困っていることはないかな? ぼくからお母さまにおねがいすれば、できることもあると思うんだけど」

 この親切な申し出に、ヴィルジニーはどうしたものかと考えた。

 生活に必要なものは全部揃っている。絵本も、部屋にたくさん届けてもらった。困っていることといえば遊び相手がいないことぐらいだが、病弱なこの少年に相手になってほしいとも言えない。

 ヴィルジニーがもじもじしていると、「考えておいてくれればいい」とエルマディは言った。

「調子のいい日は、こうしてここで風にあたっているから。また話すきかいはあると思うよ」

 あらためて真っすぐ見つめると、エルマディは線の細い色白の少年だった。夏の日差しがすべてに強いコントラストをつける中、彼の姿だけが木陰に薄ぼんやりと浮かんでいるようだ。

「……びょうき、くるしいの?」

「もうなれたよ。生まれてからずっとこんな調子だから」

 エルマディはなんでもないことのように言った。

 ヴィルジニーは想像してみた。病気でほとんど毎日をベッドの上で過ごさなければならないとしたら……それはあまり楽しくない想像だった。

「じゃあね、ぼくがまほうを覚えたら、エルマディのびょうきをなおしてあげるよ」

 エルマディは何度か瞬きをした。そして、ふっと吐息をこぼした。

「きみは、まほう使いになりたいのかい?」

「うん。そうしたら、空をとんでこじいんにかえれるから」

「なるほど」

 分別くさくエルマディは言い、「じゃあちゃんとまほうを勉強しなくちゃね」と付け足した。

「グランミリアン家のあととりたるものまほうの勉強もひつようだって、お母さまに言っておくよ。そうしたら、きっとすぐにまほうの先生を呼んでくれるよ」

「ほんとうに? まほうつかいに会えるの!?」

 ヴィルジニーは勢い込んで聞いた。

 エルマディはこっくり頷いた。

「きっとね。きぞくの家でまほうの勉強をするのはめずらしいことじゃないし」

 魔力を操るどころか、自身を支える体力さえあやういエルマディはこれまで魔法の勉強はしてこなかった。しかし、それがグランミリアン家に必要なことだと言えば、キャロリーヌは家庭教師を手配するだろう。

「ときどきふたりで話をしよう。ぼくは、じつは兄弟ができるのがうれしかったんだ」

 とエルマディが言ったので、今度はヴィルジニーも力強く頷いた。

「いいよ! こじいんにはたくさん兄弟がいたから、みんなエルマディの兄弟になるよ。だいかぞくだよ」

「そっか、ありがとう」

 エルマディはにっこり微笑んだ。

「カペル夫人を呼んできてくれるかな? そろそろおくすりの時間だから」

 エルマディに頼まれ、ヴィルジニーは勢いよく屋敷に向かって駆け出して行った。


 無名の魔法使いは、白くしなやかな指をあごに当てて、じっと鏡をのぞき込んでいた。そこには、グランミリアン家の外観が映し出されていた。

(この小さな家の中でも、人間たちの考え方はそれぞれに異なっている)

 貴族の邸宅であっても、無名の魔法使いにとっては人形の家よりも小さな家に思われた。その人がいつも見渡しているのは、世界という単位であったから。

 無名の魔法使いは、当主アルベールの無関心と女主人キャロリーヌの身勝手さに腹を立てていたが、エルマディ少年との関係を見直して、少し考えをあらためた。

 ヴィルジニーの立場に立ってみれば彼らは冷淡な養い親であるが、エルマディにとっては優しく立派な両親だった。少々の問題があったとしても。

 使用人の立場も単純ではなかった。嫡男ちゃくなんのエルマディの教育係であるカペル夫人は、女主人とエルマディの意志を最優先にして動いている。執事であるサミーは、何よりも当主であるアルベールの意志を尊重している。ヴィルジニーづきの侍女であるエミリーは、女主人の怒りに触れない範囲でヴィルジニーの環境を気遣っている。

(興味深いな。まるで国家の縮図のようだ)

 複数の勢力が存在し、その中で自分の、あるいは自分の属する勢力にとっての善悪あるいは損得を勘定して人間たちが動いている。その様子が、王宮や議会の様子と重なって見えたのだ。

 無名の魔法使いは、部屋でうずくまる眷属けんぞくに声をかけた。

「なぁ、フォ・ゴゥル。お前も私も、人間を弱く愚かな生き物だと思っているが……」

『否定はしません』

「人間というのは、私たちが思っているよりも複雑でしたたかな生き物なのかもしれんな」

 フォ・ゴゥルからの返事はなかった。

 無名の魔法使いはそれ以上語らず、鏡の外から人間観察を続けた。

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