episode 8. 幸運のお守り

 窓から白い朝日が差し込んでいる。

 やわらかい布団をはねのけて、ヴェルデ――ヴィルジニーは身を起こした。その名で呼ばれるようになってから三日が経っていた。

 ベッドはヴィルジニーが三人ならんで眠れるくらい広々としていた。シーツは清潔で肌触りが良い。ほかにも、優美なカーブを描いたテーブル、クッション付きの椅子、壁一面に埋め込まれた本棚、いくつかの着替えが入った衣装棚、小さな暖炉など、茶色と水色を基調に美しく整頓せいとんされた部屋には必要なものはほとんど揃っていた。

 初めてこの部屋に足を踏み入れたとき、ヴィルジニーはぽかんと口を開けて天井から床までをおそるおそる見渡した。院長の部屋よりも広く、置かれている調度品はどれも見事なもので、幼いヴィルジニーにはひたすら高価な部屋に見えた。

 ここを自分の部屋にすると言われて、案内してくれたエミリーに何度も「ほんとうに?」と尋ねて困らせた。

 三日経った今でも慣れるということはなくて、ヴィルジニーはお尻をもぞもぞさせながらベッドから降りた。足を置いたスリッパもやわらかくふかふかとしている。

 ぐぅと鳴ったお腹をおさえてベッドに座っていると、ノックの音が響いてエミリーが入ってきた。

「あら、ヴィル坊ちゃん、早起きですね」

 エミリーはそばかすの残る顔で、人懐こく笑った。

 その笑顔にほっとして、ヴィルジニーは少し緊張を緩めた。

「朝ごはんは、サミーといっしょ?」

「えぇ。食事の作法やら必要なことは、ひとまず彼が教えてくれます。そのうち、家庭教師の先生にもいろいろ教わることになると思いますけど」

 エミリーはかごから新しいシーツを取り出しててきぱきとベッドを調ととのえた。

「ちょっと待っててくださいね。朝食までにまだ少し時間がありますから」

 そう言って窓を開け、取り出した掃除道具で軽く掃除を始める。

 初めてのとき「ぼくもてつだうよ」と言ったら、「貴族の坊ちゃんは、お掃除を手伝ったりしないんですよ」と言われたので、ヴェルデは椅子に座って両足をぶらぶらさせていた。

 はたきでほこりをはらいながら、エミリーは「なにか足りなくて困っているものはありませんか?」と尋ねた。

 ヴィルジニーにはすべてが過ぎたもののように感じられたが、ひとつ欲しいものがあったので思い切って言ってみることにした。

「絵本をよみたいな」

 この部屋には立派な本棚があり、たくさんの本もあったが、ヴィルジニーには難しすぎて読めないものだった。

「あぁ、そうですね。ご本を読むことはお勉強にもなるので、きっと奥様も許可してくださいますよ。そうなるようにお願してみますわ」

 エミリーはそう請け負い、時計を見て「さ、そろそろお食事の時間ですよ」とヴィルジニーの前に立って屋敷を案内してくれた。


 孤児院では朝食と昼食の二回だけだったが、グランミリアン家では朝、昼、晩と三回の食事が与えられた。焼き立てのパンや新鮮な卵を使った料理はとても美味しく、ヴィルジニーにとって食事は楽しい時間だった。

 食堂代わりに使われていたのは、台所の近くにある使用人たちの休憩所だった。サミーはここで、食事についての作法を教えてくれた。

 おかげで、音を立てずにスープを飲む方法や、銀のフォークやスプーンをどう使えばいいかなど、ヴィルジニーは少しずつ学ぶことができた。

「本日は、このあと奥様からのお呼び出しがございます」

 サミーの言葉に、ヴィルジニーは突然食事が美味しくなくなった気がした。

「……ぼくになんのご用だろう」

 独り言のつもりだったが、サミーからきっちり返事があった。

「おそらく、エルマディ坊ちゃんと対面することになるかと」

 どこかで聞いた名前だと思った。

 首をかしげるヴィルジニーに、「当主であるアルベール様と、奥様の間に生まれた、グランミリアン家の跡取りとなるお方です」とサミーは説明した。

 その説明で、ヴィルジニーはちょっと皮肉っぽい気分になった。

 なるほど、そのエルマディという人が、この家の子どもなのだと。

(ほんものがいるのに、どうしてにせもののぼくをほしいと言ったんだろう)

 その疑問は、エルマディとの対面で明らかになった。


 エルマディ・ド・グランミリアンは、ヴィルジニーより一歳年長の七歳。父親譲りの褐色の髪をきれいにでつけ、母親譲りの緑色の瞳にうれいを浮かべていた。めったに外に出ないため肌は青白く、体もひょろりとして、孤児院育ちのヴィルジニーのほうがまだ健康そうに見えた。

 そう、エルマディは病弱な子どもだった。そのため一日の多くを自室のベッドの上え過ごしている。手には、字がたくさんならんだ本を持っていた。

「はじめまして。きみが、ぼくの弟になる子どもだね」

 意外にはっきりとした口調で、エルマディは挨拶した。

 それをさえぎったのは、母であるグランミリアン夫人、キャロリーヌだった。

「本来ならば、あなたのようなグランミリアン家の血を一滴も受け継がない子どもを当屋敷に招き入れるなど不本意きわまりないことです。ですが、このとおりエルマディは病弱な体です――いえ、頭脳は明晰めいせきですが。グランミリアン家の名に傷をつけぬために、跡取りとしての役目を果たすものが必要なのです」

 エルマディは悲し気に瞳を伏せた。

「ごしんぱいをおかけしてごめんなさい、お母さま」

 キャロリーヌは慌てて息子の肩をさすった。

「いいえ、あなたが気にすることはありませんよ。あなたがなんの問題もなくこのグランミリアン家を継げるように、母は精一杯のことをいたしますからね」

 そんなふたりの様子を、ヴィルジニーは黙って見ていた。

 キャロリーヌはヴィルジニーに向き直った。息子に対するときと違い、その視線には温かみというものが感じられなかった。

「教会であなたを見たときには驚きました。その髪と瞳……それこそ私たちの求めていたものです。あなたが一通りの作法を身につけたら、社交の場であなたをエルマディの名で紹介いたします。こちらのエルマディに代わって、グランミリアン家の名に恥じぬ立派なふるまいをしてください」

 ヴィルジニーは、ベッドに半身を起こしたエルマディの姿を見た。

 顔立ちこそ違うものの、褐色の髪と瞳は、たしかに自分とよく似ている。いて言えば、エルマディの瞳は、ヴィルジニーより青みの強い緑色だった。

(そんなふうにまわりの人をだまして、いつかばれるんじゃないだろうか)

 秘密はいつか暴かれるもの――ヴィルジニーは孤児院でそう教わった。しかし、キャロリーヌはそんなことを気にする様子はないようだ。

「自分の役割はわかりましたね? 午後からはあなたの家庭教師がやって来ます。しっかり勉学に励んでください――エルマディ、疲れたでしょう。あなたは少し休んで、体調に問題がなければお散歩とお勉強をしましょうね」

「今日はとてもきぶんがいいので、おくれを取りもどせるようがんばります、お母さま」

 そう言って母と抱きあったエルマディは、静かな視線をヴィルジニーに注いだ。

 それはおだやかにいだ草原を思わせる瞳で、ヴィルジニーに対する敵意のようなものは微塵みじんも感じられなかった。

 しかしそれでヴィルジニーの心がなぐさめられるわけではなかった。

(この人たちは、たしかにぼくをひつようとしている。でも、たいせつに思ってるわけじゃない)

 そのことが、空気を通してしんしんと肺の中にまで伝わってきたからである。

 ヴィルジニーはいっそう孤児院が恋しくなった。こんな気持ちの時は、院長のひざに抱えてもらって、ゆっくりとおしゃべりを聞いて欲しかった。

 それがもはや叶わぬ望みであることを、ヴィルジニーは理解していた。


 屋敷の中にいると気づまりだったので、ヴィルジニーは庭園を散歩することにした。

 庭園はたくさんの花であふれていて、濃く甘い匂いが鼻孔びこうをくすぐった。ヴィルジニーは小さくくしゃみをした。

「おや、風邪かね?」

 生垣の中から声が聞こえて、ヴィルジニーはびっくりしてそちらを見つめた。

 草花がガサガサと揺れ――現れたのは、ひとりの老人だった。腕まくりをして、手にはさみを持っている。顔は白い髪とひげに覆われていて、よく見えなかった。

「おじいさん、だれ? ここでなにをしているの?」

 しわがれた声が答えた。

「わしは庭師じゃよ。花の手入れをしておる」

 庭師の老人は、パンパンと音を立てて衣服をはたいた。葉っぱや茎がはらはらと舞い落ちた。

 ヴィルジニーは老人に駆け寄って、お尻についた葉っぱを払ってやった。

「ありがとうよ、お若いの」

 老人はそう言って、ヴィルジニーの頭に大きな手を置いた。

 彼はしばらくそうしていたが、ふいに一本の黄色い花を取り出し、ヴィルジニーの手に預けた。

「お前さんに、幸運が訪れますように」

 それは孤児院でもなじみの言葉だったので、ヴィルジニーは嬉しくなってにっこりと笑った。

「おじいさん、ありがとう」

 ヴィルジニーは老人の腕を引っ張っると、かがんだ彼の頬にチュッと音を立ててキスをした。自分の幸運を祈ってくれた人にはそうやってお礼をするのが孤児院のしきたりだった。

 このときの老人は意外に若い声で「まいったな」と呟き、もう一度ヴィルジニーの頭をでた。


 風に乗って青空に舞い上がった無名の魔法使いは、長い髪をたなびかせながらもう一度「まいったな」と呟いた。

 その頬には、常人には見えないくらいの小さく淡い魔法の光が宿っていた。

 その優しい光が、ズキズキと胸を刺す。

(これが、人間の魔法の力か。人間にしか使えない、魔法の力……)

 本当は、あの子どもにこの魔法をかけてやろうと思っていた。だが、どうしても出来なかった。大いなる破壊も癒しも難なく操ることのできる魔法使いが、この小さくてささやかな魔法だけは使うことができなかった。それは、人間の心が生み出す魔法だったから。

 だから、一輪の花に願いを託した。

 どうかこの子どもに幸運が訪れますように、と。

 そのつもりだったのにお礼に魔法をもらってしまい、魔法使いは苦笑した。

(まいったな。人間のほうが、こうもたやすく魔法を操るとは)

 足元を見下ろすと、花と緑に囲まれた石造りの立派な屋敷が佇んでいる。

 どうかここでの暮らしが幼い子どもにとって優しいものであるようにと祈りながら、無名の魔法使いは青空に溶け込むように姿を消した。

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