episode 7. 新しい名前

 ヴェルデが養子の話を受け入れる意志を示すと、院長は鷹揚おうように頷いて「その選択に大いなる希望が与えられますように」と神に祈りを捧げた。

 ささやかな旅立ちの会が開かれた翌日、貴族の代理人だという壮年の紳士が現れた。彼の指揮する馬車に乗って、ヴェルデは五年以上の月日を過ごした孤児院を後にした。青い空に緑の葉が舞う、風の強い日だった。

 交通網の発達したこの時代、必要な金銭さえあれば、もっと楽な移動方法もあった。移動用魔法陣テレポーターを使って、駅から駅へ移動することである。

 だがほとんど一瞬のうちに肉体を移動させるこの魔法の仕組みは、妊婦や幼児、持病のあるものには影響があるとして利用が禁止されていた。そういった理由で、茶色とグレーの中間のような髪とひげを持つこの紳士も、馬車を用立ててヴェルデを迎えにきたのだ。

 幼いヴェルデにとっては、馬車もじゅうぶんに興味をかれる対象で、窓枠に両手をひっかけて、ゆるやかに流れる景色を熱心に見つめていた。

 丘を下って孤児院が見えなくなり、にぎわいのある町中を通り抜け、牧草地とふたつの川を越えたところで、ようやく落ち着いてイスに座りなおした。

 壮年の紳士は、たいそう無口な男らしかった。ヴェルデを叱ることもなかったが、ほかに声をかけることもなかった。

 子ども心に気づまりになったヴェルデは、ゆうべから気になって仕方なかったことを尋ねることにした。

「ぼくの新しいかぞくは、どんな人?」

 紳士は、薄い茶色の目でしばらくヴェルデを見つめた後、「貴族であることに誇りを持つ方々です」と答えた。

 ヴェルデには、その言葉の意味が良くわからなかった。首をかしげて見つめ返したが、紳士の瞳は、もう自分を見てはいなかった。

「じゃあ、おうちにはいつつくの?」

「明後日の夕刻ごろには」

「あさっては、あしたのともだち?」

「……明後日は、明日の次の日です。その夕方ごろには着く予定です」

 紳士の答えに、「ふぅん」とヴェルデは言い、もう一度窓枠に張り付いた。孤児院にも無口な人間はたくさんいたので、そういう人はあまり話しかけられるのが好きではないのかなと、ヴェルデは少し遠慮した。

 紳士の言葉通り、途中で二晩は宿に泊まり、三日目の陽が傾き始めたころ、木立の中に、三角屋根とレンガの煙突が突き出しているのが見えるようになった。それはだんだんと近付いて大きくなり、やがて馬車は立派な門の前で止まった。紳士が門番となにかしら話しているのを、ヴェルデはぼんやりと聞いていた。三日間馬車に揺られていたことで疲れていたし、退屈もしていたヴェルデは、あかね空を見上げてひとつあくびをこぼした。


「これで全部かな?」

 つまらなさそうに呟いた無名の魔法使いは、手に掴んでいたものを無造作に離した。

 どさっと重い音がして、それが地面に落ちる。じわじわと赤いしみが広がっていった。それは、かつて人間だったものだった。

 同じく、フォ・ゴゥルも口にくわえていたものを離す。もの言わぬそれは恨めしそうな目でフォ・ゴウルを見ていた。その視線と血液をふりはらうように、体をぶるりと震わせる。

「解放軍などと御大層な名を名乗っていたわりに、しょぼい連中だったな。我々が手を下さずとも、白い獣どもに任せておけば十分だったかもしれん」

『この程度でテロを計画していたのだから、お粗末な連中です』

 無名の魔法使いとフォ・ゴゥルが、白い闇の獣たちを率いて襲ったのは、ある国にテロをしかけようとしていた過激な団体だった。

 政略結婚のため、隣国に嫁ぐ花嫁行列を襲撃しようと企図していたのだった。テロ組織はこの両国の戦争をこそ望んでおり、そのために政略結婚を阻止しようとしていた。長いにらみ合いと話し合いの末にようやくまとまった縁談で、これが実現しないと両国の仲はたちまちのうちに険悪になるものと思われた。

 戦争は、この世界の秩序を乱す。そこで無名の魔法使いが、テロ組織を一掃したというわけだ。

 今頃、花嫁は悠々と国境を越えているはずである。

「まぁ、運動不足の解消にはなったかな」

 とらちもないことを言うのでフォ・ゴゥルが反応に困っていると、

「おい。冗談を無視するのは失礼だろう」

と叱られてしまった。

(このところよく町へおいでになるから、余計なことばかり興味を持たれる。困ったものだ)

 フォ・ゴゥルは首を振った。人間で言うところの「やれやれ」という仕草だ。

 そんなフォ・ゴゥルには目もくれず、無名の魔法使いは白い指をしなやかに躍らせて、空気中から水を呼び出した。そしてそれを、手に持った鉄の鍋に集め始める――なぜ鉄の鍋を持っているのかは不明である。

 さきほどスルーしたときに叱られたため、一応「なんですか、それは」と尋ねてみる。

「そろそろ時間だろう? あの幼児は新しい家に無事着いたかな」

(なるほど、つまり鏡の代わりというわけか)

 鍋に水を張れば、鏡と同じように、遠くの情景を映し出すことができる。

 死体の群れを背に、無名の魔法使いは鼻歌さえ飛び出しそうなほど上機嫌で、即席の水鏡をのぞき込んだ。

「ほぅ、なかなか立派な屋敷ではないか」

『住んでいる人間も、立派だといいんですけどね』

 結果から言うと、フォ・ゴゥルの希望的観測は外れることになる。

 

 グランミリアン家は三百年続く貴族の家柄で、アルフォーレ国の南東部に多くの領地を持ち、主に葡萄ぶどうの栽培と葡萄酒の製造で富を築いていた。

 当主のアルベール・ド・グランミリアンはこの歳40歳。褐色の髪と瞳を持つ背筋の伸びた紳士で、領民からは「無口な領主様」と呼ばれ、貴族仲間からは「無口というよりは陰気な男」だと言われていた。これといった趣味もなく、領地の管理に精励する毎日を送っていた。

 ヴェルデにとってより重要となるのはその奥方で、キャロリーヌという名の女主人が、グランミリアン家を切り盛りしていた。

 赤味がかった褐色の巻き毛と緑の瞳を持つ夫人は、財政ゆたかな貴族の妻の地位にあることを誇りとし、なにかとそれを形にしたがる女性だった。金銀の宝飾も、年代物の家具も、たっぷりのレースをあしらった絹のドレスも、彼女の日常に欠かせないアイテムだった。とりわけ彼女が執着したのは、グランミリアン家の跡取りとなる自分の息子だった。

 エルマディ・ド・グランミリアン。年齢は七歳。褐色の髪と、緑の瞳を持つこの少年の存在があるために、ヴェルデは孤児院から引き取られることになった。


「あなたの名前は、今日からエルマディ・ド・グランミリアンです。人前ではそう名乗りなさい。屋敷の中ではヴィルジニーと名乗るとよいでしょう」

 赤毛を美しく結い上げた夫人は、ヴェルデを迎えるなりそう告げた。

 ヴェルデは目をぱちくりさせた。何を言われているのかよくわからなかった。

「食事の作法が身につくまで、食事は部屋に運ばせます。いずれ近いうちに晩餐ばんさん会に出席することになりますから、そのつもりで作法の習得に励みなさい」

「あの、ぼくのなまえはヴェルデです。おしょくじのれんしゅうはします」

 言いたいことだけ言ってきびすを返そうとする夫人に、ヴェルデは慌てて言った。

 彼女は、エメラルドのような温度のない緑色の瞳でヴェルデを見下ろした。そこに歓迎の色がないことを読み取り、ヴェルデは小さく身をすくませる。

「あなたのこれまでの生き方に興味はありません。これからは、グランミリアン家の息子としてふさわしい名前と行いを身につけるのです」

 言い残し、夫人は今度こそ去って行った。

 代わって後ろから現れたのは、くすんだ金髪と大きな褐色の瞳をした若い女性だ。ヴェルデの育った孤児院で、もっとも若い職員がこのくらいの年齢だった。

 彼女の隣に立ち、ヴェルデをここまで連れて来た壮年の紳士が紹介した。

「彼女は、これからあなたの世話をするエミリー。なにか困ったことがあれば、ひとまず彼女を頼るといいでしょう。申し遅れましたが、私の名はサミー。グランミリアン家の執事です。どうぞよろしくお願いいたします――ヴィルジニー坊ちゃん」

「初めまして。よろしくお願いします。ヴィル坊ちゃんとお呼びしていいかしら?」

 サミーのほうは淡々としていたが、エミリーは背を屈め、人懐こい笑顔で握手を求めた。ぼうっとしていたヴェルデは、慌ててその手を握り返した。

「ぼく……ぼく、そんななまえじゃないんだけど」

 すると、エミリーは悲しげに眉を下げた。

「それが、今日からあなたの名前になるの。突然のことでびっくりするとは思うけど、どうか受け入れてね」

 そう言われては、「イヤだからこれまでどおりで」とも言えなかった。

 ヴェルデはもやもやとした気持ちを抱えながら、エミリーに連れられて玄関ホールを後にした。


 鉄鍋をじっとのぞき込んでいた無名の魔法使いは、「なんだ、あの女狐は」と不機嫌そうに吐き捨てた。

「ちょっと行って、重しと一緒に川底に沈めてやろうか」

と言うもので、

『それで秩序が保たれるなら、そうなさればよろしいのでは』

とフォ・ゴゥルは答えた。

 無名の魔法使いはむすっと黙り込んだ。ひとつの命のために、ほかのひとつの命を奪うことは、無名の魔法使いが定めた秩序を乱す行為だった。秩序の番人である無名の魔法使いがそんなことをできるはずもない。

 主人にそっけなく答えたものの、フォ・ゴゥルも心情としてはグランミリアン夫人を殴ってやりたいところだった。幼児の心をあまりにもないがしろにしている。

『あの子ども、これからうまくやっていけるんでしょうか』

 無名の魔法使いは答えず、長い廊下を悄然しょうぜんと歩く幼い横顔を見つめていた。

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