episode 6. 望みうる未来

 それからさらに三年の月日が流れたある夏。転機が訪れた。

 無名の魔法使いにではなく、孤児院で暮らすあの緑の瞳を持つ幼児に。


「ヴェルデ。院長先生がお呼びだよ」

 ヴェルデと呼ばれた緑の瞳を持つ子どもは、床の上に開いていた大きな絵本を閉じた。彼はすでに六歳になっており、自分の名前が、古い言葉で「緑色」を表すことを知っていた。

(いんちょう先生が、なんのご用だろう。こんな時間から遊んでくれるのかな?)

 時刻は、ちょうどお昼ご飯の支度をしている忙しい頃合いだった。

 ヴェルデは子どもながらに首をかしげて立ち上がり、職員の後について院長室に入った。

 ヴェルデの顔を見ると孤児院の院長はやさしく微笑み、「お前に、養子縁組のお話が来ました」と告げる。

 ヴェルデは目をぱちくりさせた。

 養子縁組――その言葉は知っていた。新しいお父さんとお母さんができるという意味だ。

 しかし、たいてい養子縁組の話がくるのは、ヴェルデよりずっと小さい赤ちゃんと呼ばれる年齢の兄弟たちにであって、そのような話が自分に来たことに驚いた。

 孤児院の院長である老婆は、大きな机の上で、しわだらけの指をゆったりと組みなおす。

「先日、礼拝でお前の姿を見て、ぜひお前を養子にとのことです。お申し出くださったのは、この国に領地を多く持つ貴族の方々です」

 貴族、という意味もなんとなく分かった。ヴェルデの読んでいた絵本に出てくるお金持ちでキレイな服を着た人々だ。

「その方たちはすぐにでもあなたに来て欲しいとおっしゃっています。ヴェルデ、この話をお受けしますか?」

 ヴェルデは何度かまたたきをして、そして「いいえ」と言った。

「ぼくたちのマザーはいんちょう先生です。新しいおかあさんはいりません」

 院長は少し笑ったようだった。

「新しいお父さんもできるのですよ?」

「おとうさんも、いりません」

 養子縁組でもらわれていった子どもたちは「幸せ者だ」と院では言われていた。貴族と呼ばれる人からそういう話が来ることは、きっと幸せなことなのだろうと、ヴェルデも思った。

 だが赤子のころからこの院で世話になっていて、最近は自分より小さな兄弟たちの世話をお手伝いすることも増えて。毎日、神様に祈りを捧げて、奉仕活動をして、図書室の小さな棚の絵本を片っ端から読んで。そういう生活が、ずっと続くものだと思っていたから、突然降ってわいた話に、思考がついていかなかった。

 ヴェルデを連れて来た職員が、かがみこんで「いいお話じゃないか」とヴェルデの肩を叩いた。

「お貴族さまから養子縁組のお話なんて、ここ何年もなかったことだ」

 そもそも養子縁組の話自体が年に数件しかなく、それでも裕福な市民の多いこの地方は、ほかの孤児院よりも恵まれているのだと、職員たちがうわさしているのも知っていた。

 ヴェルデは困り果てた。もとより、たった六歳の子どもに、自分の将来ことなど決められるはずもなかった。それだけの思慮も経験も持っていないのだから。

 院長は微笑み、「あせる必要はありませんよ」とやわらかい声で諭した。

「養子になったからと言って、必ず幸せになれると決まったわけではありません。養子になったおうちでも、この孤児院でも、どちらでもお前は幸せになるための努力をしなくてはいけないのです」

 じっと耳をかたむけるヴェルデの前で、院長は続ける。

「ただ、この孤児院にいるよりも、貴族の養子になったほうが、できることはずっと多くなるでしょう。それに貴族の家柄ならば、お前の好きな、魔法使いにも会えるかもしれません」

「きぞくの人のおうちには、まほうつかいが住んでいるのですか?」

 住んでいるとは限りませんが、と院長は笑った。

 このあたりの国では、貴族の子弟は学校には通わず、家庭教師に教育されるのが一般的だ。そして、その家庭教師の中に魔法使いがおり、魔法に関する教育を受けるのもまた自然なことだった。

「もう一度、良く考えてごらんなさい」

 院長の言葉に送り出され、部屋を出たヴェルデ。

 中庭に目をやると、強い日差しと風を受けた木々が、ざわざわと大きな音を立てて葉を揺らしていた。


 その様子を例の大きな鏡で見ていた無名の魔法使いは、「ふぅん、養子縁組ねぇ」と頬杖をつきながら呟いた。

「フォ・ゴゥル、どう思う? あいつにとってはいい話なのかな?」

 無名の魔法使いは、自らの分身である白い獣を呼んだ。

 無名の魔法使いは、どんなに古い時代でも、魔法の手順を踏めば過去にさかのぼることができた。たが、未来を見る力はなかった。未来とは、偶然と必然と数多あまたある個人の意思とによって、複雑に織りなされていく無限の可能性のことだ。それを知ることのできる力のあるものは存在しない。

 部屋の中に白い霧が忍び込んだかと思うと、それはたちまちフォ・ゴゥルの形を作り上げた。

『突然、なんのお話ですか?』

 この場にいなかったフォ・ゴゥルには意味がわからなかったようだ。それもそうだと思い、無名の魔法使いは今しがた鏡の中で起こった出来事を話して聞かせた。

 フォ・ゴゥルは、『いいとも悪いとも言えませんね』と首を振った。

『孤児院で暮らすより、金銭的な苦労は減ると思いますが、金銭は必ずしも人間を幸せにしませんからね。それに、子どもが育つのには、それより必要なものがあるのではと思います』

 無名の魔法使いは笑った。

「お前が何を考えているか、当ててやろうか。それは愛情だと言うのだろう?」

『まぁ、そのようなものです』

 しかし結局のところ、愛情の何たるかを理解していない二人が話し合ったところで、まともな結論など出るはずもなかった。

「見届けるしかないか、これまでと同じように」

 無名の魔法使いの言葉に、フォ・ゴゥルもうなずいた。

 なんにしても、幼児にとって人生の一つの大きな転機には違いなかった。それが、より良い方向に転がってくれれば幸いなのだが――。

 無名の魔法使いはこの世に神などいないことを知っていたが、

(人間が神に祈りたくなるのは、こんなときかな)

と初めてしみじみと思うのだった。


 一方のヴェルデは、小さな頭の中を混乱でいっぱいにしながら、孤児院の廊下を歩いていた。

(よくかんがえなさいって言われた。でも、かんがえてもさっぱり答えが見つからない)

 時間の猶予ゆうよがそれほどないことは、院長の話から察せられた。

 そこでヴェルデは、孤児院の兄弟たちに話を聞いてみることにした。

 最初に声をかけたのは、ヴェルデと同じ部屋のアスティチェンと言う名の子どもだった。細い銀髪と青い瞳の男の子で、ひょろりと細い体と大きな瞳が特徴だ。

「ようし? ヴェルデが? いいなぁ、ぼくもようしになりたいな」

「いいなっておもうの? みんなとサヨナラするんだよ。もう会えないかもしれないよ」

 アスティチェンはちょっと首をかしげ、「それは、さみしいかもしれないけど」と言った。だが、やっぱりうらやましいと付け足した。

「だって、自分のおうちができるんだよ。すごいことじゃない」

「今だって、ここはぼくたちのおうちだよ」

「そうだね、みんなのおうちだ。ぼくだけのおうちじゃないもの」

 アスティチェンに言われ、そうかそういう考え方もあるのかと思った。

 孤児院にあるものは全部みんなのもの。みんなのおもちゃ、みんなの食事、みんなの先生――独占できるものは何一つない。必要なものはみんなで分け合って暮らしているのだ。

 それが不幸なことかどうかヴェルデには分からなかったが、自分だけのもの、に憧れを抱く気持ちは理解できた。

 ほかの兄弟たちにも話を聞いてみたが、返って来る反応はいずれも「うらやましいな」「すごーい」「いい話じゃないか」という類のものだった。

 そういうものなのか、とどこか人ごとのように思っていたヴェルデに、少し違う角度から考えるきっかけをくれたのは、六歳年上の兄弟だった。もつれた毛糸のような黒髪をおさげにした、エレンという名の少女だ。

「きっと、わたしにはそんな話はこないわ。勉強ができるわけじゃなし、器量がいいわけでもない。きっと一生、この孤児院で、小さな子たちの世話をしながら生きて、大人になって、おばあさんになるのよ。外の世界を見られるチャンスがあるなら、行くべきだわ」

 その話を聞いたヴェルデは想像してみた。自分が大きくなって、どんなふうになっているのかを。するとやっぱり、エレンの言ったように、下の兄弟たちの面倒を見ながら大きくなって、いつかは黒い服を着て、教会で祈りを捧げながらこの孤児院で仕事をする。そういう未来しか想像できないのだった。

(きっとここにいる兄弟みんな、おんなじようなみらいがまってる)

 小さな兄弟たちから頼られ、大人たちといっしょに孤児院の仕事をする。それが悪いとは思わない。そういう未来の選択肢もあるだろう。

 だが、それは別にヴェルデでなくてもいいのだ。ヴェルデがやらなければ、他の誰かがやるだけだ。

(でもきぞくの人たちは、ぼくにようしにきてほしいと言った)

 ならば、自分を必要としてくれる人たちのところへ行こう。

 ヴェルデは、そう決心した。

 小さなベッドに入って目をつむると、心地よい眠りがやってきた。夢の中で、新しい父と母に両手をつないでもらった。それは、とても幸せな未来の想像図だった。

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