episode 5. 閉ざされた森の塔

 それから約二年の月日が経ち、赤子は無事三歳になった。

 彼の描いた「魔法使いの絵」を鏡越しに見て、無名の魔法使いは大笑いする。

「あれが人間の顔か! 目と口が輪郭をはみ出しているぞ」

『それはまぁ、人間の子どものことですから』

 相変わらず、無名の魔法使いとフォ・ゴゥルは、暇を見つけては赤子を観察するのを日課にしていた。

 鏡の中から、子ども独特の甲高い声が聞こえてくる。

『みてー。まほーちゅかい!』

 そう言って、自分の描いた絵を自慢げにかかげる。

「なるほど、あの三角の体は、魔法使いのローブと言うわけか」

『青色で描かれているところを見ると、ヘイ・ウェイチンのつもりですかね』

 五人の魔法使いのうち、魔法薬学の父と言われるヘイ・ウェイチンは、青色で示されることが多い。

「ウェイチンはもう少し美男子だったぞ。いつまでも猫背のなおらん、気弱なやつだったが」

 無名の魔法使いは言い、鏡の映像を消した。

 った装飾に囲まれた鏡面は、一瞬で静まり返る。

「さて、薬草園の世話をするか――医者の見当はついているな?」

『はい、何人か。魔導士協会にも、“名前のない魔法使い”の名で手紙を出しておきました』

 彼らは、塔の外へ広がる森へと向かって歩きながら話した。


 無名の魔法使いは、居城を移していた。ゆるやかな川のほとりの古城から、深い森の中にあるこけむした塔へと。古い時代に見張り台として使われていたものだった。あの大きな鏡を気に入ったので、それだけはちゃっかり持ち込んでいる。

 塔の周りに広がる暗い森は、人間たちから「あかずの森」とか「惑わしの森」と呼ばれている人の手の入らない森で、それは森へ入ろうとした人間が奥へたどり着けず入口へ戻ってきてしまうことからついた名だ。

 森の奥に化学物質の不法投棄施設があり、長らく無名の魔法使いが封印していたのだった。

 無名の魔法使いがそれを思い出したのは、人間の世界にたちの悪いやまいが流行したからだ。有効な薬が見つからず四苦八苦する一方、移動用魔法陣テレポーターの発達により遠くの町まで一瞬で移動できる時代となった。病の広がりは、人間たちをほとんどパニックに陥れようとしていた。

 そこで、病に有効な薬を開発しようと考えた無名の魔法使いは、まずどこかで薬草園を栽培することにした。魔法で治療する方法を見出したところで、複雑すぎると使える人間が限られる――あるいは使える人間が存在しない可能性もある。薬草の調合のほうが、人間世界に普及するには都合がいいのだ。

 そして、長らく放棄していたこの土地を思い出したというわけだ。

 人間の立ち入らない深い森の中なら、姿を隠すことなく自由に薬草の栽培ができる。汚染物質を片付ける手間はあったが、緑が深く厳しい自然を、無名の魔法使いが気に入ったこともあって、ここに薬草園を作って世話をする日々が続いていた。


 フォ・ゴゥルは、森に満ちる魔力を使って、手下となる白い獣をいくつか呼び出し、畑の世話を手伝わせた。その白い獣は、じゃがいものような顔に人間の体がくっついたようなもので、国によっては「妖精」などと呼ばれているようだ。特に大きな魔力も持たず害の少ない連中である。手足があるから、農作業の手伝いにはもってこいだった。

(あいつも、いろいろと楽をする方法を考えるものだな)

 フォ・ゴゥルの行動をそんな風に評価しながら、数日間、天日干しにした薬草をすりばちですりつぶしていく。これを先日こしらえておいた複数の粉末と組み合わせることで、病の進行を遅らせ、軽度のものならば自然治癒力を高めて治癒させる薬が、理論上出来上がる予定だった。

 フォ・ゴゥルに探させていたのは、実際に薬の効き目を試すための、小さな村の診療所だった。いくつかの地域から選択し、治療に使えと送りつける。本来ならあやしいことこの上ないが、“名前のない魔法使い”の名が、こんなときには威力を発揮する。それは、千年の昔から、人間世界に大いなる災厄が訪れた際、幾度となく手を差し伸べて来た偉大な魔法使いの名だと、人間たちは記憶に刻んでいる。人間世界に多大な影響力を持つ魔導士協会も例外ではなかった。

(人間を救うことは私の使命ではないが、世界をことが私の使命だからな)

 流行り病で地上のすべての人間が死に絶えるとは到底思えなかったが、この病が孤児院や、そういった特に弱い人間たちの頭上にも降りかかったら――そう考えたとき、無名の魔法使いは、治療薬を作ることを決心していただのだった。


 出来上がった試薬を布袋に詰めて、無名の魔法使いは森の塔を後にした。

 この布袋には魔法がかかっていて、見た目の何倍もの体積を収納できる(どの程度かは製作した魔法使いの腕による)。人間世界では第二のポケットセカンドポッケの名称で親しまれているようだ。

 構想アイデア自体は旧時代のさらに紀元前までさかのぼるが、実用化したのは始まりの五人の魔法使いたちである。新時代の幕開け当初は、混乱の時代であると同時に、魔法の発展の時代でもあった。

 無名の魔法使いは、医者たちがほんの少し目を離したすきに、治療薬と使用方法を置いて去った。その紙には、野バラと狐がデザインされた封蝋が押されていた。これが、“名前のない魔法使い”を示すメッセージである。

 そうして、すべての人間と出会わずに試薬を配り終えた無名の魔法使いは、最後に旧ブルゴーニュ地方の孤児院に立ち寄った。


 寺院で集会でもあったのか、この日は特ににぎやかだった。鐘楼から鐘の音が降り注ぐと、教会の扉からたくさんの人があふれ出てくる。そして庭では簡素なテントが立てられ、小さなバザーが開催されていた。

 クッキーを売っているのは、孤児院で生活する孤児たちだった。その中に、ラッピングされたクッキーが入った小さなバスケットを持つ幼児を見つけ、口元をほころばせる。

 無名の魔法使いは、ひとりの老紳士に化けて、その子どもの前に歩み寄った。

「坊や、クッキーをひとつくれるかな?」

 声をかけると、幼児がじっと見上げて来た。

 髪は木の皮のような深い褐色で、細身ではあったが健康的な肌の色をしていた。やはり目を引くのは鮮やかな緑の瞳で、まるで新緑を閉じ込めた宝石のように見える。

「おじーさん、クッキーたべるの?」

「そうだよ」

「クッキーおいしいよ」

「そうだね、ひとつくれるかな?」

「あのね、クッキーはあまいよ」

「……」

 どうやら、売り買いするという概念がいねんを今一つ理解していないらしい。

 横から黒い服をした中年の職員が「すみません!」と割り込んできた。幼児の前にかがみこんで、「おじいさんに、クッキーを渡してあげて」と、そのバスケットの中からラッピングをひとつ取り出す。

「はい、どーぞ」

 小さな手にラッピングを握り締めた幼児は、背伸びしながらそれを渡そうとする。

 しわだらけの手でそれを受け取り、「いくらかな?」と訊いた。

「2クプです!」

 職員の言葉をオウム返しにして、元気よく叫ぶ。

(うーん、運営資金にてるつもりなんだろうが、良心的な値段だな)

 このところ、ときどき人間の町で買い物をするようになった無名の魔法使いは、庶民的な感想を心の中に思い浮かべた。

 そして銅貨を五枚取り出し、白く小さな手のひらに置いた。

「ありがとう。甘いクッキーをくれたから、お礼だよ」

 職員が多いからと一部を返そうとしたが、断った。多いと言っても大した金額ではない。

「おじーさん、ありがとう」

 小さな手のひらをバイバイと振る姿に、自然と笑みが深くなる。

「坊やも、ありがとう」

 そして、他の人間たちにまぎれて丘を下って行く。人目を避けるように、その姿はつむじ風となって空へ消えた。


「ずいぶんぼそぼそしたクッキーだな」

 フォ・ゴゥルと一緒にバザーで買ったクッキーをつまみながら、不平を口にする無名の魔法使い。

『そうですね。でも、全部召し上がるんでしょう?』

 フォ・ゴゥルに言われ、黙々と次のクッキーに手を伸ばした。

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