episode 4. 赤ん坊の仕事

「あいつ、今日も盛大にらしているぞ。学習しないなぁ」

 無名の魔法使いが、手を叩いて喜んでいる。視線の先には、壁掛けの大きな鏡がある。

 川岸に建つ古城である。無名の魔法使いはここを気に入り(主な理由は、赤子の様子を映し出すのに都合のいい大きな鏡があること)ここ数ヶ月はこの城を根城にしていた。

『それはまぁ、人間の赤ん坊のことですから。そろそろ歩き始めましたか?』

「いや、まだだな。壁伝かべづたいに不格好なをすることがあるが、それがせいぜいだ」

 フォ・ゴゥルがいっしょに鏡を見ていると、大人の腕が伸びてきて赤子を抱き上げた。黒い服を着ているのは、教会に仕える聖職者、あるいはその見習いで、孤児院の職員も兼任している。おしめを取り換え、慌ただしく去って行く。

「なんだ。もう少し赤子で遊んでいけばいいのに」

 突っ込むべきか迷ったが、そこはスルーすることにして『人手が足りていないのでしょう』と述べる。

「そういうものか」

『はい。福祉施設なんて、万年人手不足ですよ。子ども一人にずっと構ってはいられないでしょう』


 フォ・ゴゥルは、無名の魔法使いのである。この存在の仕方を、その人は「端末」と呼んでいる。

 フォ・ゴゥルは無名の魔法使いと意識の一部を共有しながら、一方では独立した思考・個性を持っていた。

 調査の名目で人間社会にまぎれ込むことも珍しくない。時に行商人となって村々をめぐり、時にどこかの家庭のペットとして飼われ、時に老い先短い老人を演じる。あるじである無名の魔法使いとはまた違った角度から、フォ・ゴゥルは人間社会というものを観察していた。より身近に接してきた分、文化や風習についてはその人より詳しいかもしれない。

「私だったら、あいつを手元に置いてずっと遊ぶのになぁ」

 それは赤ん坊のほうがもたないのでは――とフォ・ゴゥルは思った。なにせ、無名の魔法使いは食事も睡眠も必要としない。一日のほぼすべてを寝るか泣くか食べるかして過ごす赤子とは、生活様式(と言うより生態だろうか)が違いすぎる。


 鏡の中の場面が切り替わった。

 黒いゆったりとしたローブをまとった老婆が、赤子をあやしている。

 椅子に腰かけ、ひざに赤子を抱き上げた彼女は、赤子のおせじにも豊かとはいえない前髪を、指先でちょいちょいと撫でた。しわだらけの節くれだった指に、ほのかに温かい光が宿る。

 それが魔力の光だと気づき、無名の魔法使いは「おや」と感嘆の声をあげた。

「あれはどういう魔法だ? 初めて見るものだが」

 フォ・ゴゥルもその光を見た。ほんのかすかな光、それなのに胸にしみこむような温かくやさしい光の正体は。

『あれは、人間たちが“幸運のお守り”と呼ぶものですよ』

 フォ・ゴゥルが答えると、その人は興味を惹かれたようだ。

「私の知らない魔法だな。人間たちは千年の知恵の積み重ねによって、新たな魔法を得たか」

『たしかに魔法には違いありませんが、効果のほどは不明です。あれは単なる愛情のしるしではないかと、私などは思っているのですが』

「愛情か……お前は難しいことを言うな。それは男女の愛とは異なるものか?」

 主人の純粋な問いかけに、フォ・ゴゥルは返答に詰まった。

 それは人間の本質に根差すというか、人間社会の根幹こんかんとでも言うべきか――とにかく、人間ではないフォ・ゴゥルには説明の難しいものだった。

『愛情には無限の種類があり、その深度もまた無限と聞き及びます。男女の愛以外にも、人間社会には複数の愛と呼ばれるものが存在しているのではないでしょうか』

 ふぅん、と相槌あいづちを打ったその人は、じっと鏡に見入っていた。鏡の中では、赤子が緑の瞳を輝かせて笑い声をあげている。

 急に、その人は立ち上がった。

あるじ様?』

「せっかくだ。その愛情とやら、間近で見て来よう」

 白っぽいローブを羽織ったその姿は、一瞬でその場から消え失せた。広い部屋の中、後にはただキラキラと光の粒子だけが舞っていた。


 交差させた二本の前足に長いあごを乗せ、フォ・ゴゥルは疑問に思う。

 果たして、あの方に人間の愛のなんたるかが理解できるのだろうかと。

 フォ・ゴゥルと無名の魔法使いの一部は常につながっている。そのつながっている部分の中に、深く暗い負のエネルギーが渦巻いているのを感じる。自分たちは日の当たる場所を堂々と歩ける生き物ではなく、その影にひっそりと息づく存在でしかないのだ。

(人間とは、愚かで弱く、そして無限の可能性を秘めた生き物だ)

 おそらく、人間の赤子は動物の中でも最も弱い部類に入る。生まれた直後は、誰かの世話にならなければ自分の生命維持あえ危うい。それが成長して大人になり、社会という集団に属し、その社会が何世代もたとき、種としてひとつ進歩する。世代を経るごとに賢く強くなっていく。それが人間という生き物だ。

 対して、フォ・ゴゥルたちは、この世に生まれ落ちた瞬間から完全な存在だ。親も兄弟もない。互いに思いやる心、弱者に対する慈しみというものを、体験したことはなく言葉でしか知らないのだ。定められた秩序に従い、善か悪かの二択で物事を決めて実行する。矛盾むじゅん葛藤かっとうの中で日々を生きる人間たちとは対極の存在と言える。

(私はあるじに何を望んでいるのだろうか。いっそほかの白い獣たちのように意志も感情もない存在ならば、こんな風に考える必要もないものを)

 無名の魔法使いが腰かけていたソファを横目で盗み見たフォ・ゴゥルだったが、やがて考えることを諦め、静かに瞳を閉じた。

 考えたところで、なるようにしかならない。所詮しょせん自分は、主の一部にすぎないのだからと。


* * *


 無名の魔法使いは、再び旧ブルゴーニュ地方の孤児院を訪れていた。

 いつものように気配をなじませる魔法をまとい、堂々と院内を歩く。中庭に出ると、ほどなく探していた姿を見つけることができた。

 中庭に面した廊下に、椅子に腰かけた老婆と緑の瞳の赤子がいる。

「あら、坊やはこの婆さんの指が好きかい、そうかい」

 老婆は赤子に語り掛けているとも、独り言ともつかぬやわらかな言葉をつむぐ。その指は、きゃっきゃと笑う赤子の前で、ゆったりと振られている。赤子はときおり手を伸ばして、ぎゅっとその指を握り締める。そのたび、満足そうに笑った。

 無名の魔法使いは、なによりもまず赤子の成長に驚いた。

(あの貧相な子どもが……倍ほどに大きくなって、健康的な肌つやをしている)

 鏡越しに見るのではなく、じかに会うことで赤子の成長を肌で感じることができた。

 そして、無名の魔法使いの瞳は、かすかな魔法の光をとらえた。

(これが……幸運のお守りという魔法か)

 老婆の指先に、ほんのりと宿る魔力。その輝きは春の木漏れ日にも似てただひたすらにやさしい。そしてなんと、それを握り返した赤ん坊の手のひらにも、同じ淡い光が宿っている。ふたつの光は穏やかに老婆と赤子の笑顔を照らしていた。

(互いに通じ合う心……いや、赤ん坊に確固たる意志があるはずがない、それなのにこの光は……)

 無名の魔法使いが興味津々しんしんに観察していると、やがて老婆は立ち上がり、乳児の集まった部屋に赤子を寝かせ、右足を引きずりながら去って行った。部屋には別の職員がふたりほどいて、それぞれに忙しく片づけをしたり、泣く子をあやしたりしている。

 無名の魔法使いは、無言でベッドのそばに立った。

 赤子は、その印象的な緑の瞳で、無名の魔法使いの姿をとらえた。

 無名の魔法使いは驚かなかった。直感の鋭い動物や子どもは、本能的にその姿を見抜くことがあるのだ。

「やぁ、ほとんど一年ぶりか。元気にしていたか?」

 赤子は、「だ、あーあー」と短い腕を伸ばした。無名の魔法使いは、そっとその手を取る。赤子の小さな手のひらが、力強く指先を握り締めた。

「そうか、元気か。それはいいことだ」

 無名の魔法使いは、知らず知らずのうちに微笑んでいた。それにつられるように、赤子もきゃっきゃっと笑った。指を握る手にさらに力が入る。

「お前は、こんなに小さいのに驚くほど力が強いのだね」

「あー、うー、ぱ、ぱ!」

 赤子はさらに笑った。よだれがたらたらと垂れてくる。「汚いなぁ」と言いながら口元を白い布で拭ってやると、手足をばたつかせて喜んだ。

 そしてなんと。無名の魔法使いの指を握り締めた手のひらに、小さな淡い光が宿る。そのあたたかい光は、無名の魔法使いをここ数百年で一番驚かせた。

「お前は――お前は、私にもこの光をくれるのだね」

 そう夢見るようにささやいた無名の魔法使いは、自分がどれほど穏やかな表情をしているかを知らない。知ったらさらに驚くことになるだろう。

 しばらくじっと赤子と見つめ合っていた無名の魔法使いは、そっとその小さな手をほどくと、静かに立ち上がった。

「元気で強い子になりなさい」

 言い残して孤児院を立ち去る。

 その姿を見送るかのように、緑の瞳はじっと空中の一点を見つめ続けていた。

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