episode 3. 封印のほころび

 結局、アルフォーレ国は隣接する自治領への侵攻を断念した。国内で白い獣が暴れまわり、その対処に兵力をかねばならなかったからである。

 この白い獣のことを、人間たちは「白き闇の眷属けんぞく」だとか「魔王の眷属」だとか呼んでいるようだ。別に正式名称を定めているわけではないし、事実とそう乖離かいりがあるわけではないのだが、人間たちの知らない事情もある。

 それは、この白い獣を生み出しているのが、人間たち自身の負の感情ということである。怒り、悲しみ、憎しみ、恐怖、猜疑心さいぎしん……そういった暗く重い負のエネルギーをすくい取って初めて、彼らはこの世に顕現する力を持つ。争いは、根底に負のエネルギーを内蔵する。つまり、人間は争うごとに自ら白い獣の出産を助けていることになるのだ。

 これは白い獣を生み出すことで負のエネルギーを消費して減少させ、また生まれた白い獣と向き合うことで武力を発散させる、いわば人類の自浄作用を担うシステムである。そして、このシステムを生み出したのが、無名の魔法使い、その人だ。実質的な運用は、フォ・ゴゥルにゆだねられている。

 なお、自然災害の発生によって人間界に負のエネルギーがふくれ上がった際には、白い獣が量産されないよう、無名の魔法使いがコントロールしている。


「良かったなぁ。戦乱は回避されたぞ」

 古城の壁にかけられた鏡に映し出された、赤子の姿に向かって話しかける。赤子は、机の脚につかまり立ちして、よだれをたらしながらどこかをじっと見つめている。あの新緑のような緑の瞳がこちらを見ていないのは残念なことだった。

 ここはゆるやかな川の岸辺に建つ廃城。かつての住人が残したアンティークのソファーに腰かけて、無名の魔法使いはゆっくりとくつろいでいる。そばのテーブルには蜂蜜入りの紅茶が置かれ、花瓶には季節の花が生けられていた。先ほど町で買い求めて来たものだ。

「人間の嗜好品しこうひんは悪くないな。本で読んだぞ、お前は、まだ蜂蜜は食べないほうがいい」

 蜂蜜は、乳児ボツリヌス症を発症する危険があるので、おおむね一歳未満では摂取させないほうが良いとされている。

『だ、ぱ! あー』

 鏡の中の赤子が意味のない言葉を口にする。

 無名の魔法使いは苦笑した。

「お前にばかりかまけているほど暇じゃないんだがな。お前の姿を見るのが日課になってしまったよ」

 部屋の扉から、白い霧が侵入してきた。やがてそれははっきりとした形をとり、フォ・ゴゥルが四本の脚を折ってかしこまる。

「首尾はどうだ?」

『はい。くだんの施設ですが、やはり封印が緩んでいました。一部のルートから人間が出入りし、ここ数年で死者も出ている模様です』

 フォ・ゴゥルは、かつて無名の魔法使いが封印したはずの施設の調査から戻ってきたところだった。

「そうか。では封印を結びなおす必要があるな――本当は施設ごと撤去できれば良いのだが、周囲への影響を最小限にとどめてそれを行うには、今の私の力は小さすぎる」

 人間と比べるべくもない魔力を持つ無名の魔法使いにさえ、実行できないことがあるのだった。

 無名の魔法使いは指を鳴らし、鏡に映る赤子の姿を消した。

『また人間の赤ん坊を見ておいででしたか。ずいぶん健康的な肉づきになりましたね』

「そうでなくては困る」

 無名の魔法使いの休暇は、中断を余儀よぎなくされた。


 その後、フォ・ゴゥルの案内でその場所にたどり着いた無名の魔法使いは、改めて封印の儀式を行った。広範囲にわたって魔法を行使するためには、莫大な魔力を有する無名の魔法使いと言えど、いささかの準備が必要だった。封印の結界を張るだけでなく長期間持続させるためにいくつかの呪具じゅぐ(魔法の補助アイテム)を準備し、その土地に備え付けた。人間が興味を持って動かさないよう、自然に溶け込む岩や木を使っている。

 千年も経てば、当時の封印が劣化し、穴が開くのも当然と言えた。

 千年前に封じたこの施設、実は原子力発電所である。しかも、戦争の影響で放射能漏れの事故を起こした発電所だった。人間がやたらに立ち入ると被爆者を量産するため、汚染された領域を限定して封印したのである。

 周囲の地域の除染じょせんもし直さなくてはならないだろう。

 この除染作業――放射能に汚染された環境を生物に無害な環境へ戻すこと――には莫大な魔力を消費する。さらには、原子力と魔力、この両者の相性はとことん悪かった。最盛期の力を持った無名の魔法使いであっても世界中を除染するにはいたらず、五人の魔法使いに知恵を授け、人間たち自身で自らの住まう環境を改善してもらうことにしたのだ。人間たちの生活圏外の建物や地域については、無名の魔法使いが封印した。それで一応の平和が保たれている。

 無名の魔法使いがやっていることは、ある意味千年もの間なにも変わっていない。ひたすら核戦争の後始末に追われているのであった。

 除染のために魔力を解放しつつ、無名の魔法使いは小さなため息をもらした。

「こんな作業ことをするより、お前がおしめをらして泣いているのを見るほうがずっと楽しいんだがなぁ」

 とはいえ、あのような赤子が安全に暮らしていける世界にするためにも、除染作業は行わなくてはならない。またそれが、自身に課した使命でもある。

 無名の魔法使いは長いまつげを伏せ、黙々と魔力を解き放ち、汚れた大地を、地下水を、大気を浄化する作業を続けた。封印した発電所の周辺地域をまとめて浄化するのに、丸三日もかかったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る