鹿山知恵編 エピローグ

「なんか悪いな」

「怪我は早めに直さないとダメよ。それにアンタ、誰かついてないと寄り道しそうだからね」

「おう、俺より俺に詳しいな」


部活の練習中に捻挫をした俺は、帰りのバスの中で揺られていた。

地獄に仏でもいうのか、部活の顧問は理解があって、理由さえ言えば休ませてくれる。

帰り道が一緒でも、わざわざ鹿山がついてくる必要はない。

だが、怪我をした時に限って訳もなく感傷的になるものだ。

なので、彼女の好意は有難かった。


「結構甲斐甲斐しいのな。鹿山と結婚できるやつは幸せだ」

「相手がアンタじゃないのだけは確かね」

「はいはい、嫌味も聞き飽きましたよ。知恵ママ」

「誰がママよ!」


気の強さは相変わらずだが、俺以外のクラスメイトには猫を被っている。

いや、それは正確ではない。

俺にだけは、着飾らずに接してくれているのだ。

そう思うと、なんだか許せてくるから不思議だった。


「あんまりカリカリするなよ、な」

「アンタが怒らせてるんでしょ」


他愛ない会話に花を咲かせていると青のブレザーの学生たちが数人、側面の入り口から、次々に雪崩れ込んでくる。

その様子に注視していると、とある少女が俺たちに声を掛けてきた。


「あれぇ、知恵じゃん。それに優吾君まで」

「あれ、君は……」

「……長塚」


バスでばったり遭遇したのは、長塚玲(ながつか・れい)。

俺や鹿山と同じ中学校に通っていた女生徒だ。

バスケ部に所属していて、美人だともっぱらの評判だった。

楕円形の目に小柄な鼻、ふっくらとした唇。

どこを取っても、いいパーツが揃っている。

だが独特の雰囲気を醸し出しており、少し近寄りがたかった。

動物で例えるなら、狐か狼といったところだ。

話しぶりから鹿山と面識があるようだが、横に座る鹿山は、彼女を見るや否や腕にしがみついてきた。

尋常ではない様子に、俺は二人を交互に視線を送ることしかできない。


「田島、ごめん。ちょっとこうさせて」

「あっ、ああ……」

「どうしたのよ、知恵。怖いものでも見たみたいに」


そういうと、長塚は席と席の間に立つ。

席はガラ空きで、いくらでも座る腰掛ける所があるにも関わらず、だ。


「鹿山と何かあったのか?」

「別にぃ。何もしてないよぉ」

「やった側はすぐ忘れるわよね。やられた側は一生抱え込むのに」


曖昧に誤魔化す長塚と鹿山が、火花を散らせた。

長塚の笑っているようにも、蔑んでいるにも見える表情は、眺めていると無性に腹が立った。

間延びした話し方も、妙に人の神経を逆撫でしてくる。

中学生の頃、長塚と話した際に感じた違和感の正体に、やっと気がついた。

人を小馬鹿にした、優越感から生まれた余裕が不愉快でしょうがなかったのだと。

それに鹿山と彼女の間には、何かがあったのは間違いなかった。

でなければ鹿山が怯え、激昂する説明がつかない。


「もしかして、君が鹿山をいじめてたのか?」


頭の中に、いじめの三文字が過った。

質問すると長塚は目を細め、ニタリと唇の両端を吊り上げる。


「母子家庭の知恵なんかといたら、優吾君の家まで貧乏になっちゃうよ。しかも団地住まいだし。絶対まともじゃないよね」


薄ら笑いを浮かべ、鹿山を侮辱した長塚は同意を求める。

彼女も、何らかの影響を受けたのだろう。

テレビか、インターネットか、親か、あるいは全部か。

いかなる理由があるにせよ、最終的にいじめるのを選んだのは彼女自身だ。

毎日毎日くたくたになって帰る母を思って、不平不満をずっと溜め込み、日々葛藤した鹿山の中学時代。

彼女をあそこまで歪めて追い詰めた元凶が、俺の目の前にいる。


「……そっか、長塚さんが鹿山を」

「付き合い辞めた方がいいよ、その子とは。ね、田島君」

「それが? それの何が悪いんだ? 鹿山の家庭環境が悪かろうが、いじめていい理由にはならないよ」


あくまで毅然とした態度で訊ねる。

すると彼女は眼を見開いて


「だって、そうでしょ?」


と悪びれもせずに言ってのけた。


「長塚さんの考えを矯正するつもりなんて、微塵もないけどさ」


高校生にもなれば、善悪の判別程度はつく。

今までもこれからも、彼女は変わらないだろう。

しかし、これだけは伝えねば。

意気込むと、俺は大きく息を吸い込んだ。


「俺の女を馬鹿にしないでくれよ。心底不愉快だ」

「ちょっと、俺の女って……」

「演技して合わせて」


恋人を装って抱き寄せてから囁くと、目的を見通したのだろうか。

普段はああ言えばこう言う彼女が、二つ返事で頷いた。

バスが揺れると鹿山の顔は、ちょうど俺の胸元辺りに当たる。

生暖かい吐息が首筋に触れると、否が応でも一人の女として意識してしまった。

異性とのデートは勿論、ハグもしたことのない俺は気がおかしくなりそうだった。


「へぇ。二人って付き合ってるんだ」

「あ、ああ、結構可愛いとこもあるんだ」

「ふっ、そうなんだぁ」


緊張で吃りながらも、何とかその場をしのいだ。

話していると、いつの間にか目的地のバス停まで到着する。

これ以上問い詰めても、のらりくらりとはぐらかすだけで、収穫はない。

まともに取り合う気のない女に、いつまでも構っていられるか。

俺たちはそそくさと、バスの前方へと向かっていった。


「じゃ、俺たちはここで降りるから」

「ああ、そう。二人ともお似合いだねぇ」

「さようなら」


挨拶を済ませると、早々に立ち去った。

長塚は窓越しからこちらを見下ろしていたが、客が乗り込むと前を見据える。


「ふう、神経使ったな」


バスを降りると虚脱感に襲われて、思わず溜息を吐く。


「ありがとう。一人だったら心細かった」

「鹿山、あいつはお前の今後の人生には何も関係ない人間だよ。 だから、あんまり気にすんなよ」

「うん、頑張ってみる」

「ま、そう簡単にポジティブにはなれねぇよな。中学がつまんなかった分さ、高校生活は楽しもうぜ! せっかく同じクラスになれたんだしさ」

「……その頃までに、昔のこと忘れられるかな」

「どうだろうな。いじめることでしか粋がれないやつらが、一番弱っちいのは確かさ。あんまり過去の自分を責めるなよ」

「根拠はないけどアンタに励まされると、そう思えてくるから不思議ね。絶対絶対絶対! あいつより幸せになってやる~っ!!!」


人っこ一人いない快晴の下、鹿山の心の叫びは、どこまでも届かんばかりに響いていく。

きっと彼女の願いは叶うだろう。


「今日、守ってもらえて嬉しかった。早紀がアンタに惚れたのか、理由が分かったかも……なんてね」

「ん、どうかしたか?」


全て丸聞こえだったが、俺は敢えて難聴の振りをした。


「別に、何も言ってないわよ」


彼女は、プイッとそっぽを向けた。

関心を寄せていない素振りをされても、仕草で丸わかりだった。

あまりのいじらしさに、接していると加虐心をそそられる。

彼女をからかうのは日々のルーティンに組み込まれ、毎日どんな反応を示すのか一種の楽しみになってしまっていた。


「ウッソでーす! 実はバッチリ聞こえてました~! 宮本さん、俺を好きなのか~。じゃあじゃあ告白しよっかな~」

「アンタと付き合うなんて、あの子が可哀想。絶対長続きしないわよ」

「優吾に惚れちゃったキュンキュンって、言ってた癖に。俺だってそんな風に甘えられたら、鹿山一筋になるのになぁ」

「バカバカバカバカッ! 人の気も知らないで! さっさと一人で家まで帰れ!」

「いてて……。この暴力女! 俺だって流石に愛想つかすぞ!」


よほど勘に障ったのか、突然殴りかかってきた。

女子の拳故に、威力も速度もそれほどではない。

が反射的に避けようとするのが、人の悲しい性だ。

捻挫しているのも忘れ、態勢を崩された俺は、そのまま尻餅をついてしまった。

鹿山は一瞬目をぱちくりさせたが、唇を尖らせたまま、ツンツンした態度を崩さない。

暴力を振るわれたことよりも、最低限の気遣いができないことに対してムカっときて


「じゃあな」


と吐き捨て、背中を向ける。

突き放しても尚、彼女は反省一つしない。


「クソッ、やりすぎちゃったかな。でも俺だけが悪いわけじゃねぇよな」


尻についた汚れを払いつつ、俺は愚痴る。

誰が聞いてくれる訳でもないが、自分の心の整理をつけたかった。


「待って、田島」

「何だよ……っと、どうした?」

「……アンタなりに気遣ってくれてるのに、いつもごめん。中学の頃、部活途中にちょくちょく話しかけてくれたでしょ。どこにも居場所なくてさ、正直、だいぶ救われてた」

「早紀がアンタを好きになったこと、嫉妬してたのかもね」


いきなりで脳の理解が追いつかなかった。

振り返ると、鹿山が抱きついてきたのだ。


「さっきまで馬鹿にしてきたのに、急に黙っちゃって」

「突然すぎてビックリしてさ。いいな、こういうの。青春って感じだ」

「……二度はしないわよ」


よほど恥ずかしがったのか、からかう前に釘を刺される。


「なんでだよ、もう一回してくれよ~」

「私は軽くないのよ! アンタみたいのと違って」

「じゃ、本当に付き合ってみるか? 恋人同士ならいくらやってもいいだろ」

「馬鹿っ、ムードってモンがあんでしょ! 無神経! 鈍感! アンタなんか、アンタなんか……」


そこまで言うと彼女は口ごもる。

嫌いか好きかを言う前に、自制心が働いたのだ。


「色々あったけど、俺はお前のこと嫌いになれねぇわ。鹿山はどう?」

「私は……」


yesかnoか答え易いようパスを出すと、暫しの間沈黙が流れた。


「変なこと聞いて悪いな。そんなことより、タピオカ飲みにいこーぜ!」

「ハァ?! もうタピオカブームなんて、とっくに終わってるわよ!」

「ええっ、そうなの! 一回飲んでみたかったのになぁ」


気まずい雰囲気に耐えられず、唐突に別の話題を持ち出した。

素直ではない鹿山のことだ。

直接的に好きと言い表すことは、今後もないだろう。

けれどこれからも、彼女は俺と共にいてくれる気がした。

そして俺は知っていた。

それこそが雄弁に愛を語るよりも、口先だけの甘い言葉をかけるよりも、はるかに大事で尊いものだということを。


「ま、いいんじゃない。今度探してみる? タピオカ屋」

「デートのお誘いかぁ。知恵ニャン可愛い~」

「もうアンタなんか知らないから!」

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