「雨」
星木 柚
「雨」
雨は好きだ。靴下まで濡れてしまうのは嫌だけれど、雨が肌を打つ感覚や屋根に降り注ぐ音を聞くのは何とも楽しい。
「雨」という文字も好きだ。少しくすんだような青色。絵の具ならグレイドスカイブルーとでもいうのだろうか。
決して透明感があるわけではなく、どちらかと言えばどんよりと気怠そうに構えている。それでも単調で通り一遍のぺったりした青より幾分か良く思える。
深みのある青。「青」という文字じゃ物足りない色。文字の個性はほかの文字で表せるものではないのだ。
そうして青の魅力を存分に味わえば、その奥に幾滴もの雫が見えてくる。桃色や黄色に染まった雫が軽やかに跳ねて飛び散る。まるで喜びの歌を奏でるかのように。
きっとこれが「雨」の正体で、くすんだ青は纏ったヴェールに過ぎないのだろう。この正体を知っているのは世界で私一人だけなのではないかと思うと、心が弾んで笑みが零れる。
もう、私は、「雨」の虜なのだ。私と「雨」だけで満たされた世界を邪魔するものは何もない。二つの個だけで完結された空間。
そんな時間に浸っていたのに、急にパチンと爆ぜて何もかも消えてしまった。残ったのは雨に濡れた鞄と濡れ鼠の私。
ああ、そうか。私はこんな雑踏の中に居たのだ。
そう思った瞬間に、音が私を襲う。アスファルトを踏みしめる無数の靴。ビルを脅かす重い風。線路を擦り上げる電車の車輪。
煩い煩いうるさいウルサイ。
頭がぐわんぐわんと叩かれる木魚にでもなったようだ。脳味噌が小刻みに揺すられているような不快感を覚える。
イヤホンを持ってこればよかった。
信号の前で立ち止まった私に肩をぶつけて、人々が歩いてゆく。みんな音のことなんて雨の色のことなんて、気付いていないような素振りでせかせかと足を動かしている。
「雨」との時間を邪魔された私は、どうしていいか分からなくて、ただぼうっと信号の点滅を眺める。赤に変わる信号に駆け込むようにハイヒールや革靴が走ってゆく。また待てば青信号でゆっくり渡れるのに。そんなことを思いながら跳ね上げられた水たまりの飛沫を目で追う。
次第にどろんと周囲の音が溶けてゆく。都会の濁った空気をも巻き込んで、灰色のゼリーになった音に包まれて、私はなんだか眠くなってきた。
今、この重さに委ねて瞼を閉じれば、どれだけ楽になれるだろう。目を閉じた瞬間、もしかしたら、静かで大好きな公園の中にいるかもしれない。
きっとそうだ。こんなせせこましいビルの足元なんかじゃなくて、涼やかな風が吹き通る大木の下のベンチにでも座っているのかもしれない。こんな濁った景色は嘘で、人々が撒き散らす悪意も嘘で、本当は穏やかな景色に包まれているだけなのかもしれない。ああ、そうだったらどんなにいいだろう。
少しだけ。少しだけなら現実逃避をしても良いだろう。
信号機の支柱にもたれて、私はゆっくりと瞼を閉じる。睫毛の影が景色に被さり、そうしてそのうち、すっかり視界は影の向こうに隠れてしまった。
ふわあっと足が浮き出すような気分。ドレスの裾が風に舞い上がるのを想像する。私は今、舞踏会にいるのだ。周りの生活音はやがて、ダンスに耽る男女のざわめきに変わる。降り注ぐ雨はホールの灯りで、大画面から垂れ流される広告は、会を盛り上げる音楽だ。
そうして私はとたたっと一人で踊る。くるくる木の葉のように、そして軽やかな雀のように。
優雅に踊る人々の間をすり抜けて、私は自由だ。目一杯に体を手足を伸ばして、心のうちを表現する。何にも縛られない解放感。
プァンという音で現実に引き戻された。車のクラクションだ。せっかく良い気持ちで空想に浸っていたというのに、なんて迷惑な音だろう。
微かな苛立ちを感じる私の目の前で信号がちょうど青に変わった。空想を手放して横断道路を渡る。白い線を六本数えて、中洲、また六本数えて、渡りきった。
友達との待ち合わせ場所はここだった筈。時間ぴったりだ。
振り返った先に「雨」の名残。そしてその先に、笑顔で手を振る友達が見えた。
「雨」 星木 柚 @hosinoki_yuzu
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