第11話 ふみの恋
横浜の市街地はガス灯が灯っていて明るい。渉は花緑青の車にふみと共に揺られていた。ふみは渉の隣に座っているが、微妙に距離をとっている。やはり、妹の婚約者だということを気にしているのだろう。一方で渉は瑠璃子に借りた『片恋』の表紙をじっと眺めていた。
「それ、僕が瑠璃子に貸した本」
「そういえば、以前お姉さまに借りたって聞きましたね」
「僕も瑠璃子に片恋していたから……そう。結ばれることは絶対ないけど傍にはいたかったから、この本を渡したの。瑠璃子はその意味わかっていなかったでしょうけど」
渉はこの本をただなんとなく、いつまでも鞄に入れていた。ふみの報われない想いを聞くと不思議と読む気になった。
「ふみさんは、恋してたんですね」
「そうよ。瑠璃子を愛していたわ」
「俺には恋という心が……ソノいまいちわかりません……。でも瑠璃子さんは大切ですし、難があれば守りたいと思います」
ふみは頬杖をつき、鼻を鳴らす。ちらりと渉を見ると『片恋』をひったくる。
「渉くんも、瑠璃子の気持ちに気づかないほど鈍いのね。それは恋じゃなく愛よ。これは瑠璃子も苦労するわ。おまけに卑下た根性してるし。それは瑠璃子の怒る気持ちも分かるわ。瑠璃子はね、貴方に恋してるの。恋ってのは……そう人を好きになることよ。世界の中心だって思うくらい。そんな人が自分を卑下して、遜って、一歩引いて、そんなの面白いと思うかしら」
「それは……たしかに面白くはないです」
ふみは中指を渉につきつける。狭い車内、勢い余って渉の眼鏡に指が当たった。渉は眼鏡を取り、服の裾で眼鏡を拭いた。
「おまけにあなたは恋すっとばして、愛になっちゃうし。歳上?貧乏?身分違い?そんなの気にしちゃだめよ。瑠璃子を大切に思うのも大事だし、瑠璃子のために何かしてあげるのも大事。でも、それは本当に貴方のしたいこと?貴方のしたいことって何よ」
「それは……瑠璃子さんと……一緒にいることですかね……それだけです……」
渉の顔と耳は真っ赤に染まっている。ふみは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「照れることは一丁前に出来るのね。じゃあ今日は僕の恋愛学というものを君に授けよう」
緩やかにスピードが落ち、やがて車のドアが開く。ふみは軽やかに車から降りた。続いて渉もゆっくりと降りる。そこには、三国志の関羽を思い出すような立派な髭をした恰幅の良い男が立っていた。そのうしろに、人の良さそうな婦人が笑顔をふみに向けていた。
「おかえりなさい。ふみ」
「お父様、ただいま戻りました。この男は……」
「良い、宇喜多から聞いている。それよりもだ」
男は一枚の紙をふみに突きつけた。ふみがそれを受け取る。渉がふみの手元にある紙を覗き込むとそれは成績表であった。
「また、落第寸前だったのだな、ふみよ」
「お父様、今回は違う……違うのです……実力が出しきれなかったのです」
「ふみ、それは前回も聞いたぞ」
「まぁ、ふみ。お父様はまだ言いたいことがあるようですから……続きは書斎で」
「お母様まで……」
ふみは困ったように頭をふり、渉を見つめる。どうやら助けを求めているようだ。渉はそっと口を開く。
「マァ……その……娘さんの成績表を拝見するに……国史が一番良くないみたいですね……。多分単語を覚えるのが難しいのでしょう。南北朝論争もその昔ありましたし……。俺、国史であれば少しは教えられますよ」
「君、国史に詳しいのか」
「ア……一応……」
「石田くん、と言ったね。続きは夕食を食べながら愚女の成績についてとくと話し合おうじゃないか」
そう言って関羽のようなたくましい髭の男は渉の肩を力強く叩いた。
夕食はトンカツと白米、味噌汁、漬物であった。皆一様に黙々と食べ進める。ただふみはあちらこちらに視線をやり小さくなって食べていた。渉は緊張のあまり、食事が喉を通らない。どうやらこれがお金持ちのお嬢様の苦労というやつか、と渉は考えていた。食後には紅茶が各々に配膳される。ふみの父は小さな咳をした。
「それで、石田くんとやら。娘の国史の成績はどうやったら上がるのか。お聞かせ願おうか」
「私、何故この子が裁縫の成績が低いのか……わかりませんわ」
裁縫はただ、ふみが不器用なだけであろう。
「国史は、全てが全て関連しているのです。まさに神代から現代まで、物語のように。国史と捉えずに、物語を読むようにしてゆけば自然と流れは掴めます。それに、国史は成績だけでは測れません。単語を誦じられることも大切ですが、何より語句の説明をきっちりとできるようにならないと」
ふみはそんなことは無理だと言わんばかりに頭を振る。
「本当か。早速、貸本屋に行って物語を集めてこようぞ」
「国史は一朝一夕にできるものではないですから、焦らないで見守ってあげてください」
「石田くん。君は家庭教師をしたことがあるかね」
「僭越ながらユウキ株式会社のお坊ちゃんの家庭教師です」
「ふむ。では、愚女の家庭教師も頼めるか」
「俺、婚約者がいるものですから。若い女性のお宅にずけずけと上がり込むわけには参りません」
渉は困ったように頭を掻いた。ふみの父は一言「うむ」と言ったきり動かない。重苦しい沈黙の中、歌うように唇にあかりを灯す。
「その婚約者さんはどこのお方なの。よろしければその方と一緒に講義していただけないかしら」
「俺の婚約者ですか……お恥ずかしいのですが……いま愛想を尽かされていまして……が
「おや。詳しく聞こうか」
「お父様、実はこの男、妹の結城瑠璃子の婚約者の学者なのです。それが卑下だ根性をしていまして……」
「お前は黙っておれ。あの、結城瑠璃子さんのか……。イヤ、噂は聞いているが愛想を尽かされているとは……一体……」
「俺が悪いのです。俺が卑下たことを言うから、瑠璃子さんに怒られてしまったのです」
ふみの母は口を押さえ、父は腕組みをしたまま動かない。ふみは沈黙を貫いている。食卓は静かなまま時を止めていた。針を動かしたのは、宇喜多であった。
「お嬢様、失礼いたします」
「なんだい、宇喜多」
「瑠璃子様のお見合いが決まったようです」
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