悪魔は囁く
「振られてしまいましたか」
正清は店を出てからぽつりと呟く。正清は瑠璃子を愛していた。五年前に会ったその日からずっと恋をしていたのだ。正清は瑠璃子に釣り合う男になろうと五年前のあの日に決め、精進をしてきた。それなのに、あの人の良さそうな学者先生に瑠璃子の心をを攫われてしまったのである。正清は瑠璃子という籠の鳥に恋をしていた。瑠璃子を愛でて生涯を過ごして行きたかった。いまは清々しい心とほんの少しの後悔が彼の心中にある。
正清は帽子を深く被り直した。そのとき、不意に少女の声が聞こえてきた。
「なんだ、貴方も瑠璃子に振られたのね」
どこの不良少女かと思えば、そこにいたのは小西ふみという横浜の生糸商会内では知らないものはいない小西家のお嬢様であった。
「これは小西のお嬢様。私に何かご用でも」
正清はそっと涙を拭い、微笑みを作る。ふみは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「貴方、よく僕が小西の家の者だって分かったわね」
「横浜の生糸商会に知らない者はおりませんから」
「まぁ、僕の素性はいいわ。今日は渉くんが勝ったから確かめにきただけだから」
「勝った?貴女何をご存知なのですか」
「今回の騒動、全部全部知ってるわ。それより、僕は貴方に興味が湧いちゃった」
小西のお嬢様は正清の顔に自ずからの顔を近づける。正清は小西のお嬢様の瑠璃子とは違う美しさを発見した。黒々とした生糸のように細く美しい髪に、鳶色の瞳。それから歪ませたように微笑みを湛える唇。
「ねぇ、貴方本当に瑠璃子のこと、好きだったの」
それは悪魔のような囁きだった。
「貴方は瑠璃子を好きだったんじゃない。理想の恋人像を瑠璃子に重ねてただけではないかしら」
それでも正清は余裕のある微笑みを絶やさない。
「いえ、私は瑠璃子さんのことを愛しておりました。それこそ、世界の果てで瑠璃子さんが助けを求めていたら真っ先に行くように。あの方は私の世界の中心でした」
「本当に」
黒い少女は街灯の灯りに照らされながら首を傾げる。
「ええ、本当です」
「ふぅん。まぁ言うは容易いことよ。貴方の本心は分からないわ」
少女は正清から離れて街灯の下で一人で静かに踊る。正清はその光景を黙って見つめていた。
「僕も瑠璃子に恋していたわ。それこそ、不幸にするやつは許さないくらい。僕が瑠璃子を守っていこうと思ってた。でもそこに、渉くんが現れた。瑠璃子に最初に話を聞いたときは驚いたよ。だって瑠璃子は僕のものだったんだもの」
「ええ……私ももう少し早く動けばよかったと反省しています」
「違うわ。早く動いても結果は変わらなかった。貴方は振られていた」
少女は正清を怖いぐらい真っ直ぐに見つめた。
「渉くんが、瑠璃子を変えたの。分かってらして。あの子は渉くんを通じて恋を知ったの。貴方じゃ到底無理だったわ」
正清はその視線と言葉に戸惑う。
「恋……ですか。では、何故私ではいけないのですか」
「渉くんと貴方は違うから。そう、貴方は違うわ。渉くんと同じようなこと出来っこない。貴方も僕と同じ。瑠璃子に嫌われないための仮面をつけているわ。そう、僕たち、似たもの同士なのよ」
正清は怒りに打ち震える。
「貴女に何が分かるんですか」
それは恋に敗北した男の悲痛な叫びであった。
「それでも、俺は瑠璃子さんを愛していた。そう、五年も前から。相応しい男になろうとそれなりに努力してきたつもりだ。でも、何で……何でこんな」
正清の頬を涙が伝う。その涙を拭うのはふみであった。
「まぁ、振られるときは振られるものよ。諦めなさい。ねぇ、それより、私貴方と取引があるの」
「なんですか」
少女の姿をした悪魔は正清の耳元で囁く。
「僕と結婚しないかい。僕は曲がりなりにも瑠璃子のお姉さまだ。僕がいれば恋に敗れた哀れな君は瑠璃子を傍では無理だけど……定期的には見れるわ。瑠璃子のこれからをずっとずっと唯一の親友の旦那様として見てられる。それに僕もそろそろ結婚しないと親が煩くて。僕と契約しないかい」
「契約ですか」
「お互いにお互いを隠さないで接する。貴方のその仮面、剥ぎ取ってあげる」
少女は哀れな青年の帽子をそっととる。青年はもう、泣いてはいなかった。
「貴女……変わってらっしゃいますね。私は瑠璃子さんを愛しております。貴女を愛しておりません。愛なき結婚になりますが、よろしいのですか」
「構わないわ。僕、面食いだから。でも誓いの接吻とかそれなりの待遇は求めるわよ。それでもいいの」
正清は不意に少女の唇を奪う。少女は驚いたように鳶色の瞳を丸くする。それは荒々しい口付けであった。正清は長い長い時が流れたように思えた。
「契約成立ですね。よろしくお願いします。名前が分からない小西のお嬢様」
少女は少し恥じらいながら応える。
「ふみよ。よろしく、正清」
満点の星空の下、悪魔と青年は永久の誓いをたてる。それはふみと正清の長い長い結婚生活の始まりであった。
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