行方不明の「婚約者」

 そう、その言葉は結城氏にとってほんの戯れのつもりであった。

「石田くん、瑠璃子との婚約を了承してくれてありがとう。まだ結納とかの儀式については考えていないけれど、私が結婚したのはほんの二十年前だが……亡き妻と結婚の約束をしたときに指輪を贈ったんだ。君にもぜひ瑠璃子に何か贈り物をしてやってほしいな。勿論、資金が無いことは承知している。お金のかからないものでも君が真心を込めて贈ったものなら、瑠璃子も喜ぶだろう。どうか、よろしく頼むよ」

 その言葉を聞いた瑠璃子の婚約者、渉はコーヒーのカップを卓上に置く。結城氏は、愛娘の心と自分の野望を奪った渉を認めてはいなかった。もちろん、彼の学識などそのような面は認めていたが。どうせ花か何かでも持ってくるのであろうと結城氏は思っていた。

 しかし、そのやりとりをした翌日から音沙汰もなく娘の婚約者は姿を消した。どうせ、瑠璃子の好きな贈り物が思いつかなくて逃げたのだろうと結城氏は当初考えていた。そうだ、それこそ結城氏が考えていたシナリオの一部であった。一つは花を持ってくる。もう一つは思いつかず、逃げる。瑠璃子が幻滅したところで、他のいい事業家とのお見合いを勧める。おそらく、花もなにも持ってこないということは、逃げたのだろう。さて、新たな縁談の準備を進めようか、と結城氏は執務室で考えていた。小さな扉を叩く音が聞こえる。「入れ」結城氏はすこしだけ上機嫌に言う。部屋の中に入ってきたのは自分の子供たちであった。

「お父様、失礼します。渉さんから何も連絡がありませんが、お父様は何かご存知ですか」

「ああ、何も知らないよ。石田くんったらどこに行ったのだろうね」

「父様、先生の長屋は行ってみたのですか。干からびて死んでいたらどうするのですか」

「ハハ……彼はそんな青年ではないよ。瑠璃子も秀臣も心配しすぎだ」

「でもお父様、私心当たりがあって、その……渉さんに好きなものを問われたんです。私、お父様に頂く綺麗な石や読書が好きって申し上げたのです。まさか、それでお金を得るため身を売られたのでは」

 瑠璃子の言う、綺麗な石とは勿論結城氏が海外との貿易渡世で得た金銭で得た宝石のことだ。勿論渉に手に入れる術はないだろうし肉体労働が出来ない貧乏学者先生だ。きっとそこまでする勇気はないであろう。おまけに瑠璃子が好きな本というのは、洋書か日本の小説のことだ。

「私、渉さんの長屋に行ってみます。お父様。住所を教えて下さいませ」

「イヤ、その必要はないよ。おそらく、石田くんは何かしらの事情でお前に合わせる顔がなくて逃げたのだよ」

 それに異を唱えたのは少年であった。

「父様、父様といえど、先生を貶すのはそこまでにして下さい。姉様がそこまで仰るなら、僕が先生の長屋に伺います」

「分かった。分かったよ秀臣。お前までそういうなら、私が石田くんの長屋へ様子を見に行こう。それでいいね」

 そうして、漆黒の車に乗り、娘の婚約者の長屋へ向かう。車が加速するたび、砂埃が巻き上がる。結城氏は手に持ったステッキを弄ぶ。やがて、長屋が数多く並ぶ場所についた。結城氏はその中で一番ボロボロの長屋の前に車を停めさせる。近くで大家と思わしきお婆さんが掃き掃除をしている・

「もし、石田さんは御在宅かな」

「アア……学者先生なら外出中だよ。ずっとずっとね……かれこれもう一週間は帰ってきてないね」

 お婆さんはモゴモゴと口を動かしながらしゃべる。

「どこに行くかとか聞いてはおりませんか」

「イヤ、知らないね……そういえば、自転車で出かけていったからずっと遠くに行ったのぢゃないかい」

 そういうと、お婆さんは掃き掃除に戻った。まさか、本当に娘に贈り物をするためにどこか遠くに行って野垂れ死にをしているのではないか。あんな軽はずみは一言のため、彼は命をかけて遠くに何かをしに出かけたのか。結城氏は感動するとともに、唐突に不安になった。家に帰るとすぐに、彼は電話をした。『福島珈琲店』で知り合った探偵の事務所にだ。彼は渉と友人であった筈だ。

「アア…結城です…ご無沙汰してます…実は石田くんの行方を捜しているのだが…えっ何、宝石の原石を探しに行った……」

 結城氏は誠実な娘の婚約者に対し、非常に心苦しくなってきた。それと同時に逃げた、と思った自分を恥じた。その時、瑠璃子がノックもせず、部屋に入ってきた。

「瑠璃子、やはり警察に行こう。何か事件に巻き込まれたのではないか。石田くんに何かあったら……申し訳ない」

「お父様、いったいどうされたのですか。確かに警察をお呼びした方がよいと思いますけど、何をそんなに取り乱しているのですか。たしかに渉さんに何かあったら私、私……」

 そんな会話をしていると、呼び鈴がなった。二人が玄関に向かうと泥まみれの渉が立っていた。結城氏が安堵していると、瑠璃子が渉に抱き着いた。この誠実な青年には頭が下がると結城氏は思った。

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