縁談

 石田渉は結城氏の子息、結城秀臣の家庭教師をしていた。結城秀臣は渉から見ると見た目と資産状況以外は自分の幼少期に似た子供であると認識していた。なぜなら秀臣も世間一般から見たら常識外れの子供であったからである。尋常小学校に通う彼は、大人でも難しい『資本論』を読み、古典文学を何よりも愛していた。そんな秀臣は家族の中で姉を一番愛していた。姉が秀臣の家業を継ぐ意思を示した自分を何よりも理解してくれる理解者であったからである。また、石田渉という人間をこよなく尊敬していた。奇異の目で見ないばかりではなく、ひとりの人間として扱ってくれ、話題もよくあう大人であったからである。

 そんなとある日のことである。紅茶の湯気がゆらゆらと立ち上る中、二人は家庭教師という名の他愛もないおしゃべりをしていた。

「難しいな、マルクスのいうことは」

「坊ちゃま、学問の道に王道なし、とマルクスも説いています。何度も何度も読み返し、自分なりの回答を見つけることが泥臭いですが、学問ってやつです」

「その坊ちゃまっていうのやめてよ。秀臣って呼んでくれるかな、先生」

「ハハ……一応家庭教師に来てる身分ですから」

「僕は先生を尊敬しているんだ。そんなに遜る必要はないよ」

「これが性根ですから」

 渉はセルロイドの眼鏡を服のすそで拭く。このときばかりは年相応の子供のように頬を膨らませる。渉はこの少年の素直なところをとても好ましく思っていた。扉から叩く音が聞こえた。

「イヤ、私だ。入ってもよろしいかな」

「父様。どうぞ」

 ドアノブがゆっくりと回り、結城氏が入ってきた。結城氏は微笑をたたえ、封筒を小脇に抱えている。

「父様いかがなされましたか」

「アア……お前でなく、石田くんに用事があってね」

「俺、ですか。一体何のようでしょうか」

「イヤ、なに。縁談を君に、と思ってね」

 結城氏は白い封筒から写真と一枚の紙を取り出した。渉はその写真と紙を受け取る。それを秀臣がのぞき込む。写真には椅子に腰かけた、鼻筋の高くすらっとした女性が写っていた。秀臣が声を上げる。

「この写真、姉さまじゃないですか」

 秀臣は慌てて一枚の紙を渉から取り上げる。

「結城瑠璃子、十七歳、聖山手女学園在籍……父様どのようなおつもりですか。姉様は結婚をしたくない、と仰っていたではありませんか。それに姉様は職業婦人になって僕を助けてくれるって約束してくれました」

「秀臣は黙っていなさい。どうだ、受けてくれるか」

 渉は事も無しげに写真を返し、指をくるくると回す。

「お断りします。俺はもう、三十路で先も長くない。その上貧乏だし、出世の見込みはまずない。そんなところにお嬢様をやるなんてとちくるっているとしか思えませんし、聡明な旦那様ならもっといい縁談を持ってくるでしょう」

 結城氏は息をのんだ。秀臣は脹れっ面で渉に同調する。

「僕もそうだと思います。僕個人としては兄様になるのであれば他の男よりも先生が良いです。しかし、失礼ながら先生のご家庭の事情もありますでしょうに、お父様が呆けたとしか思えません」

「とにかく、とにかくだ。一度娘と会って欲しい。頼む、もう君しか頼めないんだ。あの娘は、縁談を蹴りすぎてもう後がないんだ。最後に一度結婚させられる機会が欲しいんだ」

「結婚がお嬢様にとって果たして幸せなのでしょうか。お坊ちゃまとお約束されているそうですし、生きていく上にも困りますまい。好きなことをさせてあげればよろしいのでは」

「君、娘を持つ親の心情がわからないのも当然か……」

「エエ……残念ながら」

「そうか、すまなかったね」

 結城氏は当てが外れたのか、がっくりと肩を落とした。純粋な秀臣はそんな父が何だか可哀想に思えてきた。

「先生、姉に一目だけでも会ってもらえないですか」

「坊ちゃままで……何を仰るのです」

「僕言ったよね、先生。『他の男が兄になるくらいなら先生がいい』って。僕からのお願い。僕、先生以外が兄になるのは嫌です。僕からもお願いします」

 渉は困りはてた。自分はもう独身で生きていく覚悟が出来ていた。それが今、猛烈に揺らいでいる。しかし、こんなところで育ったお嬢様をもらう訳にはいかなかいと渉は思った。

「そんなに言うなら、会うだけ……会うだけですよ」

「ありがとう、石田くん。では、今から仲人さんを呼んだりするから席を外すぞ。また日程調整をして君にお知らせしよう」

「イエ、いろいろすみません」

 この時、運命の歯車は噛み合い、音を立てて動き始めたのである。しかし、渉は封筒に何枚か紙と写真が入っていたのを見ていた。このときにはすでに自分が当て馬であることを悟っていたのである。

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