結城氏との出会い

 石田渉は飢えていた。仕事も無ければ、米も無く、今日生きていく日銭など諸々のものに飢えていた。質屋に物を持っていこうとも、まずお金になるものがなかったのである。仕方なしに、いつも行く純喫茶『福島珈琲店』で皿洗いでもして、その日の食事にありつこうと思ったのである。赤錆びた自転車にまたがる。運転を始めるが思いのほかペダルを踏みこむのに力がいるようで、空腹の彼にはかなり辛い道程であった。自転車を漕いでいると一人の身なりの良い紳士が道端で何か探し物をしているのが見えた。空腹で急いでいる彼は無視をしようとも思ったが、通り過ぎ様に見えた困った顔に思わず足を止める。

「いかがしましたか」

 紳士は困ったように汗を拭う。

「イヤ…大切なものを失くしたようなんだ……」

「大切なものですか」

「ああ、昔妻にもらった指輪だよ。首から下げていたのだが、何かに引っかかって落ちてしまったらしい。それで歩いた区間を探して回っているのだ。」

 指輪。なんとハイカラなものであろう。渉は大学の友人が結婚するときに妻に指輪を贈った話を思い出す。確か彼は月給の三倍は出したらしい。そんなに高価で小なものを落とすとは、この紳士は何と不運なことであろうか。渉は自分の空腹をも忘れて思わず「俺も探します」と叫ぶように言った。紳士は驚いたように「ありがとう」と告げた。絣の着物を着た男と洋装の紳士の奇妙な二人組は二時間ほど道を血眼になって探していた。

「ところでこのあたりにはどうしていらしたのですか」

「ああ、福島珈琲店に向かっていたのだよ」

 渉は視線を紳士に向けた。紳士は何事かといわんばかりに渉の方を見る。

「オヤ、奇遇ですね。俺もよくいきますよ」

「おやそうかい。それは奇遇だね」

「案外、珈琲屋にあったりする場合ってありますよね」

「それは盲点だった。君、ちょっと珈琲屋に行ってみようじゃないか」

 現地点から『福島珈琲店』までは歩いてすぐのところにある。二人は地面に目を落としながら黙って珈琲店に向かっていた。黙々と進んでいると茶色いレンガ造りの洒落た建物が見えてくる。窓には蔦が絡んでおり、風情を感じさせるものがある。ここが件の『福島珈琲店』だ。紳士はドアを焦ったように開ける。ドアに付いた小さな鈴が軽やかな音を奏でた。主人は厨房で珈琲を煮だしているところであった。

「ごきげんよう。結城さんに……オヤ、石田さん。珍しい組み合わせだ」

「御主人、小さな指輪をお見掛けしませんでしたか」

「ああ……ちょっとお待ちくださいね」

 そう言って主人は小さな籠を開けた。千切れた鎖のようなものと小さな白金製の指輪を主人はつまんで「これですか」と紳士に見せる。紳士は感嘆の声を上げる。

「ああ、それだよ。ありがとう。それに君、石田くんと言ったね。君の一言が無ければしばらく私はここに気づかなかったかもしれない。コーヒーとサンドウィッチでもごちそうしようじゃないか」

「ありがとうございます。エット」

「すまない自己紹介がまだだったね。これが名刺だ」

 そういうと紳士は懐から名刺を出す。名刺には『ユウキ株式会社 社長 結城秀一』と書かれていた。渉は驚いた。確かに指輪などというハイカラなものを持っている男はよほどの金持ちであろうとは思っていたが。

「すみません頂戴します。結城の旦那様」

「普通に呼び給え。結城さんで構わないよ」

 コーヒーとサンドウィッチが運ばれてくる。渉は思わず生唾を飲み込む。結城氏は苦笑している。

「君、相当飢えているようだね」

「ハイ。お恥ずかしい話、仕事が無くて……」

「君は労働者かい。先の大戦で仕事が無くてあぶれてしまったのかい」

「イエ……。学者をしていまして」

「学者か……御用学者以外にも学者はいるんだね」

「一応、大学は卒業しましたが、先生からは自力で生きてみよ。生の生活を味わえと云いつけられたものですから。本当に困ったときは先生に頼りますがそれ以外は自力でなんとか」

「ウーン……学者にもいろいろあるんだね。科学者かい」

「イエ。歴史学です」

「歴史学か……」

「あ、くれぐれも誤解なきよう。私、社会主義とかそういう方々とはお付き合いありませんから。貧乏ですが、あそこまで資本社会を悪とはとらえられませんし、個々の生き方があると思うので」

 結城氏は鳩が豆鉄砲を食らったかのように一瞬きょとんとする。そのあと大きな声で体をゆすりながら笑い始めた。

「君、君はよほど変わり種なんだろうね。よい、気に入った。君、うちに男の子がいるんだ。十歳だが、大層賢い子でね。変わり者に家庭教師になってもらいたいと思っていたところなんだ。君さえよければ、うちに来ないか……」

「俺なんかでよろしいのですか。ではぜひお願いします」

 机では、変わり者と紳士の縁を結んだ指輪が輝きを放っていた。

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