パントマイム

@araki

第1話

 テーブルに差し出された一枚の紙。それを見た瞬間、私は凍り付いた。

 ――どうして?

 それが脳裏に浮かんだ最初の言葉だった。なぜこんな状況に立たされているのだろう。ここまで完璧な振る舞いだったはずだ。望まれた通りに付き合って、挙式して、そして一昨日、新婚旅行をこなして帰国したばかり。

 やっと一息つける、そう安堵していたのに。どうして私は、

「早くサインを」

 離婚届の記入を迫られているのだろう。

 向かいの男はこちらの困惑を気にする素振りもなく、手元の文庫に視線を落としている。まるで目の前のことは些末事と言わんばかりの様子だった。

 私は一度、書類を確認する。夫の欄には『笹田 健吾』という名前と住所、丁寧に押し印までされている。書式も整っていて、偽造書類の類には見えない。やはり、私は本気で離婚を申し入れられているらしい。

「なぜ? 私、何かお気に障ることでもしましたか?」

 尋ねるも、正直に言って全く心当たりがない。

 今までずっと、できる限りの配慮をしてきた。今日の外出だって、事前に向こうの両親へ聞き込みをして彼の好みを把握、完璧な計画を立てた。昼は高級フレンチ、映画はラブロマンス、という具合に。

 けれど、健吾にはその悉くを無視された。

『あの拉麺屋に入りましょう』

『ホラーものだそうです。こちらの方が楽しめるのでは?』

 という風に私の提案は紙風船のごとく飛ばされ、そこらの高校生がするようなデートに大して変わらなくなってしまった。

 今だって、安っぽいファミレスの店内、テーブル脇に空になったパフェの器が二つ置かれている。仕入れた情報が全て間違っていたのだろうか。だとしたらとんだ親だ。

 ――私はまあどれも楽しめたけど……。

 そんなことはどうでもいい。大事なのは向こうを満足させること。だというのに、私は目的を全く達成できていない。だからこれから巻き返そう、そう思っていた矢先にこれだ。本当に嫌になる。

 健吾はテーブルのカップを手に取ると、口を付ける。それから静かに首を横に振った。

「いいえ、奏さんには何一つ落ち度はありません。これは婚姻前から決めていたことですので」

「え?」

 私は耳を疑う。けれど、対する彼は至って平然としていた。

「これは我々の親がお膳立てした婚姻です。そんなものに縛られるのは馬鹿らしいではありませんか」

「そうかもしれませんが……」

 確かに、この結婚は互いの両親がビジネス交渉の一環で計画したことだ。二つの企業の結びつきを強固にして更なる発展を。そんな目的を前に、私たち二人の意志は完全に蚊帳の外だった。けれど、

 ――そっちとこっちじゃ事情が違うんだって。

 健吾の親は大企業の会長で、基本的にこちらへ資金を援助する立場だ。片や、私の親は中小企業の社長。技術援助という名目はあるも、実際は大企業の資金にすがる立場だった。つまり、この婚姻が解消された時、大きな損失を受けるのはこちら側なのだ。

 それに、私にとっての大きな問題は別にある。

「お願いです。どうか考え直してください」

「ご安心を。婚姻解消後も融資を続けるように父を説得しますので」

「それでも困ります」

「なぜ? あなたも無理強いされた結婚など願い下げでしょうに」

「………」

 私はすぐには答えられない。

 短くない躊躇いの後、言葉を返した。

「両親の期待を背負ってるんです。嫁いだ先で袖にされたなんて知られたら……」

 その先を言えず、私は顔を俯かせてしまう。

 彼らにとって、私は本当の娘ではない。余所から拾ってきた資産だった。

『うちの子になりなさい。人生を保証してあげましょう』

 そう言って、今の母親は私に手を差し伸べた。高飛車で傲慢。気持ちの良い人間でないことはすぐに察せられた。

 けれど、私は彼女の手を取った。この機会を逃せば、寂れた孤児院で一生を終えることになる。その恐怖があらゆるものを置き去りにした。

 そこに例外はない。だから、あの子のことだって。

『行っちゃうの?』

 旅立つ日に見た、あの心細げな顔。引っ込み思案で、いつも後ろをついて回っていた彼は弟のような存在だった。その彼さえ、些細な品を手切れに渡して、見捨てた。

 健吾の小さなため息が耳につく。

「なるほど、体裁ですか」

 顔は上げられない。どうせ彼は蔑んだ目を私に向けているのだろう。

 『ハザマ工業』の令嬢になった私はそれまでを全て捨て、立場に相応しい振る舞いを身につけた。容姿、言葉遣い、仕草まで。ありとあらゆる要素を今に合わせるように努めてきた。

 そうあることが私の幸福に繋がる、そう信じていたから。だというのに。

「でしたら書類上に留めておきましょうか。公には婚姻していることにすれば、余計な波風が立つことはないはずです」

 健吾の提案に、私はすぐに言葉を返せない。そんなことを相手に口にさせる自分に嫌気が差す。

 ――なんでこんな惨めなんだろう。

 孤児院のみすぼらしかったあの頃。あの生活と決別したい一心で今の居場所を手に入れた。だというのに、今の私は言いようのない息苦しさを感じていた。

「一方的な話で申し訳ない。ただ、これが互いにとって最良の選択だと思うのです」

「そう、ですか」

 口から漏れるのはどっちつかず生返事。頭の中ではどうしても言葉が巡る。

 ――もっと軽やかに生きられると思ったのに。

 そんなことを考えてしまう私は、どうしようもなく愚かなのだろう。私は私自身に失望していた。

 がたり、と座椅子が揺れる。見れば、健吾が文庫を片手に立ち上がっていた。

「しばらく席を外します。一度考えてみてください」

 そう言うと、胸ポケットから一枚の栞を取り出す。

 それが目に入った時、私は奇妙な感覚を覚えた。

 ――あれ。

 古びた栞。持ち手のリボンにほつれが目立つそれは手作りらしく、本体にはカスミソウの花弁が押し花としてあしらわれている。

 どうして彼が持っているのだろう。だってそれはあの時――。

「……太一?」

 私は無意識にその名を口にした。

 途端、健吾がこちらを振り返る。戦慄した表情を浮かべていた。

 しばらくの間、健吾は凍り付いたように固まっていた。やがて彼は、どさりと座席に腰を下ろした。

「最後の最後で凡なミスをしてしまいましたね。まあ、今まで隠し通せたことを喜ぶべきでしょうか」

 健吾は小さく肩をすくめる。まさか、そんな。目の前にいる彼は自律した一人の男性で、あのおどおどした様子は微塵も感じられない。それに、

「でも名前……」

「養子縁組の際、改名を命じられたんです。不吉だなんだと言われて」

 どうせそちらも似た事情でしょう? と健吾、いや太一は苦笑を漏らす。ずっと一緒にいて初めて見た笑み。かすかに見せたそのえくぼに、どことなく懐かしさを覚えた。

 私は少し安心する。それから気軽な調子で声をかけた。

「気づいてたなら、教えてくれたって――」

「できるわけないじゃないですか、そんなこと」

 ぴしゃりと言われ、私は思わず首を竦める。ちらりと向こうを窺えば、太一は気まずそうに余所を見ていた。

「あれからもう一〇年です。それぞれ背負う立場がある。同じように接することなど、できるわけがありません」

 苦渋の表情を覗かせる太一。私と同じように彼も色々なしがらみを強いられてきたのだろうか。そして今も、そこから抜け出せないでいる。

 だとしたら、不思議に思うことがある。

「……なら、どうして離婚なんて言い出したんですか? 縁談を無下にしたって知られたら、そちらの両親の心象だって悪くなるのに」

 太一の答えはすぐには返ってこない。

 長い沈黙の後、彼は答えた。

「私といる時、あなたは一度も本当の笑顔を見せなかった」

 私は瞠目する。冷や水をかけられた気分だった。

「見せるのは相槌代わりの薄笑いばかり。そんな風に旧友に無理を強いてまで、親の機嫌を窺いたくはありませんよ」

「………」

 ショックだった。

 確かに無理はしていた。けれど、傍からはそれを完璧に隠せていると思っていたのに。

 ――そこまで薄っぺらだったの?

 吹けば飛ぶ紙風船。一〇年かけて身につけた私はその程度だったのだろうか。 

 信じたくない。まだ信じていたい。でも――だとしたら。

「……あはははは!」

 私は思いきり笑い声を上げた。息が続く限り続ける。全てを一度吐き出したかった。

 太一はぎょっとした顔でこちらを見ている。店内もざわついているが、気にしない。私は今、笑いたいのだ。それだけで充分に思えた。

 やがて息が苦しくなって、私は大きく深呼吸する。そして、

「よし」

 私はテーブル上の離婚届を引っ掴む。それからさっさと自分の欄を『狭間 奏』と埋めた。

「……えっと、それじゃこれで――」

 困惑した様子の太一は、おずおずと用紙に手を伸ばす。

 私はその彼の手を掴む。そして、立ち上がる勢いで彼を身体ごと引き上げた。

「え?」

 虚を突かれた顔を見せる太一。そんな彼に構わず、私は言った。

「さっ、行くよ」

「行くって……どこへ?」

「決まってるじゃん。役所だよ」

 意気揚々と私は答えた。

 それから、周りの席へ深々と頭を下げた後、太一を連れて店の出口へ向かう。

 気づけば言葉遣いがお互い崩れていたが、特に気にならなかった。


 役所に着くと、私はすぐに離婚届を提出した。そして、代わりに別の書類をもらう。その紙を太一に差し出した。

「さっ、書いて」

「これって――」

「婚姻届。それと、とりあえず戸籍謄本」

「………」

 太一はぽかんと口を開けていて、すぐに受け取ろうとしない。

 仕方ないので、私は先に自分の欄を記入した。


『狭間 夏奏』


 うん。やはり、こちらの方がしっくりくる。

「これで気兼ねなく過ごせるわ」

 私は大きく伸びをする。太一は今も呆然としている。その様は昔を思い出して、なんだかおかしかった。

「でも、これじゃ君の状況は変わらないままで――」

「いいの」

 私は太一の口元に人差し指を当てる。続けて、私は言った。

「家の事情なんて、私が使いこなせばいいんだし。重荷だからって笑っちゃいけない理由はないでしょ?」

 私の言葉に、太一は一瞬驚いた顔を見せる。そして、破顔した。

「そっか」

 そう漏らすと、太一は書類を記入し始める。ちらりと覗く。そこには『笹田 太一』の文字が記されていた。

「で、これからどうするの?」

「あんたのとこにあげる予定の工場があるじゃない」

「ああ、僕が運営を任される予定だったやつね」

「とりあえずそこ、自由に使わせて」

「は?」

 太一が手を止めてこちらを見る。私は構わず続けた。

「うちのやり方ってちょっと人を酷使しすぎなのよね。伝統技術って無闇に人手を使えばいいって話じゃないと思うの。だから、オートメーションできそうなとこは片っ端から機械にお任せしてみようかなって」

「つまり、その実験場が欲しいってこと?」

「そういうこと」

「……監督役は必須だね」

 「後先考えてよ?」という太一の念押しに「任せて」と私は胸を叩く。

 やりたいことが頭の中で膨らむ。これから忙しくなる、その予感が今の私の全てだった。

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