第6話「理由と目的」

 前列左端は特に気に入りの席だ。

 片脇にしか客がいないため、他人の空気の混在を最小限におさえることができる。これは、一般的な席取りセオリーと同じだ。後方からの存在の認知は慣れればどうということはなかった。


 ハムチーズフォッカチオをかじりながら、正面の奥へと視線を動かす。奥は厨房になっており、常に二、三名のスタッフが出来上がったパンを売り場に運ぶために出たり入ったりしている。


 そこに、彼女の姿はなかった。

 

 彼女は、理由であり目的だった。

 私がこれほどまでにポジション取りに精を出すのも前列にこだわるのも、また、パンもドリンクも好みに合わないこのベーカリーチェーンに足しげく通うのも、彼女をひと目でも見んとするためだ。その目的はナンパでもなければ、世間話をすることでもない。癒やしを得ることだ。

 ひと言で表すならば佳人だ。店内で出色しゅっしょくたることはもちろん、女というカテゴリー全体でみたとしても上位にくるであろう美を備えている。むろん自分程度の人間では、仮に日常のどこかで出会っていたとしてもはなも引っかけられまい。あくまで観賞に終始することがふさわしく、身の丈に合った賞翫しょうがん方法である。店員と客という、明確かつ侵食不能な立場の差異のあることを幸福に思った。


 厨房を出入りするスタッフは、四十前後の太った女と、それよりはいくらか若そうな女のみ。後者はそこそこの外見で、接客態度も店内では良い部類であるものの、あらゆる面において彼女とは比ぶべくもなく、理由や目的にはなり得ない。

 これまでの傾向からすれば、幸福の発生確率は六割程度。つまり、週五日のうち三日ほど眼福がんぷくにあずかれる可能性がある。それが叶わなかったからといって、いちいち愁色しゅうしょくを浮かべるなどばかばかしいことだ。明日にも明後日にもチャンスがあるのだから。


 私は、しかし涕涙ているいする感覚に陥った。アイスカフェオレをストローで摂取しながらも、その液は胸中で雫へと濾過ろかされ、体外に放出されているように思えた。嘆息さえ忘れていた。二週続けての中年店員による浅慮せんりょな対応と、加えて月曜日の朝という重圧により、私の心はしなびてしまった。あと一時間にまで迫ったパンデミック拡散レースにえりを正して加わるために、僅かばかりの医鬱排悶いうつはいもんがどれだけの栄養素となるだろう。時折お手拭きで手を湿らせながら、機械的に朝食を進めた。


 後列右端の支配者が席を立った。


 私の横を通り、トイレへと姿を消す。ほどなくして、天井付近に男性用トイレの標識の青いマークが点灯した。

 八時十五分。いつもそうだ。あのサラリイマンは、決まってこの時間帯に用を足すのだ。所要時間は五分から十分といったところか。なんの興味も感慨もないそのルーティーンは、いつしか私の記憶に刻まれていた。あきれるほどに規則正しい彼の腸の働きが、私の索漠感に拍車をかける。

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