第3話 梅雨の夜

あの男に会ったのは、桜が散り、芽吹いた青々とした新芽にしとしとと雨が降り続く、そんなジメジメして鬱陶しい季節だった。


母親とそりが合わず、家に帰りたくなかった私は、透明のビニール傘を差して、夜の繁華街をふらついていた。降り続く雨がうっとおしく、人が多いこの場所では、傘がひどく邪魔だ。

この時間に制服姿はよく目立っただろうが、人々がさす傘が、人の視界を狭くさせていた。

誰に声をかけられるでもなく目的なく歩いてゆく。

そもそも私は、今日の寝床を探していた。誰か拾ってくれないだろうかなんて気軽に考えていた。

誰でもいいわけじゃないけれど…家に帰ってあの女に会うよりはマシだ。そんなことを考えながらある歩いていて、ふと、目先にあるコンビニの方へ視線をやった。吸い寄せられたと言ってもいい。

そのコンビニの入り口の横で男がタバコを吸っていた。火をつけた時の伏せた瞼、落ちてきた睫毛、タバコを咥え煙を吸い込み、吐き出す、その一連の仕草がやたら様になっていて、傘をさしたまま馬鹿みたいに立ち尽くして私はみていた。その姿は気怠げで、なんとも言えない退廃的な雰囲気を醸し出していて。

少し哀しく、それでいて意志の強そうな鋭い眸が、吐き出した煙りにつられるように上を向く。


ほとんど無意識に私は男に向かって歩き出していた。コンビニの前まで行くと私に反応して自動ドアが開く。中から有線の今流行りの音楽が流れ、いらっしゃいませー、といかにも業務的な声が響いた。

それを横切り私は男の前に立った。

今から思うと、あの男に向かってよくそんな勇気があったものだと、自分自身に感心すらする。

とにかく私はあの時、どうしても、あの男に声を掛けずにはいられなかったのだ。


「ねぇ。」


男はこちらを見ない。

タバコを咥えて黙ったままの、無表情の横顔。


「今日私を買ってくれない?」


声の掛け方なんて知らない。

ただ本心でそう言っていた。

この人でいい。

もし買われるならこの人がいい。


男はちらりと目だけをこちらに向けて、煙を吐き出し、面倒くさそうにタバコの火を消した。

暖かくもなく、冷たくもない視線でこちらを暫くじっとみて、黙って踵を返して傘をさし、歩き出していく。


「ちょ、ねぇ、待って。」



傘の下からちらりと私を見てまた歩き出す。歩いているだけに見えるのに、その足はとても早く、小走りで私は男を追いかけた。

どうして追いかけたのか。

今日の寝床のため。いや、もっと単純に吸い寄せられるように、男を追っていった。何も言わない、けれど拒んでいる訳でもなさそうな、そんな気がして、足早に歩く男の後を追う。

繁華街から出て少し、小さな川が流れるその横にある、小さなアパートの階段を男は傘を畳み登っていった。

少し息を切らしながら傘を畳み、男を追いかけて階段を登る。二階の突き当たりの部屋に鍵をさしこみ、扉を開けた男はこちらを振り向き、立ち尽くした私を、温度のない目で見て、そして、

「入れよ。」

そう言って中へと消えていった。


私はどきまぎした胸を押さえ、一度閉まった扉をかちゃりと開けた。私は本当に馬鹿なんだろう。知らない男の部屋にのこのこと上がって、どうなるかなんて分からないのに。でもどうしてか、怖い予感や嫌な感じは全くなかった。

ただ、扉を開けると、きっとこれから私の中の何かが変わっていくであろう、そんな予感が、した。


その予感は大きく当たることになる。


私は変わった。いいか悪いかはもうわからない。

けれどもあの時、導かれるように、吸い込まれるようについて行ったその先を、私は見ずにはいられなかったのだ。

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