第2話 

もうすぐ春が終わる。




午後少し前。うららかな陽気、暖かく穏やかな空気は休日でオフになった頭をさらにぼんやりとさせる。

彼との待ち合わせによく使うこの喫茶店のテラスでひとり、少し苦めのコーヒーを啜り、ほぅと小さく息を吐いた。今日はここで2人お茶をするわけではなく、忙しくてなかなか会えなかった埋め合わせにと、レストランに食事に行くのだ。


彼はいつも優しい。


今日も会えば必ず会いたかったと言うのだろう。

ランチは少し高めのイタリアンで美味しいご飯を食べ、そしてちょっといいワインを2人で飲むのだろう。私が行きたいといっていた美術館に行き、近くのお洒落なカフェに入り甘めのコーヒーを飲んで、ゆっくり彼の家に帰るのだろう。そして私の作った夜ご飯を2人で食べて、彼は必ず、美味しいよと微笑むのだ。


コーヒーの苦さが口内に広がる。


彼との日々は穏やかだ。


テラスには柔らかな陽が射し込み、外気の冷たさを緩和している。この季節にしては暖かな空気に眠気を誘われて、微睡みそうになっていた私は、そういえば最近ぼんやりとすることが多いなと、途切れそうな思考の中でそう思う。昔はもっと…。

そこまで考えて、何故か薬指の指輪がずしりと重く締め付けられるような心地になって、思考を振り切るように私はふるりとかぶりを振った。


待ち合わせの時間まであと少し。


ゆっくりずれてきた日差しが、ちょうど座っている席に差し込んで、その優しい日差しのまばゆさに目を細めた。

こんなに明るい世界の中で。

私だけがこの世界から切り離されているようだ。

私だけにこの綺麗な光の色がちゃんとみえていないみたいだ。

胸に燻るこのじりっとした痛みはどこからくるのか。



「あれ、ひなちゃん?」


どくり、と心臓がはねる。


待ち合わせの時間はもうすぐで、そろそろ私は席を立たなければならない。


「やっぱりひなちゃんだ、いや、大人っぽくなったね。」


驚いた顔をしつつも、こちらへにっこり笑う目の前の人にただ固まってしまって、声がうまく出ない。


「何年振りだったかな、おじさんくらいの歳になると、時間の感覚がわかんなくなっちゃうんだよ。」


嫌になるねぇ、と薄くなった頭を掻くいかにもおじさんみたいな仕草をし、照れたように明るく笑うその人に昔の記憶が重なる。記憶の中で、いつでもこのひとは明るく笑っていた。


はやく、早く席を立たなければ。

早く席を立って、お会計を終えて、もうすぐこの店の前まで来るであろう彼を待っていなければ。

はやく。


「ひなちゃん?」


なかなか声を出さない私に、首を傾げこちらをじっと見て、なにかを読み取ったように、目を細めて、慈しむような眼差しを向けた。


「ひなちゃん、久しぶりだね。」


「神田さん…」


恐る恐る口に出したわたしはどんな表情をしているのか、わたしにはわからなかった。


「お久し…ぶりです。」


そう言った私に神田さんはまた静かに微笑む。


「元気、そうで良かった。1人?なのかな?

今はこの辺りに住んでるの?」



いえ、待ち合わせをしていて…

今住んでいるのはここからは二つ先の駅で…


ぽつり、ぽつりとそう話すわたしの言葉を穏やかな表情で聞いていた神田さんは、ふと、テーブルの上に置いていた私の左手に気づいて、一瞬、ほんの一瞬、哀しそうな顔をして、またゆったり微笑んだ。


「もうすぐ、アイツが来るよ。」


息が、止まりそうになる。

心臓が、強く脈打つ。

鼓動が早まり、雑音が遠くなっていく。


待ち合わせしてるんだが、いつものごとく遅れてくるんだろうなぁ。


呆れたように話す神田さんはまたこちらに視線を向けた。


「でも、会わないほうが良さそうだね。」


視線が私の左手に、正確に言えば左手の薬指に光る指輪に向いた。


「結婚、したんだね。」


どうして、もう5年も経っているのに。


いえ、婚約中で…今、彼と待ち合わせをしていて…とても優しい人で…と聞かれてもいないことを言い訳のように口走る。


脈打つ鼓動はおさまらない。


ポケットのケータイ電話が震える。

すみません、時間なのでもう行きます。声をかけて頂いて、ありがとうございました。

なるべく丁寧にそう言って、ばさりと、頭を下げた。これ以上、顔を見られたくない。神田さんは、とても、とても聡い人なのだ。

そして、顔を上げ荷物を手に取り、席を離れようとした、その時、


「ひなちゃん。」


「   。」


ぐわんぐわんと耳鳴りがする。目の前から色が消える。


何かを探るように、しばらく私をじっと見つめた後、ふわりと微笑んで、じゃあ、と言って神田さんは、テラスの一番向こう側の席へ歩いていった。


耳鳴りがする。人々のざわめきが遠くなる。


なんとかお会計を済ませ、足早に入口のガラス扉へと向かう。


息が。

息がうまくできない。

おさまれ、おさまれ。


そう言い聞かせてガラス扉の向こうをみると、歩道の車道側の柵にもたれるように立っている彼が私に気づき手を挙げていた。その姿に少しほっとして、私もそれに答えて手を振ろうとした、その時。

歩道の左から来た人が左のガラス扉を開けた。


そのシルエットに、その匂いに、息が止まる。

雑音が遠のく。心臓の音がどくどくと聞こえてきそうなくらい、うるさく脈打つ。


その男は一瞬驚いた顔をして、すぐ、無表情に戻り、意志の強そうな鋭いその眼で、わたしをまっすぐ見た。その睨むような強い視線は、メドゥーサのように私の身体を硬直させ、それでいて身体中の血液が沸騰しているかのように熱くさせた。

いつかの日々、幾度となく向けられた、その奥に激しい熱を持つブレない視線。

そして固まって動けない私の、彼に手を振ろうと中途半端に挙げた方向をチラリと見て、もう一度私を見た。そして下ろしていたわたしの左手を、見た。


その目の前の全てが、私の目にスローモーションのように流れてゆく。

今、男の、考えていることが、はっきりと、分かる。


沸き立ったはずの、私の中からどんどん血の気がひいてゆく。


男はふっと、寂しそうな顔で笑った。


その次の瞬間には、もう私から視線を逸らし店の中へとすれ違い入っていった。


耳鳴りがする。音も色も遮断され、世界から切り離される。


店の向こうには彼がいてどうしたのかと、こちらへ近づいてくる。何か言っているようだがもう何も聞こえない。



ただ、

かつて私が制服に身を包み、幼いながら、愛する、という事を知った、その記憶が、一瞬にして鮮明に甦って。


そして私は思い知るのだ。


涙が一筋、すぅ、と流れ落ちる。


私は止まったままだった。17歳であったあの頃から、何一つ、そう何ひとつ。

1ミリたりとも私はそこから動いていなかった。



そして今、微かに残っていたかもしれない細い糸さえも私はこの手で断ち切ったのだ。


私と男はすれ違い、もうあの頃へは戻れない。



ひどい耳鳴りの中で、さっきの神田さんの台詞が蘇った。


ひなちゃん。


今、君は、幸せかい?






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