C7
雨音あゆり
第1話桜の香り
優しい言葉、薬指の婚約指輪、薄っぺらい愛。
かつて私が、嫌悪していたものの全てが、今この手の中にある。
きっと人生はこういうものなのだと、なんとなく思いはじめたのはいつだっただろう。
彼にプロポーズされた時だったろうか。
それとも彼から想いを打ち明けられた時?
もう忘れてしまった。
知り合いから紹介を受けた彼と何度目かの食事の帰り道、確か匂い立つ様な薄ピンク色の桜の花が満開だった小さな橋の上で、私に想いを打ち明けた。
わたしはそれをぼんやりと、どこか人ごとの様に聞いていた。
好きです。もしよかったら僕と付き合って下さい。
緊張した面持ちで彼は私をまっすぐ見て、そう言った。
私はなんと返したのかもう覚えていない。
ただ、その時風が吹いて、薄ピンクの花びらがひらひらと彼の周りを舞った。太陽の陽が桜の花の隙間を縫ってきらりと差し込み、ふわりと桜の葉の香りが匂い立つ。その光景が、なんだかとても綺麗だったことを覚えている。
そして、その日から私たちは付き合うようになった。
彼は優しい。
とても優しくて、過ぎてゆく時間は穏やかだ。
あぁ、幸せとはこういうものなのかなと、なんとなく思ったりする。
そして時々、猛烈に不安になる。
それが何なのか、どこからきているのか、私は未だに怖くて、その正体を知ることができずにいる。きっと知ってしまったら、わたしは息ができなくなるだろう。ただそれだけはどうしてかはっきりと分かった。
そして一ヶ月ちょっと前、少しお洒落な川沿いにあるレストランで、私は彼にプロポーズされた。
これからずっと大切にします。僕と結婚して下さい。
桜の木の下で私に告白したときの様に、彼はとても緊張した面持ちで、それでもまっすぐ私を見てそう言った。そしてそれを私はまた、人ごとの様に聞いていた。告白した時も、プロポーズの時もなんのひねりもない、ありきたりなまっすぐな台詞。これが彼の精一杯で。真面目すぎる彼はとても眩しくて。
はい、よろしくお願いします。と、
返した私に彼は安堵した顔をして、良かったと、もしかしたら本気で断られるかと思っていたと、そう言った。そして、よろしくお願いします、ともう一度私の方を見て人当たりの良さそうな顔を、ふわりと綻ばせた。
窓の外の川沿いには、満開の桜が夜闇の中、ライトアップの光に照らされて、ほの白く光っていた。
彼はとても優しい。
よくできた彼氏であり、きっとこれからは良き夫であり、良き父になるだろう。
そして私は度々訪れる、強い不安に気づかないふりをするのだ。
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