第17話 私は私に(黒羽)
「えっ……あっ……」
マーユは口をぽかんと開け、自分の頭上に視線を彷徨わせている。
アイララは、目をやや細めて、私をじっと見ている。
「君がなぜ、マーユのそばにずっといるのかは知らない。でも、君はもともと、大いなる水の獣の一部だった存在。いまや、あの御方の残した貴重な羽のひとひらだ。水人たるボクは君の仲間であり家族だよ。君の見てきたものを、ボクに教えてくれないか」
アイララは、すっと右手を前に出すと、手のひらを上に向けて開いた。
「もし教えてくれる気があるなら、ここに降りてきてくれ」
…………。
私はアイララから視点をはずし、空を見る。
そうだ。彼女に話しかけられた瞬間、思い出した。
暗い夜空を見ながら、私は風に舞う。
そうだ。私は、私という存在だった。
…………。
いつからだろう。私が私であることを、私は忘れていた。
ただ、マーユ・ドナテラと、その周囲にあるものを見るだけの眼になっていた。
私は……何者なのか。
私はなぜ、マーユ・ドナテラを見守る存在になったのか。
ドナテラ農園。ナドラバ。岩人ガジル。レドナドルの冬。マーユの弟。初等学校。ジュールとの再会。
マーユに関する記憶だけは鮮明に持っているのに、それ以外の記憶はほぼ全くないのは何故なのか。
私は……何者なのか。アイララは、答えを知っているのだろうか。
私は、アイララの手の上に静かに舞いおりた。
「……ありがとう」
アイララが囁く。手の指が閉じて、私を包み込むように握った。
「ああ……。こんなに傷ついてたなんてね……。苦労したんだね……」
私は、苦労したのだろうか。なにひとつ、私の中には記憶がない。
アイララの手の中はいつのまにか温かい水で満たされ、私はその中に浮かんでいる。小さな手のひらが、私を包む大きな隠れ家のようにも思えた。
「ほんとにいたんだ……」
マーユの声が聞こえた。
「マーユも、彼の存在は、なんとなく感じてたんだね。そう、彼はいたよ、君のそばにずっと」
アイララの声。
「今夜は、一晩彼を温めて回復させるから。もう寝てて」
「そばで見てたい。起きてるよ」
「フフ、そうしたいなら」
手の中の水の空間に、泡が生まれて私をつつく。私は、その力に押されてくるりと水中で回転する。
知らない感覚がやってくる。力が入らない。周囲がぼやける。
これが、眠いということか……。
私の意識は、ゆっくりと闇に閉ざされていった。
★☆★☆★
「彼の中に蓄えられていた記憶は、膨大すぎるし、ぼやけたものが多すぎる。うまく読み取れない部分も多くてね……」
半睡半醒の意識のなかで、アイララの声を聞いている。
「でも、いちばん大事なところはなんとなくわかった。簡単にいうと、彼は騙されて使われていたんだね。大精霊長を名乗っていた<最初の七>のひとり、グレド=アインに……」
マーユがそれに答えて何かを言う。しかし、うまく聞き取れない。
「……そうだね。地霊ルズラヴェルムも、そして岩人たちも、たぶん同じだった。彼らは、本来グレドの配下でもなんでもない。でもそういうふうに思い込ませる能力が、グレドにはあったんだろうね。……偽の秩序、偽の体制を作り、もともとそうだったかのように思いこませる力……」
白い羽。空中に飛び散る、無数の白い羽が思い浮かぶ。しかし、それ以上のことはうまく思い出せない。
「……最初の七は、みんな、周囲に強い影響を及ぼす力を持ってるんだ。たんに自分を強くする力じゃない、周囲を動かしてしまう力なんだよ。女神ノールは、ホルウォートを導くために彼らを……」
アイララの声がしだいに遠くなる。私の意識が、また薄れているのだ。
「……水の獣……」
最後に聞いたその言葉は私の心を弦のように震わせたが、それきり私は、底なし沼のような眠りの中に落ちていってしまった。
★☆★☆★
こうして私は、まるまる一晩、アイララに記憶を読み取られながら治療らしきものを受けた。
意識が回復したときは早朝だった。私はまだアイララの手の中にいたが、アイララ本人は焚き火のそばで倒れるように眠っていた。おそらく限界までマーユに私の記憶を語っていたのだろう。隣にはマーユが丸くなって寝ていた。結界石があるとはいえ不用心なことだ。
私はアイララの手を抜け出て、空中へ舞い上がる。こうして、意図して動くのはいつぶりなのだろうか。
朝日を受けて少しずつ赤らんでくるマドゥラス郊外の平原を、2人が起きてくるまでじっと見ていた。
もそもそと起きてきた2人の朝食は、なんとあの監禁部屋にあった焼きしめたパンだった。アイララが脱出時に持ってきたのだ。
「これでいいでしょ?」と言われたときのマーユの嫌な顔たるや、なかなかの見ものだった。
パサパサのパンを噛みながら、アイララは話し始める。
「リーカとあの子が探していたもの。リーカが襲われた理由。ダンデロン商会が狙っているもの。それが何か、羽くんの記憶から見当がついたよ。それはまた、グレド=アインが求め続けたものでもあるみたいだね。たぶんリーカは、そのありかを聞き出すためにさらわれたんだ」
「それは何?」マーユはパンをもそもそと咀嚼しながら聞き返す。
「リーカの調べによると、初代大公マードゥが岩人のルギャンの協力のもと隠したもの。岩人に返すために、300年も隠しつづけたもの。それはおそらく、このマードゥ混成国とザグ=アインを根こそぎ変えてしまうようなものだよ」
「……だから、それは何?」
マーユのせっかちな問いに、アイララは、静かな声で答える。
「<赤の円環>。このホルウォートに古くから眠る<3つの円環>のひとつ。<魔>を解き放つものさ」
「まを、ときはなつ……?」マーユは、幼児返りしたようなたどたどしい口調になった。
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※次の回でストックが終わるため、次次回の更新までに少し書き溜めの時間をいただきます。ご容赦ください。
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