第8話 指の火(黒羽)

 ノール暦327年5月4週の週末。

 エドラン工房を、ジュール、ララスとともに訪ねたマーユは、岩人の石職人リーカと出会った。そしてあれこれ交渉したすえ、結局、石の情報と引き換えに、リーカを中央図書館に連れていくことを約束させられた。

「成績優秀者グライ、ナンダ。勉強シロ。ソノクライノ努力、デキナイノナラコレマデダ」とリーカに言われ、うなずくしかなかったのだ。

 心なしか悄然としたマーユは、工房からの帰り道、ジュールやララスと宵闇のスラム街を歩いている。


「ねえララス。次の定期試験っていつだっけ……?」


「えっ……そういえば、いつでしたっけ」


 マーユのいきなりの問いに、ララスは少し慌てた様子で答えた。


「もしかして、ララスもあんまり熱心に勉強してない?」


「……そうかもしれません」


「賢そうに見えるのにな」ジュールが先ほどのエドランと同じことを言い、マーユにじろっと睨まれる。


「まあ、できないもの同士でも、助け合いはできるはずですよ」


「……でも私、授業自体をあんまり取ってない。たぶん、それだけでかなり不利」


「そうですねえ……」ララスは考えこんだが、少しして、割り切れたようににぱっと笑ってみせた。


「それでも、頑張るだけ頑張りましょうよ。頑張ってもダメなら、他の方法を試せばいいんです」


「他の方法?」


「ええ。たとえば忍び込むとか」


「ハハハ、そうだな!」冗談と思ったのだろう、ジュールが愉快そうに笑う。


「忍び込む……。あの石を使えば、できるのかな」対してマーユは、わりと真剣な口調で独り言を言った。

 ララスはそれを聞いて、少し驚いたような顔になる。


「おい! なんか来るぞ」


 そのとき、急に足を止めたジュールが、真剣な口調で2人に告げた。腰にぶらさげていた、短い警棒のような武器を握ると警戒の体勢になる。

 マーユはさっとララスの手を取るとジュールの後ろに連れていく。そしてジュールと背中あわせに、ララスを挟むようにして身構えた。場所はまだスラム街のなかで、周囲の建物はほぼ廃墟のようだった。


「人じゃないな。魔物か?」


 びちゃ、びちゃ、と濡れた足音がする。しかし暗いスラムの街路には、それらしき姿は見えなかった。


「どこにいる? お嬢見えるか?」


「うっすら」マーユは答え、ララスが「えっ」とつぶやいた。


「ジュール……来てる!」


「うす!」


 紫色のぼんやりした影のようなものが、ジュールの顔めざして飛び込んでくる。ジュールは右斜前のそれにすばやく棒をふるった。びしゃり、と音がして、襲撃者は空中で破裂するように消える。

 ぐっ、とジュールがうめいた。


「くせえ! 汚水だぞこれ!」


 ハッ、マーユが短く息を吐き、見えない襲撃者に得意の横蹴りを出す。紫の影はマーユの皮靴に一瞬まとわりついたあと破裂し、「うわ」とマーユは思わず後ずさった。

 

「弱いな」


「うん」


 ジュールとマーユは淡々と言葉をかわす。


「ね、ねえ、なんでそんなに慣れてるんですか?」ララスが震える声で言った。


「レドナドルでも、たまにへんなのに襲われてたからな。おもにお嬢が」


「えっ……なぜですか?」


「わかんない。体質かも」とマーユはなんでもないことのように答える。


「お嬢、まだいるぞ」


 ジュールがそう言うのに合わせるように、ぺしゃ、ぺしゃ、という足音がしはじめる。足音は急激に増え、マーユたちを取り囲むようにあたりに満ちる。相変わらず襲撃者の姿は見えない。


「ど、どうしましょう?」


「片っ端から蹴り倒す」


 マーユはそう言い前に出ようと踏み出し、ずるりと滑ってひっくり返りかけた。


「お嬢、こいつらぬめぬめしてるぞ。気をつけろ」


「気をつけろって……どう気をつけるの」


「あ!」とララスが大声を出した。


「火! 火が効きますよ! 油含んでるなら!」


「おお。……って、来てるぞお嬢!」


ジュールが、目の前でぶんぶん棒を振り回しながら言う。マーユは、ん、とつぶやくと横蹴りを出し、続いて回し蹴りでくるりと半回転した。破裂音が2回して、どろりとした水が飛び散る。


「……ああ、でも火なんてないですよね。混乱させただけです。ごめんなさい……」


 ララスがおろおろと謝るのに、「大丈夫」とマーユは言うと、いきなり大きな声を出した。


「<燃えるもの現れよ!>」


 マーユの両手の十本の指から、いっせいに細長い火が吹き出て火の棒のようになった。「おお!」とジュールが感嘆の声をあげ、ララスが息を呑んだ。

 マーユはすすす、と前方の空間へ進みながら、伸ばした両手とその先の火の束を、をすばやく前方に振っていく。ジュールはその後方で、死角を消すため棒を奮いつつマーユについて進む。

 前方の空間を炎の手刀で切り裂くようなマーユの戦い方は、効果抜群だった。ジュッ、ジュッと音がして、鬼火のようなものが燃え上がっては萎んで地面に落ちていく。戦いというより害虫駆除のようだった。

 数分で、足音は消え周囲はふたたび静まり返った。


「……使いたくなかった、これ。疲れるし、馬鹿みたいだし」


 大きく肩を落としてマーユがぼやくが、「久々に見た。すごいな、お嬢」とジュールは屈託なく褒め称えた。


「な、なんなんですか、今のは」呆然としていたララスが言う。


「<指の火>。火の魔術の基本だよ。これだけは使える」


「いや、指の火ってあんな魔術じゃないですよ! 驚きましたね……」


 ララスはよほど衝撃を受けたのか、うつむいて考え込んでいる。

 その手を、マーユは小さな子供のようなしぐさで引っ張った。


「ねえ、早く帰ろう。夕ご飯、食べそこねたら大変だよ」

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