第4話 猫背の少女(黒羽)
マーユがその少女にはじめて会ったのは、5月3週の週初め、ジュールと屋台めぐりをした翌々日の夕暮れ時だった。
マトゥラス商業学校の授業は選択制だが、マーユは最低限の授業しか取っていない。夕暮れ時になると時間を持て余すことが多く、かといって学校外には申請書類を書いて許可されないと出られない。
寮の部屋にいても仕方がないので、修練場と名付けられた学校隅の空き地で身体を動かしていることが多かった。
商人志望の子供が集まる学校なので、身体を動かす訓練に熱心なものは皆無である。修練場はたいてい無人だった。マーユはそこで黙々と徒手武術の型をやるのが日課になっている。
彼女の武術はレドナドルの小さな道場で初級だけを学んだ無名の流派のもので、母親のラホですら、彼女が武術に執着しずっと型稽古を続けていることを知らない。
「あの……」
マーユが中段蹴りを終えて右足を引き戻したときに、後ろから弱々しい声がした。
「これ、落としませんでしたか」
マーユはやや面倒くさそうに声の主を見た。制服を着た、背の高いひょろっとした少女が肩をすぼめるようにして立っている。ほっそりした顔にはこれといって特徴がなく、暗い栗色の髪はお下げに結われていた。その右手のひらに乗っているのは、紐付きの小さな革袋だった。
マーユはぎょっとして自分の首元に手をやり、上着の下に隠れていた袋を引っ張り出す。彼女が大切にしている袋はちゃんとあった。
それを見て、背の高い少女は申し訳なさそうな顔になる。
「あ、違いましたか……。ごめんなさい。よく似ていたので、てっきり貴女のものかと……」
気弱な微笑みを浮かべて謝る少女に、マーユは首を振ってみせる。
「いい。本当によく似てるし」
「ええ。革袋ですから似てるのは当たり前ですけど、縛り紐までそっくりですね……」
少女はそう言うと、手に持った袋をマーユの小袋にちょっと近づけてみせた。たしかによく似ていて、下手すると取り違えそうなほどだった。
「中は?」 とマーユが訊ねる。
「見てません。落とした人に悪いですから。でもちょっと重いので、お金か宝石が入っている可能性もありますね……」
その言葉を聞いて、マーユの眉が少しひそめられた。
「そう。なら、はやく届けないと」
「はい……。これから事務に届けます……。すみませんでした」
猫背をさらに丸めるようにして、少女は不器用にお辞儀をして立ち去ろうとする。マーユはその背中に「私も行くよ」と声をかけた。
「いえ、それは申し訳ないです……。あの、それに」
「なに?」
「こちらに歩いてこられているのは、貴女のお友達じゃないでしょうか……」
言われて校舎のほうを見ると、サリーがさらさらの金髪を揺らしながら、早足で修練場に近づいてきているのが見えた。自分は遅くまで授業を受けながらも、彼女はいつもマーユを気にして放課後に会いに来ることが多い。
サリーのほうに手を挙げて軽く振ってから、マーユは少女のほうを振り向いた。
少女の姿はもうなかった。
マーユはわずかに戸惑った様子で首をかしげた。
☆★☆★☆
翌日のマーユはずっと、校内を歩きながら何気なしに周囲を見回していた。しかし背の高い少女の姿は見つけられなかった。
その日も授業の予定はそうそうに終わり、マーユはまた修練場で型をやっている。激しく身体を動かしながら、鬱屈しているときに見せる、貼り付いたように無表情な顔をしていた。
「あの……」
昨日と同じように、後ろから弱気な感じの声がかかる。マーユはくるりと振り向いて背の高い少女に相対した。
「昨日は……お手数かけました。無事に届けてきたので、ご報告をと……」
「お手数なんてかけてない。頭、下げる必要ないよ」
お辞儀する相手に、マーユはちょっと呆れたように首を振る。
「それより……中身はわかった?」
「はい。ちょっとした硬貨と、石がいくつか。上級生のものじゃないかと、事務の方はおっしゃってました」
「石……」 マーユは小声で呟く。
「はい。でも、宝石とかじゃないです。土産物の材料になるような、きれいだけど安いものですね」
「事務の人がそう言ったの?」
「いえ。あの……私の家は、ずっと北西のほうにあるんですけど、石とかを売り買いしてるので。小さい頃から石は見慣れてますから、見たらだいたいのことはわかります」
それを聞いて、マーユは小さく口を開けたまま固まった。「あの……?」と少女が声をかけても動かない。
「……ちょっと待って。考えるから」ようやく口が動いた。
「……は? は、はい……」
猫背の少女は曖昧にうなずくともじもじと身をよじり、マーユの次の言葉を待つ体勢になった。
「……お願いがある。いまははっきり約束できないけど、ぜったい受けた恩は返すから、できれば協力してほしい」
「は、はあ……。同じ学校の生徒ですし、できることならやりますが……。あんまり無茶なのは……」
「石について詳しい専門家を知っている?」
「えっ……マトゥラスで、ですか? えーと……あの、はい、直接の知り合いではないですけど、家の知り合いなら」
「お願い。その人を、なんとか紹介してほしい」マーユはすっと頭を下げる。
「えっ……。は、はい。石についてお困りなんですか……?」
「いまは話せない。専門家に会えたら、話せるかもしれない。こんなお願いの仕方で、ごめん」
「いえ、事情があるんでしょうから、いいんですけど……。あの、それより」
少女はマーユの顔を下から覗き込むようにして、内気な感じの微笑みを見せた。
「まずは……お互い、自己紹介しませんか?」
「あ。ごめん、気が焦って」マーユは情けなさそうな渋面になった。
「私はマーユ・ドナテラ。レドナドルから来た」
「はい……。実は、知ってました。マーユさんはけっこう目立ちますから」
「そう」とうなずくが、マーユは自分の知名度には何の関心もないようだ。
「私は、逆なんです。昔から地味で、目立たなくて……。名前はララス。ネート商会の三女です」
こうしてマーユ・ドナテラはララス・ネートという少女を、自分の望みに巻き込んでゆくことになるのだった。
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