第28話 奈落へ
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大精霊長の命令で煮え立つ大鍋の中に落とされた僕は、いま鍋の底にいる。
真っ暗な鍋の底で、僕の身体は踊りつづけてる。
沸騰するスープに押され、揉まれて。
そう、鍋のなかの液体は、お湯じゃなかった。味がついてた。
ごく薄い塩味だけど。
鳥って塩味のついたもの大丈夫なんだろうか……。
僕はやけに冷静な……というより、諦めきった気持ちで、そんなどうでもいいことを考えてた。
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自分がどのくらいの時間、こうして孤独に踊りつづけてるのか。もう僕にはわからなくなってる。
たぶんごく短時間なんじゃないかと思う反面、ものすごく長い時間が経ってしまってる気もしてくる。
腰に岩の重しがついてるから、身体は浮き上がれない。
手足と首だけが、水流に巻き込まれて痙攣したように動きつづける。
対流するスープは僕のうつろな顔のなかにも胸郭のなかにも満ちて、僕という存在をまるごと洗い煮沸しようとしてる。
結界石は全力で光って危機を告げてるけど、どうしようもなかった。
ただでさえ軽い僕の身体は、重しに縛り付けられて抵抗不可能だ。
この状況を自力で引っくり返せるような術も力も、僕は持ってない。
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……僕にだって。
自分がひどい、理不尽な目にあってるってことはわかってる。
あの巨大な鳥と、僕を追い込んだ者たち……たぶん、その中心にいたのはネテラさんだ……に、心の底からの怒りを感じるべき、なのかもしれない。
実際、胸をつく黒ずんだ衝動みたいなものが、僕のなかに、全くないわけじゃない。
でもそれは僕のなかで、ひとつの感情にまで高まっていかなかった。
怒りに燃えるには、あまりに、僕の身体と思考は冷えきってた。
……僕は。
沸騰するスープで茹でられてるこの瞬間に、寒さを感じてるんだ。
猛り狂うような熱湯の渦のなかで、無意味に踊りながら、震えてるんだ。
寒くて。
しいんとした、取り付くしまもない冷たさに、身体も心も支配されて。
体験したら、わかると思う。いや、普通は体験する機会なんてないんだろうけど。
これほど……心折られることってない。
僕は……たぶん、根源的なところで、この世界から外れた存在なんだ。
僕には最初からなにかが欠けてて、なにかが狂ってたんだ。
だって、こんな状況に立ち至っても、僕にはなにも感じられない。
寒い、ということ以外、なにも。
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僕は誰なのか。どこから来て、なぜここにいるのか。
……そんな、僕がずっとこだわってきた疑問。
包帯さん。ダニスさん。マーユ。ラホさん。ルズラさん。ガジルさん。ライダナさんにフェイデさん。リーカ。それにネテラさん。僕が目覚めてから半年ちょっとの間に、僕に話しかけてくれた人たちの記憶。
そしてナドラバ。
ひっそりと絶望していた少年が、僕に残していった、静かな湖みたいな記憶。最後の、優しい感謝の気持ち。
……そんなものたち。
これまで、僕が大事にしよう、大事にしたいと思ってきた、いろんな事柄。
それらが、この鍋の底で、急速に価値を失っていく。
そうだね。
もっと、はっきり言おう。
全部、どうでもよくなった。
だって、もうすぐ僕は消えるから。
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真っ暗な鍋の底で、僕は自分の底にずっとあった、目を背けて見ないようにしてた感情とはっきり対面する。
僕は……消えたいんだ。
自分の不安定さといびつさに耐えられずに、僕という存在を消してしまいたいと願ってたんだ。
心の奥では、ずっと。
もう認めよう。認めるべきだ、僕は。
土のなかで目覚めた瞬間から、僕は本当はずっと、あの地中に帰って、また眠りたかったんだ。
生者のふりして動くことが……つらくて仕方なかったんだ。
僕を打ちこわし、消してくれる者。それを、僕は無意識のうちに待ってた。
あの湿地帯の夜。ミミズと魚の中間みたいな怪物に飲み込まれたとき、僕が願ったのは……助けてくれってことじゃない。
痛くなく滅ぼしてくれってことだった。
包帯さんやダニスさん一家やルズラさんの言うがままに行動して、彼らの役に立とうってことばかり考えてたのは、それ以外に、僕がこうして動いて思考してることの意味が見いだせなかったからだ。
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だからこれは、救済だ。
僕が、このスープの中に煮崩れて溶けてゆくことは。
あの鳥に感謝なんてしないけど、僕はどっかで喜んで安堵してる。
死と消滅を、僕は望む。
死と消滅を。
死と消滅を。
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……ぶわっ、と身体が温かくなる気がした。
自分の本心を認めたとたん、僕はなにかから解放された。
わかる。僕のなかにあるものが、どんどん溶け出してる。僕の骨はやわらかくやわらかくなってゆく。
ああ、消える。消える。僕は原形を失ってゆく。それはなんて安らぐことだろう。
あ。
ナドラバの奥義が、勝手に発動した。
僕のなかにわずかに残ったナドラバが、抗議してるのかもしれない。
ごめんよ。でも、これは僕の身体なんだ。
(……樹のうろのなかの粗末な寝床……横たわる小柄な誰か……鼠……鼠の顔をした男……巨大な何者かの咆哮……壊死した左脚……スープ……キラキラするスープ……)
見たことのないイメージが、僕の左眼を走り抜けていく。
これは僕の、なくしてしまった記憶のかけらなんだろうか。
最後に左眼が映し出したのは、琥珀色に輝く、カップに入ったスープだった。
僕が、地中で目覚める直前に見ていた夢。そこに出てきた、あのスープ。
……なんなんだ。
僕はスープ好きの少年の魂を受け継いで、スープのなかで煮られることになって、それでまだスープの幻覚を見てるのか。
どれだけスープに取り憑かれてるんだ、僕。
もういいよ。やめてくれ。
……そう思ったとたん、左眼は映像を映さなくなり、鍋の向こうにいるはずの、巨大な鳥のシルエットを映し出した。
そうか……鍋を透かして、グレド=アインが見えてるんだ。
ぼんやりした青にうっすら光る巨体が、勢いよく翼を羽ばたかせてるようだった。
喜んでくれてるようで、なによりだよ。
あの鳥がなにを考えなにをしようとしてるか、もう僕には関係ない。どうせ、液体に溶けてこの世界からいなくなるんだ。
死と消滅を、僕は望む。
死と消滅を。
僕はそれ以上、考えるのをやめた。
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…………なんだろう。
グレド=アインの影が、激しく暴れてる。
そして……なぜか、光のあちこちが欠けはじめてる。
輝きはじめてた全身の青が、ウロコが剥がれるようにぽろぽろと欠片になって下に落ちてるのが見える。
どうしたんだ、鳥さん。
あ。
とうとう、左の翼が剥がれ落ちた。
僕はそれを、平静そのものの気持ちでただ見てる。
僕の身体がいまどうなってるか、もう自分でもさっぱりわからない。
そのとき。
僕の顔のすぐ下にあった鍋底が、激しく揺れた。
僕の視点が真上を向き、急上昇する。
なんだ。重しが外れたのか?
……いや違う。
僕の頭が、身体から外れたんだ。
顔が、スープの表面に浮かび出た。
空が見える。なにもない晴天が見える。
まぶしくて、涙が出そうになる。
僕は……消滅だけを望んでたというのに。
いまさら、青空を見て泣きたくなるなんて。
<<それを……早く! 早く……なんとかしろ! ……それが諸悪の根源だ!>>
グレド=アインがわめいてるのが聞こえた。さっき話してたときとはまるで口調が違う。そっちが本性か。
「おいどうなってんだやべえぞこれこれやべえやべえやべえ、てめえこの野郎なにしやがった骨野郎許さねえぞクソが全部おじゃんじゃねえか俺の苦労を返せ骨野郎クソが!」
ガリアスの声。僕のせいらしい。
……知らないっての。
鍋がどこかへ動き出す。ゴーレムが掴んで動かしてるのか。
スープの湯気と大波のなかで、顔だけの僕は嵐のなかの小舟みたいに翻弄される。
もうさ。
笑っちゃう。あんまり理不尽つづきで。
たぶん僕は、少しだけ笑顔になってた。
鍋が傾く。
あ。
ようやく、空以外のものが見えた。ザグ=アインから見下せる世界の姿が見えた。
そうか。この頂上の尖った断崖は、北東……マードゥ混成国のほうを向いてたのか。
特徴的なあの半リング状の樹が、遥か遠くに連なってるのが見えた。
その手前に、ぼこぼことうねる赤茶けた土地。僕らが暮らしたドゥラカスの荒れ地が。
さらに視界の右には、あの怪物に襲われた湿地帯が見えた。
ドゥラカスのはるか向こうには、蒼黒い海がひろがってる。ああ、ホルウォートってやっぱり島だったんだな。
(……えっ。)
そして。
そのとき、僕は見たんだ。
「赤い光」を。
ナドラバの奥義がまだ発動されてる左眼に、その光は映ってた。
マードゥ混成国の真ん中あたり。
地中から垂直に立ち昇る、巨大な柱みたいな赤い光が、たしかにあった。
ねえ、大精霊長グレド=アイン。
あなたが探し求めてた赤い光は、あなたからすぐ見えるところにあったんだよ。
見る目さえあれば。振り向くだけで、見つけられたんだ。
<<早く! 早く処分しろ、それを!>>
その鳥は、悲痛な声でわめく。
ほんと申し訳ないんだけど、僕は今度こそ大笑いしそうになった。
僕に大笑いができるかどうかはさておいて。
こんな愉快な気分で死ねるなんて、思わなかった。
「骨野郎! クソ地霊! 死ね! 死ね死ね死ね!」
ガリアスが怒鳴る。
もう、次に何が起きるのかはわかってた。
鍋が一気にひっくり返される。
僕は、大量のスープとともに空中へ投げ出された。
そして、これから自分が落ちてゆく先を見た。
それは、ザグ=アインの山々の隙間にある暗い縦穴だった。
奈落までつづくような、真っ黒な大穴。
なぜ、山脈のど真ん中にこんな穴があいてるんだろう。
……考えても仕方ない、か。
だってもう、落ちはじめてる。
僕と一緒だったスープはあっという間に空中で霧になった。
首のない僕の身体が、僕の斜め上を力なく落ちてるのが見えた。
結界石は光を失ってた。
数秒後には僕は粉々に砕けて、たぶん一巻の終わりになる。
人間なら気を失えるんだけど、僕は意識を保ってなきゃいけないんだろうか。
せめて、痛くないといいな……。
そんなことをぼんやり考えながら、僕は、奈落へと落ちてゆく。
結論からいうと。
僕の意識は落ちるあいだ、ずっと保たれたままで。
そして、なぜなのかはわからないけど、痛くはなかった。
暗闇のなか、自分が砕け散る感覚だけがあって。
僕の意識は、そこでやっと失われた。
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