最終話 届かなかった報告……ザグ=アイン
大精霊長グレド=アインは、誰よりも高いところを好む。
それゆえホルウォートでもっとも高いザグ=アイン最高峰の、さらにもっとも高所にある断崖の端を座所と定めていた。
そのいつもの場所で、大精霊長は上機嫌であった。
黒鉄の大鍋を前に、甲高い鳴き声を時おりもらしつつ、ぱさり、ぱさり、と翼をゆっくりはためかせている。
<<おほお、よい匂いがしてきたぞ! 転生の力を秘めるというスープ、期待できるな。>>
グレド=アインは外部の者相手だと固い口調だが、普段は重みのない調子で話す。
「そうかね俺にはなんの匂いもしねえがね、ほんとに転生の力とやらがあんのかいあの骨野郎によ、もっとあれこれ聞かなくてよかったのかいボス、あとクソ地霊は殺さなくていいのかい」
答えるガリアスクスの言葉はいつものように情報がごちゃまぜで混乱している。
<<おまえにはわからないだろう。が、「最初の七」である俺にはわかるのだ、骨の子のノウォンにはたしかに俺と同じ「最初の七」の力が残っているのがな。もとは兄弟だった者の力だ……。>>
「へえそんなもんかいその兄弟が敵同士になって大変だなおい、ヒャハハハハハ! じゃああのクソ地霊も殺そうぜボス、あんたならできるだろ」
<<黙れガリアスクス。ただの黒曜石が出すぎたことを言うな。……おまえから先に殺すぞ。>>
グレド=アインは大きく翼をひろげて威嚇してみせた。
「へ、ジョークじゃねえか怒るなよボスおとなげねえおとなげねえ、ほらそろそろいいだろためしに飲んでみろよほらほら」
ガリアスクスは一瞬で萎縮して話題を変える。
私……闇霊は、鍋の上方に移動し中を見た。骨の子は、たしかに鍋の底にいて、無抵抗にゆらゆらと揺れていた。
<<む、そうだな。……では、味見といくか。>>
グレド=アインが一声鳴く。鍋にたまった液体の一部が、にゅう、と蛇のように隆起した。それはそのまま、開いたグレド=アインの嘴に向けて伸びてゆく。
コロコロコロ……と喉を鳴らしつつ、グレド=アインはその熱湯の蛇を飲み込んだ。
<<……む?>>
不満げな声が漏れた。
<<味が薄い……。思ったほどではないな。……煮込みが足りぬだけならいいのだがな……。>>
「おいおいネテラも俺もあんだけ苦労して連れてきたエモノだぜそれが期待はずれじゃ俺ら報われねえだろ、だからクソ地霊ぶち殺そうぜなあ」
<<黙れガリアスクス、おまえの言葉を聞いていると頭が痛くなる。……む。>>
一瞬、考え込むように首を傾げる。
やがて嘴が少しずつ開いてゆき、ついにグレド=アインは、かあああああ! と大声で鳴いた。
<<かかかかかか! 俺の勘違いだった! このスープの力……たしかに、たしかにこれはモルタの力だ! 「最初の七」の最後のひとりにして、みそっかすなネズミの小僧! かかかかかか! 奴が隠していた力は……これほど特殊なものだったのだな! 転生の力……なるほど! その表現が正しいかどうかはともかく、これは稀少な力だ! かかかかかか!>>
鍋の水面からまた水蛇が飛び出し、グレド=アインの気分を表すように螺旋を描きながら嘴にむけて駆け上ってゆく。それを飲み込んで、わがあるじはまた笑う。
<<この力があれば、「最初の七」の指導者になることもできただろうに! 女神ノールの伴侶にすらなれたかもしれんというのに! 馬鹿な生き方をし、馬鹿な死に方をしたものだ、モルタ! かかかかかか!>>
翼がばたばたと激しく動き、鍋を押さえているガリアスクスのゴーレムが風を受け、ずず、とわずかに足を滑らせる。
「おいいいいいい嬉しいのはわかったから少しおとなしく飲んでくれやボス!」
<<ガリアスクス! 鍋に水を継ぎ足せ! 忘れずに塩も入れろ!>>
「俺の言うこと無視すんなやボスそういうの俺はいちばん傷つくんだよ繊細なんだよわかるかボス!」
<<かかかかかかか! いい! じつに、じつにいい! 俺のノウォンが沸き立っているぞ!! これは存在を蘇らせる力だ! 生命を再生させる力だ!! 想像以上ではないか!!!>>
グレド=アインの顔はいまや真上を向くほどになり、胸をそらして笑いつづけながら、鍋から垂直に立ち昇り嘴に向けて落下してくるスープをごくごくと飲んでいる。
<<この力が加われば、俺もとうとう「赤の円輪」を見つけられるぞ! そうなればこっちのものだ! ホルウォートに秘められた三つの古き偉大な力のひとつが、とうとう俺の手に!!!>>
ばさばさばさばさ! と翼が激しく羽ばたき、ゴーレムの一体が耐えきれず風圧で転がっていく。
<<もう、グルーニやレメルディに好きなようにはやらせん! 「最初の七」でもっとも偉大なのは、この俺! 女神ノールの魂を得るのは、この俺! ホルウォートのいと高き座に君臨するのはこの俺よ!>>
かああああああ! と天に響く高い声で鳴くグレド=アインは、上機嫌を通り越して、異様な熱狂のなかにいるように見えた。
<<……そうだ! 俺は! 俺たちは! 女神を裏切ったのだから! あのひとが定めた理に逆らい、我を通したのだからな! ならば全てを得なけければならぬ! 全てをだ! でなくては裏切った意味がない! あやつらに……豚や蝶や木に負けるものか! 俺は勝つ! 俺は……ああ……俺は勝つぞ! 勝てるのだ、これで!!!>>
「おい、おいおいおいボス!おいおいおいおい大丈夫かよボスおいなんか変だぞおいそれやべえの入ってんじゃねえのかおい!」
ガリアスクスの声をかき消すように、グレド=アインの鳴き声はしだいに濁り、ガアアアアアア……! という地を震わす声に変化してゆく。ガアアアア!ガアアアアアア!! とすさまじい大音声が響き、そして
<< …………カ?>>
突然止まった。
空中を踊り狂っていた水の蛇が、とつぜん姿を崩した。
一瞬で空中にひろがり、ばしゃり、と打ち水のように地に落ちてくる。ガリアスクスはそれをまともにかぶり「なにしてんだクソボス!」と思わず度を越えた罵声をはなった。
グレド=アインは、喉をそらし翼をひろげた姿勢のまま、凝固したように止まっていた。
<<……なんだ。なんだ……これは! いま! ノウォンが変わったぞ!>>
さっきとはあきらかに異なる、切迫したしわがれ声がした。
……最初の数瞬、それはまるで雪が降りはじめたように見えた。
グレド=アインの全身を覆う純白の羽が、その身体を離れ舞い散ってゆく。
<<…………あっ…………ああっ…………>>
両翼の羽は嵐の夜の吹雪のように空中を埋め尽くして舞い、グレド=アインの姿を覆い隠す。
<<…………な……なんてことだ……! 死……死のノウォン……! ぐうううううううう……!!>>
そのうめきを聞いたとたん……私は、とっさに鍋から距離を取った。
遠く、遠くへ。鍋が小さく見えるところまで。
……おそらく、それが私という存在を、即座の消滅から救った。
はるか下で、ガリアスクスが崩折れるように地面に倒れるのが見えた。
「湯気だけで……湯気だけでやべえぞこれおいどうすんだボスこれやべえぞやべえぞ!」
<<……罠か! 罠なのだな! ……誰の……誰の罠だ! モルタか! 貴様かモルタ! ……滅びの……滅びの……ああああああ……!>>
グレド=アインの巨体の左側が、ばさり、と音を立てて消えた。左の翼が落ちたのだ。
翼は断崖の下へ落下し……その途中で、無数の羽根にばらけて空に舞い散ってゆく。
<<……この俺が……「最初の七」が……こんなことで! こんなところで! 滅びる……そんなことがあるかっ!!! ガリアス……それを……早く! 早く……なんとかしろ! ……それが諸悪の根源だ!>>
「おいどうなってんだやべえぞこれこれやべえやべえやべえ、てめえこの野郎なにしやがった骨野郎許さねえぞクソが全部おじゃんじゃねえか俺の苦労を返せ骨野郎クソが!」
這いつくばり唸りもだえながら、ガリアスはゴーレムを動かす。黒い大鍋がずずず……と押されて断崖のふちに近づいてゆく。
鍋のなかに、あの骨の子の顔が浮かんでいるのが見えた。
骨の子は、笑っていた。
ああ。笑っていたのだ。
私は……任務に徹する名もなき報告者以外の何者でもなかった私は……そのときはじめて、心底からの恐怖を感じ後悔した。
この唐突な滅亡の光景が、骨の子の意図したことなのかどうか、私にはいまだに判断がつかない。
だが、ひとつだけ、自分がもっとも重要な点についてなにも理解していなかったことを、私は頭だけの彼の笑いを見た瞬間に悟った。
骨の子と、骨の子の持っている力は……私が考えていたより、はるかに、はるかに危険だったのだ。
それは、世界を変えてしまうかもしれない、本質的ななにかだったのだ。
そのことを、私はもっと早く知り、あるじに警告すべきだった。
私たちは……手を出すべきでないものに、手を出してしまったのだ。
<<早く! 早く処分しろ、それを!>>
詰まったような声でグレド=アインは絶叫する。右の翼も無数の羽毛となり、彼はもはや鳥には見えなかった。それは出来の悪い、溶けかけの雪だるまのようだった。
「骨野郎! クソ地霊! 死ね! 死ね死ね死ね!」
ガリアスの罵倒とともに、鍋が断崖のふちでひっくり返された。
骨の子の頭と身体は別々に、空中へ放りだされた。
私は、はるか上空からただ見つめていた。すさまじく怯えながら。
落ちてゆく骨の子の笑い顔がいっそう大きくなり、彼が哄笑しながら地の底へ消えてゆくのを。
……なんという狂気。なんという呪詛。
私は、半年以上見つづけていながら、彼の本質を何も理解していなかったのだ。
そして、その報いをいま、受けようとしている。
<<ああ……ああああ! あああああああああ!!!!>>
グレド=アインが身も世もない悲鳴をあげた。脚が、腹が、もう羽毛となり空に飛び去っていた。空中に残る、首から上だけの巨大な猛禽。それが嘴を限界まで開き、蒼穹に向かってひたすらにわめく。
<<ああ……死にたくない……!! 俺は……なんのためにノールを……死にたくない! 死にたくない!! 許してくれノール、俺にもう一度……>>
言葉は最後まで言われずに途切れた。
最初の七として数百年の時を生き、大精霊長を名乗りザグ=アインに君臨したグレド=アインの姿は、もうそこにはなかった。最高峰の上空を、莫大な数の羽が舞い踊る。それだけが彼がいた名残だった。
(きえる……)
(きえる……きえる……)
(あはは……)
(……きえる……)
羽の間を、光の玉がつぶやきながら天へ上ってゆく。グレド=アインによって与えられた、精霊たちのかりそめの命が消えてゆく。地上の断崖のふちでは、地霊ガリアスクスだったものが転がっていた。
黒曜石のかけら、それが彼の最初で最後の姿だった。
階段の下のあたり……ルズラヴェルムとネテラヴェルムが閉じこもった地下のあたりで、すさまじい地響きがした。
琥珀色の光が、さあっと天に立ち上る。間違いない。あれは、ルズラヴェルムの魔力だ。
だが……どんな力があろうと、彼女にもう、残された時間があるとは思えない。
彼女もまた、どこまでもグレド=アインによって形作られたものだったのだ。
もはや……彼女たちは、人の形をしてはいないだろう。
そして私もまた、もともとの姿……すなわち、一枚の黒い羽に戻っていた。
これから、グレド=アインの羽にまぎれ、いずこかへ漂い流されてゆくことになるのだろう。
私の意識がどこまで保つか、それはもう、誰にもわからない。
だからここで、あるじに届かなかった最後の報告を終わる。
世界よ、さようなら。私の任務は失敗であった。
<第3章 完>
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