桃香のスポンジ
「その中では、自分が思うヒーローの姿に変身するんですけど……私、わたし………お姉ちゃんの姿だった。あの頃の、お姉ちゃんの」
「そうですか」
柔らかな声だ。その声が、喉の詰まりをそっと押し流す。心に留めていたものが、溢れ出してしまう。
「ショックでした。私、まだ心の中でお姉ちゃんに頼ってる……この歳になっても、まだ」
心ならずも、大きくしゃくり上げてしまう。本当にいい歳して、恥ずかしい。でも止められない。
「だからいまだに、何も言ってくれないんでしょうか。私が頼りないから、姉は大丈夫な振りをしてるの? 弱音も吐けないの? だって、辛くないはず無いのに。絶対に辛くて悲しいはずなのに、涙も見せない。落ち込みもしない。それどころか、いつもおどけて私を笑わせようとするの」
ふむ、と院長はわずかに首を傾げた。
「それじゃあ桃香さん。お姉さんに泣いて欲しいのですか?」
「え?」
「悲しみに身をよじって泣き叫んだら、安心しますか? 辛い、助けてと訴えれば満足ですか?」
「そんなんじゃありません! 私はただ、ただ……」
桃香は途方にくれたように、視線を彷徨わせた。タオルを握っていた両手はいつの間にか力を失い、膝の上で所在なさげにしている。
「わたし、どうしたいんだろう……そういえば、梨花が目覚めるかどうかってことと、その先の心配ばかりしてた……まさかあんな風に、淡々と全てを受け入れるなんて、思ってもみなくて……」
そう。最初は「やっぱり梨花は梨花だ~」ってホッとした。あっさりと江木くんを許したことも、ちょっと驚きはしたけど安心した。
でも。さすがに何日か経ったら、いくら梨花でもガツンと落ち込むだろうと身構えてはいたのだ。
なのに梨花は……両親の事故の話や墓参りの算段なんかまで、冷静に話すのだ。多少視線を落とすことはあるけれど、取り乱したりはしない。却ってこっちが不安になるくらいに。
「僕は思うんですけどね」と、院長は膝の上で両手を緩く組み合わせた。桃香から視線を外し、交互に重なった自分の指を順番に点検しながら話しているみたいに見える。
「……ショックや悲しみというのは、大きければ大きいほど、受け入れるのは難しい。それが我が身に起きた時、ひとは打ちのめされて絶望したり、現実逃避に走ったり、何かに八つ当たりしてみたり、もしくは即座に立ち向かったり……様々です」
自分が言ったことを反芻するように、目を閉じて小さく頷く。その僅かな間に、桃香ももう一度彼の言葉を辿り直した。
「梨花さんの場合はきっと、事実は事実としていったん頭の中だけで受け止めて、少しずつ少しずつ、現実を心の中に受け入れようとしているんじゃないでしょうか」
院長は点検を終えた両手で、頭の上でボールを受け止め、それを胸の中へゆっくりと押し込むような仕草をした。
「桃香さんの心配するとおりです。この10年の出来事は、いっぺんに受け入れるには重すぎる。だから心を硬く、うんと硬ーくしてブロックしている。以前と変わりないみたいに振る舞うことで、心を守っている。そしてこれから時間をかけて少しずつ、その衝撃を心の中に浸透させていく」
「……硬いスポンジが、じわじわと水を吸い込んでいくみたいに?」
「そう、いい例えだ」院長は微笑んで、ソファの背にもたれた。
「10年ぶんですからね」院長は繰り返した。
「私たちにとっては一日一日の積み重ねですが、彼女にとっては……しかも、心は高校生のまま」
……ずっしりと満たされたスポンジからポタポタと水が垂れてくる映像が、頭に浮かんだ。心のスポンジが受け止めきれなくなった水。でもその水は、元の水じゃない、と桃香は思った。心のスポンジを通った後の、滴だ。その滴が、梨花の涙なの?
「スポンジがいっぱいになっちゃったら?」
「それはその時に考えることです。皆で一緒に乗り越えましょう」
微笑みを大きくし、頷く。目元の笑い皺が深まった。
「いくら聡明とはいえ、梨花さんの心はまだ高校生です。焦らず、ゆっくりいきましょう。大丈夫ですよ、きっと。あなたが常々言っていたとおり、彼女は強くて賢い人だ」
でも、と言いかけるのを、院長のやわらかな微笑みが押しとどめる。
「桃香さんはそばにいて、普通に接してあげるだけで充分。あなたが存在しているからこそ、梨花さんは強く居られるんです。それが強がりだとしてもね」
桃香は弱弱しく頷いた。不安げに膝に視線を落とす。
「長子というのは、そういうものなんです。弟や妹を守るために、いくつになっても踏ん張って、頑張るんです。あ、もちろん皆がみな、そうというわけではありませんよ?」
もちろん、それはわかります。という思いを込め、桃香は二度頷いて先を促した。
「その点で、梨花さんと僕は似ているかもしれません。要はね、カッコつけなんですよ。弟妹にいいところを見せたいだけなんだ」
院長は胸に手を当て、わざとらしく重々しげに頷いた。
「長子である僕が言うのだから、間違いありません」
力の抜けた笑いが漏れた。そして肩の力も一緒に抜けたのがわかった。
「じゃあ私、心の中でお姉ちゃんに頼ってても、いいんですね」
「そうそう。梨花さんだって心の中では、いまでも桃香さんは小さな可愛い妹なんです。ムーグゥでのことを話したら、梨花さんむしろ喜ぶかもしれませんよ?」
桃香はそれを想像して、また少し笑った。お姉ちゃんなら、「そりゃそうでしょ」ぐらい言うかもしれない。ちょっと得意げなのを隠しきれない顔で。
「さて、そろそろ時間かな」
気づけば一時間近くが経過していた。桃香は急いで、丹念に顔を拭い髪を整えた。
「さっきも言いましたけど、くれぐれも無理させないようにね。普通に接するとは言いましたけど、あれは気持ちの持ちようという意味です。」
立ち上がりかけて膝をつかんだ姿勢で、院長は強調する。
「あなたたちご家族の10年に及ぶ献身の甲斐あって、メキメキ体力回復してるんですから。彼女が無理しそうになったら、体を張ってでも止めてください」
それなら大丈夫。体力には自信がある。桃香は頷いた。それを受けて院長も頷きを返し、立ち上がって伸びをした。そして苦笑まじりにため息をつく。
「何せ彼女、『なんか知らないけど、無性に北海道に行きたい。だから頑張る』って息巻いてるんですよ」
またもや湿ってしまったタオルをテーブルに置いた姿勢で、桃香は固まった。
……お姉ちゃん、あのときのマッサージで話しかけてたの、聞こえてたのかな………
今までの全部、きっと無駄じゃなかった。マッサージも声かけも、江木くんの気持ちも、全部。
お父さん、お母さん。私たち、大丈夫みたい。
その日の晩、仕事から帰った亮介が見たものは、居間で抱き合って眠る姉妹だった。ソファとテーブルの隙間にぎゅうぎゅうに挟まっている。
おそらく泣きつかれてそのまま眠ってしまったのだろう。ふたりとも、頬に涙の跡が残っている。それなのに、何故かその寝顔には安らかな微笑みが浮かんでいた。
起きているときはそうでもないのに、不思議にも眠っているときの姉妹は驚く程よく似ていた。
テーブルを動かしてスペースを広くしてやり、毛布をかける。ふたりが目を覚ます様子は無い。
……うんと美味いオニオングラタンスープを作ってやろう。泣いた後は腹が減るからな。
亮介は滲む涙を拭いながら、足音を忍ばせてキッチンへ向かった。
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